21 ヒューイの過去②
シャルド大聖堂に戻り、大司祭の書記官に文書の入った筒を渡した。後は大司祭に、戻ったと直々に挨拶をしにいかなくてはいけない。
納得したはずなのに足も体も重い。
うつむきがちに大司祭の執務室へ向かっていると、
「お帰りなさい」
と弾んだ声がした。顔を見なくても誰かわかった。アリシアだ。ヒューイに久しぶりに会えて嬉しいのだろう。
ヒューイもまたアリシアの顔が見られて嬉しいはずだ。それなのに今は素直に喜べない。心の表面に一枚膜が張ったように、感情自体がぼんやりとしている。セオドアとのことが自分の中で大き過ぎて、それ以外に考えられないのだ。
アリシアの顔が曇った。
「どうかしたんですか?」
「どうかしたか、って何が?」
やはりいつもの軽い笑みを浮かべていた。自分が嫌になるがやめられない。
「えっと、そのいつもと違うというか。だから何かあったのかなと思って……」
自信がないのか、アリシアの語尾が小さくなっていった。それでも真摯な目を向けてくる。
自分の素直な気持ちをさらけ出せれば楽だろうな。けれどそんなことできないと、よくわかっている。だから申し訳なく思ったけれど、ヒューイは笑顔で応えた。
「何か、って何? おかしなこと言うね」
好きな子なのだ。最初は妹でしかなかったけれど今は違う。でもだからこそ弱みは見せられないし、見せたくない。
あくまで軽い口調で通すと、アリシアは困ったように目を伏せた。それでも顔を上げて一生懸命言葉をつむぐ。
「あの、何か悩んでいるのなら聞きます。私なんかではお役に立てないかもしれませんが、でも一応相談役を任されていますし、少しなら聞ける……はずです」
「本当に何もないよ」
笑って一刀両断する。
「じゃあ大司祭様に戻ったと報告しに行くから」
アリシアを振り切って歩き出す。ヒューイを思いやってくれているとわかっているが、今はその思いやりがうっとうしくもある。
アリシアは他人の気持ちを尊重する子だ。だからここまですれば諦めるだろう。そう思った。けれど、
「ヒューイ司祭様!」
アリシアが突然、ヒューイの前に飛び出してきたので驚いた。後ろからすごい勢いで追いかけてきたのだとわかった。
戸惑うヒューイの前で、アリシアはそれ以上に困惑した顔をしている。諦めきれず咄嗟に飛び出したものの、何を言っていいのかわからないのだ。そう悟った。
ヒューイは薄く笑った。どれだけ優しくされても殻の中にある本音は出せない。幼い頃からそんな生き方はできなかった。
「アリシア」と、なだめるように笑顔で言う。
「悪いけど、大司祭様に報告をしないといけないから急いでいるんだ」
ここまで言えば引くだろう。アリシアはヒューイを気遣って道を開ける。そう思った。
案の定、
「……すみません」
と、うつむいた頭の下からか細い声が聞こえた。退こうとしてアリシアの右足が後ろに一歩下がる。
そして――アリシアは勢いよく顔を上げた。
「あの! 私的なことで申し訳ないんですが、私、前に大事な人にひどいことをしたんです。それをとても後悔しています。だからもうそんな後悔はしないようにしようと決めたんです。だからヒューイ司祭様は今なんでもないとおっしゃいましたけど、それは嘘です。嘘だと思うので私は引きません!」
真っ赤な顔で、裏返った声で、それでも話すのをやめない。
「悩んでいる時に話を聞いてもらうと楽になります。最初は話すのが恥ずかしくても、でも必ず楽になります……! だから信者さんたちも告解に訪れたり、悩み相談にくるんです。ヒューイ司祭様も誰かに話した方がいいと思います。私なんかではとてもお役に立ちませんが、ラウルさんや大司祭様、モントル司祭様でも。きっと親身になって聞いてくださいます。そうしたら少しは楽になるはずです。私はそう思います……!」
一気に言い切ったアリシアは、肩で大きく息をしている。首元から耳まで赤くなっている。
「じゃ、じゃあ……あの、引き留めてすみませんでした。おやすみなさい」
