24 疑惑
その夜、アリシアは厨房の横にある洗濯室を訪れた。思った通り、礼服に糊付けをしているローザの姿があった。
小鉢に山盛りのさくらんぼを渡すと、ローザは嬉しそうに笑った。
二人で洗濯室の端にある小さなテーブルを囲む。旬の果物は甘みが強い。ローザはさくらんぼを美味しそうに口に放り込みながら話した。
「ここの果樹園のものではないのよね。どこかで買ってきたの?」
「今日は休みで街へ出たので、そこで買いました」
「そう。どこへ行ったの? リフレッシュできた?」
尋ね人屋を見つけにいったとは言いづらい。アリシアはあいまいに笑い、話題を変えることにした。
「ローザさんの娘さん、妊娠しているんでしたか?」
「そうよ。もうすぐ生まれる予定。うちの娘なんだけどね、名前がフルールというのよ」
フルール、とは天使の名前である。
「綺麗な名前ですね」
「私がつけたんだけど、初めての子だったから少しはっちゃけちゃったのよね。今思えば畏れ多い名前だわ。でね、娘が結婚して名字が変わって『ミルザ』になったの。フルール・ミルザ」
「えっ……」
ミルザ、とは牛の種類の一つだ。だからつまり――。
「牛の天使、という意味の名前になっちゃったのよ。おもしろいでしょう」
豪快に笑う。アリシアは笑っていいのかどうかわからず、あいまいに頷いた。そして取りなすように言う。
「あっ、でも私の苗字と一文字違いですよ。私は『ミルズ』です。アリシア・ミルズ」
「あら、そうなの?」
ローザは目をぱちくりさせて、記憶を探るように首を傾げた。
「偶然ねえ。確か、前にいた子も名字が『ミルズ』じゃなかったかしら?」
「えっ?」
今度はアリシアが目をぱちくりさせる番だ。
前にいた子、とは誰のことだ。
「アリシアが雇われる前に辞めちゃったから知らないだろうけど、前にも女の子を大聖堂で雇っていたのよ。その子で、ハンナで、次がアリシア。そういえば三人とも似たような年齢ね」
アリシアは驚いた。ハンナの前にも雇われた女性がいたのか。初耳である。
「その子はいつ辞めたんですか?」
「うーんと、アリシアがくる少し前かしら。雇われたと思ったらすぐに辞めていったのよね。アリシアと同じで、悩み相談や修道士たちの手伝いをヒューイ司祭様が頼んでいたんだけど、修道士たちからも悩み相談の信者たちからも非難が殺到したそうよ。でも気の強い子でね、落ち込むどころか『こんな場所は私には合わない』と怒って辞めていったとかなんとか」
あれ、と心の隅っこで何かがこつんと当たった。小さな違和感だ。
「でも悩み相談や修道士たちの手伝いをしていたのはハンナだったんじゃ……?」
「ハンナ? そんなわけないわよ。あの子は雇われた当初からあんな感じだったわ。誰が見ても、修道士たちの手伝いはまだしも相談役は無理だとわかるわよ。ハンナは最初から筆写室担当だったわ」
「えっ? だってヒューイ司祭様が――」
そこで思い当たり、違和感が大きくなる。アリシアもハンナも雇ったのはヒューイだ。その子もおそらくそうなのだろう。
どうして嘘をついたの……?
