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2 アリシアの過去①

「よかったわね、アリシア! シャルド大聖堂で働けるなんてすごいわ。いつか絶対に遊びに行くからね」


 顔を真っ赤にして話すミアは、アリシアの言ったことなど忘れているようだ。


 けれどまるで自分のことのように喜んでくれているので、アリシアはそれ以上何も言えない。それに何よりまだ頭の中が混乱していた。


 どうして、こんなことになったの――!?


 そればかりが頭の中を駆け巡る。


 アリシアは空を仰いだ。風は身を切るほど冷たいけれど、空はまぶしいくらいの晴天だ。故郷の町チェスターよりも空は狭く感じるのに、青さは同じであることが不思議に思えた。


「こちらへどうぞ」


 外套をまとった助祭のラウルが、馬車へ乗るように促す。

 アリシアは鞄を両手で強く抱きしめて、恐る恐るヒューイを振り返った。


 仕事先のあてもない自分には、もったいないほどの勤め先だ。それはわかる。行くところもない移民の自分を雇ってくれた。そのことには感謝している。けれど――。


「どうして私を雇ったんですか?」


 意を決して聞いた。

 ラウルも同じ疑問を持っていたようで、


「それは僕も思っていました。どうして彼女を?」


 ヒューイが驚いた顔でラウルを見た。


「不満か?」

「いえ、そういうわけではありません。ただ今、早急に人手が足りないということはないですし、もし雇うなら力仕事ができる男でしょう? 大司祭様が近々、葡萄畑をさらに広げるとおっしゃっていましたから」


「それは知ってるよ。でも彼女が『うちで働きたい』と言ったんだ」


 ねっ? と笑顔でアリシアを見る。


 そんな、まさか。

 アリシアは必死で首を左右に振った。


「私は『シャルド大聖堂以外ならどこでもいい』と言ったんですが……」

「えっ、本当に?」


 ヒューイが目を見開いた。首を傾げ、アハハと明るく笑う。


「そうなんだ。聞き間違えたみたいだ。ごめんね」


 衝撃を受けた。

 この人、適当過ぎない?

 絶句するアリシアに、笑いを収めたヒューイが興味深そうに聞く。


「どうして、うちで働くのは嫌なの?」

「それは……」


 思い出すと辛くなる。それは二十日前のこと――。



 ――「アリシア、すまない。実は教会を辞めてきたんだ」


 青天の霹靂へきれきとは、まさにこのことである。

 隣町の教会に勤める修道士の兄が突然帰ってきたと思ったら、こう言ったのだ。


「辞めた……? えっ、どうして?」


 故郷の二間しかない家の居間で、アリシアはぽかんとして聞いた。

 向かい合って座る兄が暗い声で続ける。


「辞めさせられたと言った方が正しい。僕が戒律を犯したんだ。神父様に知られて追放されてしまった」

「そんな……」


 言葉を失った。とても信じられない。

 アリシアが幼い頃に両親が亡くなり、七歳はなれた兄がずっと面倒を見てくれたのだ。


 そして八年前、アリシアが十歳になった年、兄は隣街の教会で修道士になった。それ以来、兄からの仕送りが届かなかったことは一度もない。

 アリシアも近くの小麦倉庫で働きながら、両親が亡くなったこの家を守ってきた。


 そんな優しくて真面目な兄が戒律を犯した? そんな馬鹿な。

 困惑するアリシアの前で、暗い顔でうつむいていた兄がふと後ろを向いた。


 兄の後ろにはフェルトの帽子をかぶった男性が立っている。

 神妙な面持ちの彼と、兄の視線が交わる。秘密めいた、まるで共犯者のようなやり取りに違和感を覚えた。


 てっきり兄を家まで送ってきてくれただけだと思っていたが、違うのだろうか。

 兄がアリシアに向き直り、彼と同時に頭を下げた。


「すまない、アリシア。僕は彼を愛している。彼と一緒になりたいんだ」

「……えっ?」


 ようやく声が出たものの後が続かない。けれど慌てふためく心とは裏腹に、頭の中はひどく冷静だった。


「――つまり兄さんが犯した戒律というのは、同性愛……なの?」


 こくり、と兄と彼が同時に頷いた。


 えええ――!?

 想像もしていなかった。言葉がでないアリシアに、顔を歪めた兄がテーブルに身を乗り出した。


「アリシアの結婚も決まったこの時に……。本当にすまない。せめてお前に迷惑をかけないよう、僕たちはこのまま姿を消すよ。――これは結婚のお祝いの品だ」


 上等なスカーフをテーブルに置く。光沢のあるシルクでレースの縁取りがされていて、貴族の女性が使いそうな代物だ。


 アリシアの結婚話がまとまったと、三か月前に手紙で知らせていた。


「結婚おめでとう。アリシアさん」


 体がふわふわして現実味がないアリシアに、恋人だという彼がはにかむように微笑んだ。

 ありがとう、と返さなくてはいけない。そう思うのに心が拒否する。


 ……どうして?

 浮かんでくるのは疑問だけだ。アリシアは粗末な木の椅子に座ったままうつむき、膝の上で両手を強く握りしめた。


「アリシア」


 ためらいがちな兄の声が降ってくる。けれど顔を上げることができない。兄の顔を見たら涙があふれてくるのがわかっていた。


「もう行くよ。ごめんな。元気で」


 兄が立ち上がる気配がした。続けて、


「ごめんね」


 という恋人の消え入るような声も。

 アリシアはうつむいたまま唇を噛みしめた。なぜかこちらが悪いことをしているような気になるのが、悔しくて悲しい。


「幸せに。アリシア」


 震える兄の声は、アリシアが幼い頃、友達にいじめられて泣いていた時になぐさめてくれたのと同じ声音だ。


「兄さん……!」


 涙の浮かぶ目で、はじかれたように顔を上げた。けれど、すでに兄と恋人の姿はなかった。


 その夜はどう過ごしたのかよく覚えていない。気がつくと朝日が昇っていた。


 今までは一人で暮らしていても、遠くから兄が見守ってくれている安心感があった。でも、もう違う。本当に一人ぼっちだ。涙があふれた。


 ――違うわ。一人じゃない。

 もうすぐ結婚するのだ。相手は同じ町に住む男性。

 小麦倉庫の奥さんがまとめてくれた、いわばお見合いのようなものである。だから本人同士が愛し合って、というわけではない。けれど夫婦になって幸せになることはできるはずだ。


 兄の前では口に出せなかったけれど、ずっと普通の家族に憧れていた。両親と子供。そんな周りを見回すとどこにでもいるような家族。だけどアリシアが持ち得なかったもの。


 アリシアは天井を仰いだ。


 正直、兄のことはどうしていいのかわからない。けれど今まで育ててくれたことは心から感謝している。アリシアが大きくなって、兄はやっとその重荷を外せたのだ。そして自分の幸せをつかんだ。

 だからその幸せを祈ろう。


 そう思っていたのに――。


「アリシア。ちょっといいかな?」


 その日の夜遅く、結婚相手とその父親がアリシアの家にやってきた。


 暗い町の夜を照らすのは月明かりだけだ。松明を持たないといけないため、よほどのことがない限り夜に出歩く者はない。

 嫌な予感がした。


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