22 ヒューイの過去③
夜も更けて、ヒューイは大司祭の執務室のドアをノックした。
もう宮殿に戻っているかと思ったけれど、すぐに「入れ」と声がした。
「遅かったな。とっくにラウルが無事に戻ったと報告しにきたから、別にこなくてもよかったんだぞ」
けれどこんな時間まで執務室にいたのは、ヒューイがくるかもしれないと思ったからだろう。大司祭はそういう人だ。
「思ったより、すっきりした顔をしているな」
「……そうですか」
アリシアにすがりついて泣いた、なんて絶対に言えない。気まずくて少し視線をそらした。
白髪混じりの大司祭がなにげない口調で聞く。
「セオドアは元気だったか?」
「はい。大司祭様にもよろしく伝えてほしい、とのことでした」
「そうか」
小さく頷く。それだけで全てを理解したような、そんな顔をしていた。そして大きく息を吐いた。
「お前はセオドアの真意に気づいていたんだな」
「はい」
隠してもしょうがない。そして大司祭も知っていたのか。
「そうか。セオドアにもお前にもこれが一番いい解決法だと思ったのだが、お前にはちと酷だったな」
大司祭の顔が曇る。小さく笑うヒューイに、大司祭が机の上で両手を組んだ。
「お前も知っているだろうが、司祭と助祭を選ぶのは司教様と大司祭である私だ。その後で参事会にかけて決定される」
「はあ」
「だが先に、お前を司祭にと推したのはセオドアだよ。ここを出る時に、そうしてほしいと私に頼んでいった。ヒューイが適任だ、と」
「えっ?」
初耳だ。けれど、そうだとしたら――。
「セオドアは弱かった。だがその弱さをきちんと受け入れるために、ああいう道を選んだ。お前を傷つけないために、そして心が曇って正しいことが見えなくなる前に、きちんと自分が正しいと思うことを行うために。あれはセオドアのお前に対する親心ゆえだよ。私はそんな気持ちを受け入れてやりたいと思った。まあ、わざわざこんなことを言わなくても、お前はちゃんとわかっていたんだろうがな」
「そうだったんですか……」
心の底からうねりのような感情がのぼってくる。
自分は愛されていたのだ。セオドアからちゃんと愛されていた。
それが確信できた。
バーンホフ修道院に行って、セオドアに今までの感謝の気持ちを伝えられて本当によかった。そう思えた。
「それにセオドアの言葉どおり、お前を司祭にすると言った時、モントルも反対しなかった」
驚いた。あの序列に厳しいモントル司祭が? てっきり大司祭が皆の大反対を押し切ったとばかり思っていたのに。
では――。
前から薄々感づいていたことを口に出す。
「では大司祭様が、俺の助祭にラウルを選んだのは――」
「あいつほど言いたいことを言える奴は他にいないだろう。半年前、セオドアがここを出ていったばかりの時のお前には、そういう奴が必要だと思ったからだ」
そうか……。
温かい気持ちが体の底から上ってくる。
皆、心配してくれていたのか。ヒューイが思っていたより周りはずっと優しかった。セオドアだけではなかった。皆、こんな自分をきちんと受け入れてくれていたのだ。
大司祭が頬杖をついて言う。
「お前、もっと馬鹿ならよかったのにな」
「はっ?」
いきなりなんてことを言いだすんだ。顔をしかめると、大司祭は小さく息を吐いた。
「悪いな。もっと馬鹿なら楽だったろうに、と思っただけだ」
ヒューイは小さく笑った。大司祭が言う。
「もう遅い。今夜はゆっくり休め」
「はい。失礼します」
一礼して執務室を出る。強行軍で体は疲れていたけれど、それでもここに帰ってきた時よりよほど心が軽かった。
アリシアは寝室のある邸宅の玄関ホールを抜けた。二階へ続く階段を上りながら、早鐘を打つ胸元を両手で押さえる。
びっくりした……。
ヒューイに強く抱きしめられたことだ。
意外にがっちりしてたな。
ローブ姿だと細身に見えるけれど、やっぱり男の人だ。そう思い、体中が熱を持った。時も場所も考えず、走り回って叫び出したい衝動に駆られる。
二階ホールのギャラリーの前に、人の姿があった。
ヒューイかと思って一瞬どきりとしたけれど、
「ラウルさん?」
「こんばんは」
ラウルが丁寧に頭を下げた。
ラウルはヒューイや他の修道士たちに対しては遠慮のない態度をとるのに、アリシアに対しては不思議と礼儀正しい。
絵画が飾られた壁の前で向かい合い、ふと思った。
「ラウルさん、何か怒ってます?」
ラウルは格好いいと言うよりは可愛らしい顔立ちをしている。けれどそれが今は凶暴な殺気を放っていた。
アリシアの指摘にラウルはかすかに目を見張り、素直に頷いた。
「怒ってますよ。ヒューイ様が馬鹿すぎて反吐が出そうなんで」
「ば、馬鹿……ですか?」
「あれじゃあ、セオドア元司祭の一人勝ちじゃないですか。僕だったら高笑いしながら、はっきり自分の敗北を認めさせてやりますけどね」
どうやらヒューイとセオドアについて怒っているようだ。
アリシアには詳しい事情はわからないけれど、それでもわかることはある。
「ラウルさんも一緒にセオドア元司祭様の許へ行ったんでしょう? でも実際にはそれをしなかったんですね?」
「……まあ、それくらいの自制はあるので」
苛立たし気に言い、そしてぽつりとつぶやいた。
「ヒューイ様は自分の気持ちを我慢して押し殺すマゾな馬鹿なので、あなたがいてくれてよかったです」
さっきのヒューイとのことを見られていたのか、と恥ずかしくなった。けれどその言葉には温かい本心がこもっているように感じられる。
アリシアは微笑んだ。
「それをヒューイ司祭様本人に言ってあげたら喜ぶんじゃないですか」
「――『あなたはマゾな馬鹿だ』と?」
「違います」
わかっているくせに素直じゃない。
「アリシアさん、何を言っているんですか。そこ以外の言葉なんて死んでも言いませんよ。絶対に。神に誓って二度と口にしません」
真剣な顔で言うので、アリシアは笑った。