ヒューイは、文句を言われた子はハンナだ、と言っていたのに。
考え込むアリシアの前で、ローザがさくらんぼを三粒いっぺんに口に入れた。
「アリシアはチェスター出身だったかしら?」
「あっ、はい」
「その辞めた子はね、確かサラスブルク出身だったわ。親戚が住んでいる街だから覚えてるのよ」
アリシアは動揺した。
サラスブルクはチェスターの隣街である。都市シャルドには遠く及ばないが、チェスターよりは人口が多い街だ。そしてアリシアの兄が勤めていた教会のある街だ。
共通点は都市シャルドの近隣の町出身で、同じ年くらい。名字は『ミルズ』
チェスターやサラスブルクといったシャルド周辺の町や村では、ミルズは比較的多い名字である。だから、それだけといえばそれだけだ。
けれどわざわざ同じ条件の女性を雇った。これは偶然なのだろうか。
納得できないモヤモヤとしたものが、胃の底からゆっくりとのぼってくる。アリシアは聞いた。
「ローザさん、ハンナの名字を知っていますか? それと出身地も」
「ハンナの?」
目を見張り、そして豪快に笑う。
「知るわけないわ。というかハンナと話したこともないもの。最初は色々と話しかけていたけど、全て素通りされてね。あきらめたわ。――あら、もうこんな時間。長いこと引き留めちゃったわね。アリシアもそろそろ戻った方がいいわよ。さくらんぼをありがとうね」
アリシアは違和感を抱えつつ、自分の寝室へ戻った。
翌日の朝食後、ラウルに呼ばれた。
「今日の午後、ヒューイ様が司式をする洗礼式があるんです。これからその準備を僕とヒューイ様でするんですが――」
そこで言葉を切り、両手で自分の目元と口角を触ってうさんくさい笑顔を作ると、
「『アリシアにも手伝ってほしいな』だそうです」
ヒューイの真似をしたのだろうけれど、はっきり言って似ていない。それでもいつものアリシアならちゃんとした反応を返すだろう。
けれど今はヒューイに対するモヤモヤが抜けておらず、思わず顔がこわばってしまった。
ラウルも気づいたようで、うさんくさい笑顔がたちまち元の顔に戻る。
「どうしたんですか?」
「いえ、別に……あっ、洗礼式のお手伝いをするんですね。わかりました。行きましょう」
いぶかしげな顔で見つめてくるラウルに、これ以上突っ込まれないうちに急いで聖堂へ向かった。
「ヒューイ様、アリシアさんを連れてきましたよ」
内陣の祭壇前にいたヒューイが振り返り、アリシアを見て嬉しそうに笑った。いつもなら思わずこちらも微笑んでしまうほどの笑顔である。
けれど今は、その分余計に心が重くなった。昨日の違和感がそのまま残っているからだ。
ヒューイが笑顔を引っ込めて、心配そうに聞く。
「どうかした?」
「……いえ、なんでもありません」
笑おうとしたけれど、顔がこわばって笑顔にならない。喉の奥に異物でも詰まっているようにそれ以上言葉がでてこない。
素直に聞いてみようかとも思った。そうすれば「誤解だよ」と笑って、アリシアの納得のいく説明をしてくれるかもしれない。でも――。
どうして私を雇ったんだろう。
そもそもの疑問が込み上げた。昨夜から考えていたことだ。街の北外れで初めて会った時、「聞き間違えたみたいだ」と笑っていた。あれも本当なのだろうか。
今まで短い間だけれど一緒にいて、ヒューイの人となりも少しはわかっている。
ヒューイは確かに適当な部分はあるけれど、それだけではない。むしろ他人の気持ちや、人生を決める重要な場面では慎重過ぎるほど慎重だ。
だとすると聞き間違えたまま、そんな適当な状態のままアリシアを雇うとは思えない。
どうしよう。
考えれば考えるほど疑心暗鬼になっていく。
「アリシア?」
アリシアの様子がさすがに変だと感じたのか、ヒューイが真剣な顔で近づいてきた。
「具合でも悪いのか?」
心配そうな顔で覗き込まれて、思わず顔を背けてしまった。不自然な態度だと自分でもわかったけれど、どうにもできない。
「診療所で見てもらった方がいいんじゃないですか」
ラウルの言葉に、「そうだな」と頷き、ヒューイが右手を出した。
「行こう。一緒についていくから」
アリシアは固まったまま、ヒューイの顔と差し出された右手とを交互に見つめた。心配そうな顔と口調はいつものヒューイだ。でも――。
何が本当なのか。全て自分の勘違いなのか。答えの出ない違和感が、ぐるぐると頭の中を回る。
「本当に大丈夫か? ――ちょっと、ごめん」
遠慮がちな声とともに、右手がゆっくりとアリシアの額へ伸びてきた。熱があるかどうか確認しようとしているとわかっている。けれどヒューイの長い指がそっと額へ触れようとして、気がつくとアリシアは、
「嫌っ!」
と、その手をはねのけていた。
目の前でヒューイが固まったのがわかった。
そんな顔を見ていたら、自分がとんでもなく馬鹿なことをしている気になった。まるで全てがまやかしで、自分だけが勘違いしているような――。
訳がわからなくなってきて、うろたえた。
「ごめんなさい……」
震える声でなんとか一言だけ口にすると、アリシアは逃げるように聖堂を出た。
この場にいたくない。一人になって、もう一度きちんと整理して考えたかった。




