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15 筆写室②

 名残惜しそうに部屋を出ていくヒューイとすれ違いに、若い修道士が戻ってきた。彼はハンナの左隣の自分の席に着き、


「あれ?」


 と目を丸くした。きょろきょろと辺りを見回す。そして悲しそうな声を出した。


「僕のアップルパイがない……」




「私たちは今、これを手がけている」


 筆記長がそう言って見せたのは、『詩篇集』と呼ばれる讃美歌書だ。

 表紙にも挿絵にも、貴重な金箔がふんだんに使われている。見た目もとても美しいと、今貴族や裕福な商人たちの間で大人気の書である。


「この書物は、まず中身の筆記、次に下地塗り、そして金箔を貼り、最後に艶出しをする。そうすればこの本は永遠のきらめきとなる」

「え、永遠のきらめき?」

「そうだ。金箔の艶出しがきちんと行われていれば、未来永劫色あせることはない。この本は永遠に輝き続けるのだ!」

「なるほど!」


 元来素直なアリシアは感銘を受けて大きく頷いた。

 筆記長もまたその態度が嬉しかったようで、大きく頷く。けれど、


「では始めよう。細かい文字を一字一句間違わずに書き写すには、器用さとスピードと集中力が求められる。君には向かないと思う。君には挿絵の写しを手伝ってもらおう」

「は、はい!」


 見抜かれているわ。

 アリシアは感心した。初めて会ったばかりなのに不思議なことである。


「この詩篇集の特徴は、各ページの最初の大文字が金箔で美しく装飾されていることだ。型押しした下地は、貼った金箔に立体感を与える」

「はい」

「一昔前は、書物は聖堂や修道院にしかなかった。写本作業は聖職者しか行えなかったのだ。だが各地に大学ができてから書物が普及し始め、装飾職人たちが書物の制作を始めた。それ専門の筆記職人たちまで出始めた。彼らは貴族や裕福な貴族たちの注文に応じて、写本を作っている」


 へええ。知らなかった。

 けれどいい話である。アリシアは笑顔で言った。


「もっと書物が普及するといいですね。私みたいな平民も、本が読めるようになればいいです」

「そうだな。それはその通りだ。だが!」


 筆記長が顔を歪めて声を張り上げた。


「だが今は専門の筆記者や装飾職人の地位が上がっている。貴族や商人どもが、我々大聖堂が作る写本よりもそちらの方が出来がいいと触れ回っているせいだ。由々しき事態である。絶対に負けん。必ずや我らの栄光を取り戻してみせる。いいな、皆の者!」

「おお――!!」


 黒いフードが一斉に振り向き雄たけびを上げた。そして再びくるりと壁に向き直ると、また一斉に沈黙し、作業し始めた。すごい、というかちょっと恐い。


「ではアリシア、さっそく手伝ってもらう」

「はい。――あれ?」


 表紙に金箔がつきやすくするために、にかわを塗るのだが、どう気をつけてもはみ出してしまう。


「すみません……」

「……いや、気にすることはない。向き不向きはある。では金箔を押さえる作業をしてくれ」

「はい!」


 今度こそ、と思い、絹の布でそこを丁寧に押さえる。細心の注意を払っているはずなのに空気が入ってしまうのだ。

 なんで!?

 泣きたい。


「……違うことをしてもらおう。ではこれを持て。金箔の艶出しをしてもらう」

「はいい!」


 木の柄に狼の歯をつけた道具で、貼られた金箔を必死にこする。しかし不思議と艶が出ない。

 艶出しなのになぜ!


「ごめんなさい……!」


 焦って懸命に頑張るも、やはりうまくいかない。筆記長も、見守る他の修道士たちの顔も青ざめてきた。

 ああ、どうしよう。せめて自分にできることだけはちゃんとやりたいのに。

 焦れば焦るほどうまくいかない。


「……アリシア、もういいぞ」

「……すみません」


 手伝いにきたのに足手まといになっている。落ち込むばかりだ。

 いや、駄目よ。

 落ち込んでいても仕方ない。皆頑張って作業しているじゃないか。自分にできることを探すのだ。


 必死に辺りを見回すと、机に向かって文字を書き写す筆記者の姿がある。左手に持ったペンナイフで幾度も羽ペンの先を削っている。

 インクをつけたペンの先端で羊皮紙を突いて文字を書くのだが、どんどんペン先が丸くなってくるのだ。だからしょっちゅう削らねばならない。


 これだわ! 