我に返ったようだ。足早にというよりは逃げるように去ろうとする。
そんなアリシアの腕を、ヒューイは掴んだ。
俺は何をしているんだろう。
頭で考えるより早く体が動いたことに戸惑う。
けれどさらに勝手に口が開いた。理由はわかっている。こんなことを自分に言ってくれたからだ。一生懸命、真っ赤な顔をして。
「……司祭になりたかったわけじゃない」
思わずこぼれ出た。アリシアが小さく目を見開く。ヒューイも自分自身に驚いた。けれど言葉は止まらなかった。かぶり続けて容易に脱げなくなった固い殻に、ひびが入ったような気がした。
「ただ……セオドア様と一緒にいたかっただけなんだ」
父親代わりで大好きだったから。尊敬して慕っていた。だから、ただずっと一緒にいたかっただけだ。
「もし修道院へ一緒に行こうと誘われたら、何もかも捨てて喜んでついて行ったよ」
そんなことは万が一にもないとわかっていたけれど、それでも願わずにはいられなかった。
ヒューイのことを憎んでも嫉妬しても避けてもいい。それでも一緒に行こうと言ってくれたなら喜んでついて行った。
けれどセオドアは優しい人だった。芯から優しい人で、そんな自分の黒い感情でヒューイを傷つけるより前に、自分が離れる方を選んだ。それがヒューイへの愛情ゆえだとわかっている。ちゃんとわかっている。
それでも一緒にいたかった。願うことはただそれだけだったのだ。
「俺はただ、ずっと一緒にいたかっただけなんだ」
家族だと思っていたから。もう二度と置いていかれたくなかった。恨まれても憎まれても、一緒に連れていってほしかった。見捨てないでほしかった。
心の奥底からうねりのような感情がのぼってきた。
「でも、俺は……選んでもらえなかった」
母親にも、そしてセオドアにも――。
きっとひどい顔をしている。そうわかったけれど、自分ではもう止められなかった。
俺は何を話しているんだ。誰よりも弱い部分を見せたくなかった女の子に。
自己嫌悪に陥ったその時、
「立派ですよ」
「……えっ?」
アリシアの発した言葉がこの場にそぐわなさ過ぎて、理解するのに時間がかかった。言葉の意味がわかっても、誰が立派なのか、どこにかかるのかわからない。
戸惑うヒューイを、アリシアはまっすぐ見つめて言う。
「ヒューイ司祭様のことだからずっと笑っていたんでしょう? 自分の思い通りにならなくて、むしろ傷つくだけの場面でも、相手に負担をかけないために、自分の気持ちを押し殺して笑っていたんでしょう? だったら立派ですよ」
思いもかけない言葉に面食らう。けれど同時に、今まで感じたことのない気持ちが湧いてくるのもわかった。
アリシアは目を伏せて自嘲するように頬を歪めた。
「前に私もそんな場面に遭遇しましたが、自分のことだけで精一杯でした。とても相手を思いやる余裕なんてなくて、大事な人を――人たちを傷つけました」
アリシアが顔を上げて微笑む。
「だからヒューイ司祭様は立派です」
自分のかぶるひびの入った固い殻が、音を立てて割れていく気がした。
そこから、今まで押しこめていた感情が一気に噴き出す。抑えられない。助けを求めるように、ヒューイはアリシアの肩を強く引き寄せた。
ヒューイの胸の中にすっぽりと収まる小さくて細い体。それをさらに引き込んで、力の限り抱きしめた。すがりついた、と言った方が正しいかもしれない。
アリシアは驚いたように一瞬体を固くしたが、やがて力を抜いて、優しい口調で続けた。
「立派でしたよ。きっと今までも、ずっとずっと立派でしたよ」
心に染み入ってくるような柔らかい声に、体の奥底が震える。
報われた気がした。
実の親に捨てられて、育ての親にも見捨てられて、それでも歯を食いしばる思いで笑って過ごしてきた今までの人生が、わかってもらえた気がした。
涙が浮かぶ。こんなことで、こんな場で、泣くなんて情けない男だと自分で思うけれど、どうでもいい。
今はただ、この丸ごと包み込んでくれるような優しさの中に浸っていたかった。
 




