20 ヒューイの過去①
ヒューイは夢を見ていた。今からちょうど十七年前、六歳の冬のことだ。
その日も寒かった。空は朝からどんよりと曇り空で、雪が舞っていた。母に連れられてヒューイはシャルド大聖堂へやってきた。
父は生まれた時からいない。そしてヒューイの家は貧乏だった。お腹一杯食べた記憶は数えるほどで、冬は薪も充分に買えず寒さに凍えていた。
それでもヒューイは母が好きだった。父がいなくても貧乏でも構わない。母と一緒にいたかった。ずっと一緒に――。
大聖堂の正面扉には、昼間は門番がいる。けれど日が落ちると、扉の脇にあるノッカーを鳴らさない限りは誰も出てこない。
「ここにいれば、お腹一杯ご飯が食べられるからね」
つないでいた手を強く強く握りしめて、母は言った。
「お母さんの姿が見えなくなったら、そこのノッカーを叩くのよ」
「嫌だ、嫌だよ! 置いていかないで!」
ヒューイは必死にすがりついた。けれど母の決意は固かった。「ごめんね」と小さな声がして、一度も振り向かず大聖堂の階段を走って下りていった。
ヒューイは泣きながら、その場にうずくまった。母が自らの意思で自分を置いていったとわかっていたからだ。
自分は捨てられたのだ。絶望が小さな胸の内に蔓延した。
身を切るような冷たい風が吹き付けるが、寒いとも感じなかった。ただショックで寂しくて、途方もないほど孤独だった。
その夜、たまたまセオドアが出てこなかったら、おそらく自分は凍死していただろうと思う。
当時セオドアはまだ司祭ではなく、一介の修道士だった。
扉の前でうずくまり、声もなく涙を流し続ける少年に、セオドアはすぐに事情を察したようだ。優しい笑顔で手を差し出した。
「外は寒いよ。中へいらっしゃい」――
――「ヒューイ様。ヒューイ様!」
ラウルの声でヒューイは我に返った。そうだ。今は馬でバーンホフ修道院へ向かっている途中だ。
ラウルが顔をしかめた。
「馬上でぼーっとしてると地面に落ちて馬に踏まれますよ。怪我人としてバーンホフ修道院に担ぎ込まれたら、シャルド大聖堂の恥です。絶対にやめてくださいね」
いつも思うが、ラウルは一言余計だ。
都市シャルドから馬車と馬で十日と半日ほど。フリージュ地方の森の中にあるバーンホフ修道院へ、ヒューイはラウルを連れて向かっていた。
一番前を行く地元の案内人の男が心配そうに振り向いた。ヒューイは愛想笑いを返しながら、こんな夢を見たのは大司祭に使いを頼まれたからだ、と心の中で舌打ちした。
「あれから半年経つ。そろそろ自分の気持ちに決着をつけてこい」
十日前、大聖堂の執務室で、大司祭からそう言われた。
バーンホフ修道院にはセオドアがいる。半年前までシャルド大聖堂にいた元司祭。そしてヒューイの育ての親でもあるセオドアが――。
胃に砂袋でも詰められたような気分で馬を走らせた。しばらくしてバーンホフ修道院が姿を現した。
頑丈な柵で囲まれた敷地は広い。だが修道士たちの厳格な祈りの生活をそのまま体現するかのような、シンプルで無駄のない石造りの建物だ。
同じく質素な院長室で、修道院長から印章付きの書類を受け取る。これで大司祭からのお使い自体は済んだ。
このまま帰ろうかと思っていたら、院長がにこやかな笑顔で言った。
「そうそう。半年前からうちにいるセオドアは、シャルド大聖堂にいたのですな。会っていかれますか?」
いいえ、とは言えなかった。
まるで物置のような応接室で、ヒューイは一人きりでセオドアが現れるのを待った。
心臓の鼓動が早鐘を打つ。覚悟してきたはずなのに、背中にじっとりと汗をかいてきた。
膝の上の両手を握りしめながら、セオドアと過ごした十七年間を思い出す。
ヒューイはセオドアを慕っていた。まさに父のように、兄のように。