 アリシアは思いついた。


「あの! それ、私に削らせてください」

「え? これ?」


 文字を見過ぎているせいか、目が充血している修道士が、アリシアを驚いた顔で見た。ずっと机に向かっているせいか、肩も腰もこわばっている。


「そうです。私、削るのは得意なんです」


 故郷の町チェスターの小麦倉庫で、小麦の茎の部分を細く削って加工するのが得意だったのだ。人間、何か一つくらい取り柄があるものである。それがたとえどんな小さなことであっても。


「……えっと、代わりに削ってくれるのか?」

「はい! ぜひ!」


 アリシアの勢いに押されたのか、修道士が先の丸くなった羽ペンを渡す。アリシアはそれを勢いよくペンナイフで削り始めた。


「できました!」

「本当? ――おお、いいじゃん!」


 よかった! ようやく役に立てた。踊りだしたくなるくらい嬉しい。


「じゃあこれもお願いするよ」

「はい、喜んで!」


 その様子を見ていた他の筆記者たちも次々と羽ペンを持ってくる。


「アリシア、僕のもお願い」

「これも頼む。めっちゃ削って細くしちゃって」

「はい、お任せを!」


 * * *


 礼拝の準備を抜け出したヒューイは、筆写室へ向かった。アリシアの様子をうかがうためである。

 というのは建前で、本音は少しでも一緒にいたいだけだということも充分わかっていた。

 五歳も年上なのに情けない。苦笑するけれど、気持ちは抑えられない。


 あいつに怒られないといいけどな。

 少し心配になる。それにハンナのことでも、アリシアに嘘をついてしまった。後ろめたい気持ちが湧く。アリシアの前に相談役や修道士たちの手伝いをしていた子はハンナだ、と嘘をついた。そう言わなければ、ヒューイのしていることがアリシアにばれてしまうからだ。


 許してくれるだろうか。ふと思い、心が冷えた。この嘘が知られた時にアリシアは自分を許してくれるだろうか。

 最初は大事な妹だと思っていたから嘘をついた。今は大事な女性だと思うから、嫌われたくないから嘘をつき続けないといけない。


 大きく息を吐き、そして笑みを浮かべた。アリシアや他の者たちの前では笑っていないと。笑うのは得意だ。親と別れた六歳の頃からそうして生きてきたから。


 ヒューイは笑顔で筆写室のドアを開けた。


「アリシア、どう? 上手くいってる? ――あれ?」


 室内にあるのは真っ黒な後ろ姿だけだ。アリシアの姿が見えない。

 不思議に思いながら中へ進んでいくと、


「うおっ!」


 空いた机の上に羽ペンの山がある。ペンが山のように積まれているのだ。


「なんだ、これ? ――うわっ!」


 またもや驚いた。その山の向こうにアリシアの姿があったからだ。床に座り込み、黙々とナイフでペンを削っている。集中していてヒューイに気づかない。というか、目が血走っていてなんだか恐い。

 アリシアの前にしゃがみ、恐る恐る覗き込んだ。


「……アリシア?」

「今忙しいので話しかけないでください」


 アリシアが顔も上げずに言った。ヒューイは衝撃を受けた。いつも穏やかで可愛らしいアリシアがまるで別人である。

 どうしたの、と理由を聞こうとしたヒューイに、筆記長の鋭い声が飛ぶ。


「ヒューイ、アリシアの邪魔をするな。彼女は今、ペン先を削っているのだ。我々皆の目的のために!」


「おお――!!」と修道士たちとハンナが同じく血走った目で振り返り、雄たけびを上げた。「おー」とアリシアまで追随しているではないか。


「専門の筆記者と装飾職人などには負けん! 我らの写す書物が最高だと、改めて世に知らしめるのだ――!!」

「おおお――!!」


 盛りあがっている。最高に盛りあがっている。もちろんアリシアも「おー!」と一体となっている。


 そして一斉に仕事へ戻った。静寂の中、筆記者たちのペンが紙にこすれる音と、金箔を貼り付ける音、そしてアリシアのナイフでペン先を削る音だけが静かに響く。


 ヒューイは立ち上がり、「なあ」とその場で呼びかけた。だが誰も答える者はいない。振り向く者さえも。

 なんか寂しい……。

 疎外感を感じる。部屋の中央でぽつんと一人立ち尽くし、ヒューイはもう一度呼びかけた。


「俺も写本しよっかなあ。何か手伝うことがあったらなんでも言っていいよー」


 笑顔で言うが、やはり反応する者はいない。

 なんだ、これ。寂しいんだけど。

 そこへ、


「ヒューイ司祭様」


 と後ろから呼ばれた。とても嬉しくなり、


「なんだ? 何を手伝えばいい?」


 と笑顔で振り返ると、そこには若い修道士の姿があった。

 なんか俺、にらまれてない? 目に恨みがこもっている気がする。なんで? いや、ちょっと待て。確かこいつは――。

 彼は低い声で言った。


「手伝いはいいので、僕のアップルパイを返してください」

「ごめん」


 ヒューイはいさぎよく謝った。



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― 新着の感想 ―
[一言] 筆写室のやり取り…何度読んでも面白いです。
[一言] 前回に引き続き ハンナちゃん可愛い(*^^*)
[一言] アップルパイの恨みを思い知れ。
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