だから認められたくて、褒めてほしくて、何事も全力で頑張った。日々のお勤めも雑務も何もかも。
元々頭の回転がよく呑み込みも早いヒューイが、一心不乱に頑張ったのだ。加えて他人の感情に聡く、人当たりもいい。
周りがそのことに気づくのに時間はかからなかった。
修道士の階級は年功序列である。聖職者の長い歴史の中、皆そうだった。けれど何事にも例外はある。
「次の助祭はヒューイになるんじゃないか」
そんな噂がまことしやかに流れるようになった。十代後半のヒューイが十歳もニ十歳も年長の修道士たちを押しのけてその職に就くのは異例である。けれどそういう噂は流れたし、ヒューイ自身もそう言われるのが嬉しかった。
その時のセオドアは助祭だった。そして次は司祭に選ばれるだろうと誰もが思っていた。ヒューイもだ。だからセオドアの助祭になりたかった。司祭になったセオドアの補佐をして、力になりたいと思った。ただそれだけだった。
歯車が噛み合っていないと気づいたのは、ちょうどその頃だったと思う。
セオドアがヒューイの能力の高さを恐れ、避けたいと思っていると気がついたのも。
もちろんセオドアは優しい性格だから、そんなことおくびにも出さなかった。嫉妬する汚い自分を恥じてこらえていたし、周りは誰も気づいていなかっただろう。
だが誰よりもセオドアのそばにいて、セオドアを慕っていて、セオドアの力になりたいと願っていたヒューイだけが気づいた。
どうしよう。
目の前が真っ暗になる思いだった。
自分はセオドア様にも捨てられるのか。そうしたら生きていけない。
幸いにも、その時はセオドアが司祭になり、助祭はヒューイではなく他の者に決まった。
よかった。これでセオドア様とも元通りの関係でいられる。
泣きたいほど安堵したけれど、そうはならなかった。
それからしばらくして、セオドアがシャルド大聖堂を辞める、と申し出たからだ。こことは違う戒律の厳しいバーンホフ修道院で、今一度聖職者としての自分を見つめ直したい。大司祭にそう言ったのだ。
――ドアをノックする音がして、ヒューイはサッと顔を上げた。
緊張に頬がこわばるヒューイの目に、半年ぶりのセオドアの姿が映る。
「ヒューイ。久しぶりだ。元気だったかい? 少し痩せたか? ちゃんと食べているかい?」
子供の時に向けられたのと同じ優しい笑顔、やわらかい口調に目まいがした。
「はい、大丈夫です。セオドア様も息災で何よりです」
「ここまでよくきたね。遠かっただろう」
セオドアが微笑む。
それを見ながら、ああ、この人はいつも笑顔だったな、と思った。どんな時でも笑みを向けてくれた。親に捨てられて不安を抱える俺を安心させるために。
――だからその真意に気づくのにも時間がかかったのだ。
「ここでの暮らしはどうですか?」
向かい合って座りながら笑顔で聞くと、
「なんとかやっているよ。この年で鍬を振るうのは疲れるけどね。そうそう。この間、菜園に熊が出てね、大騒ぎだったよ」
とセオドアも笑いながら話す。
元気そうだな。
心に安堵と落胆が入り混じる。
実際、セオドアは元気だった。ここはシャルド大聖堂より食事も質素だし、生活も厳しい。事実、日に焼けたのか少し痩せたのか、前より頬がこけている。
それでも重荷を捨てたかのようにすっきりした顔をしていた。
笑顔で話しながらも、ヒューイは心に暗い影が降りるのを自覚した。
自分は元気のないセオドアが見たかったのだ。黒過ぎる本音にたどり着き、心が冷えた。
大聖堂を辞めて、ヒューイを捨てて、後悔している姿を見たかったのだと。
来なければよかった。
明るい笑みの奥で、苦い気持ちが込み上げた。
セオドアがヒューイの能力を恐れ、離れたいと思ったことをヒューイは知っていた。
けれどそれを知ってもヒューイにはどうしようもできなかった。だって原因は自分なのだから。
できることはただ一つ、セオドアの気持ちに気づいていないふりをすることだけだった。
それは今も同じだ。決して気づかせない。気づかせてはならない。気づかせてしまったら、セオドアは深く傷つく。そしてそれにより、さらにヒューイも傷つく。
「ヒューイ、私の後を継いで司祭になったかい?」
どうして知っているのか、と内心で驚きつつ頷いた。
「ええ。若輩者なのでモントル司祭に怒られてばかりです。俺には向いていないと思うのですが」
慎重に言葉を選びつつ答えると、セオドアは真剣な顔を向けた。
「そんなことはないよ。年は若いし実績もないがヒューイが適任だよ。私はそう思っているし、皆もそうだ。だからヒューイが司祭に選ばれたんだ。もっと自信を持っていい」
嘘の感じられない表情に驚いた。セオドアは本心からこう言っている。
乗り越えられたのか。
体から急に力が抜けた感覚を覚えた。
セオドアの望み通り、彼はヒューイへの嫉妬心をなくした。ヒューイから離れてこの修道院へきたことで。
そうか。
諦めのような気持ちが体の中を吹き抜けた。
ここへきたことはセオドアにとって、とてもよかったのだ。
じゃあ、もういいじゃないか。誰よりも慕うセオドアが幸せになったのだから、もうそれでいい。
ヒューイは立ち上がり、セオドアに頭を下げた。
「今まで面倒を見てくれて、親代わりになってくれて、本当に感謝しています」
「ヒューイ、どうしたんだ?」
セオドアは一瞬うろたえたが、同じように椅子から腰を上げて微笑んだ。
「私もだよ。君に出会えて、一緒に過ごせてよかった。私はとても幸せだったよ」
ヒューイは唇を噛みしめて、目を固く閉じた。
充分だ。その言葉だけでもう充分じゃないか。
ゆっくりと目を開ける。笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、セオドア様。そろそろ行きます。お元気で」
「ヒューイも体に気をつけて。大司祭様や皆にもよろしく伝えてくれ」
「はい」
ヒューイはもう一度笑って、そして部屋を出た。
院長に挨拶して修道院を出ると、ラウルが馬の横で待っていた。
案内人について、来た時と同じ道を引き返す。
木立の間から見える空はどんよりしている。今にも雨が降りそうだ。
「急いだ方がいいな」
案内人が綱を握り直した。
ヒューイは無言で馬を走らせた。口を開くと、心の中に溜まったものが数珠つなぎに溢れ出そうだったからだ。
隣にラウルの馬がきた。並んで走りながら聞かれた。
「大丈夫ですか?」
その言葉の調子で、ラウルは全てわかっているのだと悟った。ヒューイの心の内にも、セオドアの真意にも。なぜだ。衝撃を受けた。ヒューイは誰にも話していない。セオドアもそうだろう。
なんと返していいかわからず、とっさに笑みを浮かべていた。
「何? 心配してくれてんの?」
察しのいい助祭も考え物だな。
内心でため息を吐くと、ラウルが心外だと言うように顔をしかめた。
「どうしてこういう時にまでそんな言い方をするんですか。馬鹿なんですか? 僕はただ――」
「本当に心配してくれているんだろう。ちゃんとわかってるよ」
「……ならいいですけど」
口ではそう言いながらも納得できていないことが、表情からわかった。
ヒューイは自嘲した。こういう時も本心は見せない。見せられないのだ。そんな素直な生き方はしてこなかった。
母に捨てられて自分は固い殻をかぶってしまった気がする。セオドアに出会ってその殻を破れた気がした。でもそれは幻想だった。
固い殻をかぶって、かぶり続けて、もう自分の力では脱げない。
だからヒューイは笑う。笑えば、他人にも自分にも、その殻があるとばれない気がするからかもしれない。




