14 筆写室①
「アリシア、今日は筆写室の手伝いを頼むよ。写本を頼みたい」
「はい」
ヒューイに言われて一緒に大聖堂の塔の下部に向かう。そこは地下聖堂となっていた。聖具室や祭服収納室の隣に、図書室と筆写室があるのだ。
書物は高級品である。だからアリシアが書物に触れたのは人生でたった一度だけだ。
町の子供たちは大抵、教会で簡単な文字の読み書きなどを教わる。アリシアもそうで、その時に神父が見せてくれた時のこと。
表紙が分厚くて金色の縁取りがしてあって、とても綺麗だった。中の紙はザラザラしていたけれど、それでもびっしりと書かれた流麗な文字と豪華な挿絵は、子供たちを惹きつけたものだ。
すごいわ。書物を見られるだけでなく、写すこともできるかもしれない。
期待に胸が高まった。
「ここだよ」
図書室に着いた。
ドアの向こうは異次元である。まず天井が高い。そして壁に沿って作られた本棚には、天井近くまで書物がぎっしり詰まっていた。
すごい……だけど上の方の書物はどうやって取るんだろう。
そんな疑問を払拭するかのように、棚に立てかけられたいくつもの梯子が目に入った。そうなのね。けれど高所恐怖症気味なアリシアは想像するだけで身がすくむ。
まさかあれに上って本を整理するお手伝いじゃないわよね。ヒューイ司祭様は写本を頼みたい、と言っていたはずだし……。。
不安が消えないので恐る恐る聞いてみる。
「あの、手伝うのは写本なんですよね? 梯子に登ったりとか……」
「ん? もちろんしてもらうよ」
「えっ……」
「嘘だよー」
アハハと笑っている。
でもアリシアは笑えない。顔が引きつっているのが自分でもわかる。
「高いところ苦手なんだね。覚えておくよ」
「お願いします」
真剣な顔で頼むと、アリシアの嫌いなものがわかったヒューイが嬉しそうに微笑んだ。
図書室の奥にあるドアの向こうが筆写室だ。ヒューイがドアの前で振り返り、いたずらっぽく笑った。
「中を見て驚かないでね」
「えっ?」
そう言われたものの、ドアが開いてアリシアは驚いた。
静かだから誰もいないのかと思っていたら、部屋の中いっぱいに人がいるではないか。
筆記者専用の木の机が壁際にぐるりと並んでいる。つまり皆が壁を向いた状態で作業しているのだ。
十人ほどの修道士たちが、無言でひたすら手だけを動かし、黙々と作業している様は圧巻というか、少し怖い。
「驚いた? 異様だろう?」
ヒューイが明るく笑うけれど、その声にちらりとでも反応する者は皆無である。すごい集中力だ。
「あれ、ハンナ?」
全員黒のローブを着て、集中するためかフードをかぶっているので、黒だらけの中、一つだけ金色のものがある。ハンナの金髪の後頭部だ。
「ハンナと仲良くなった?」
「いえ。あまり……」
寝室が隣だし、毎日同じ時間くらいに修道院へ行くので、よく見かけるのだ。
けれどやはり手を振ったり、通り一遍の挨拶をしただけではハンナはアリシアの前を素通りする。
ここの担当だったんだわ。
確かに相談役より向いているかもしれない。
「筆記長!」
と、端にいる黒い背中にヒューイが呼びかけた。
だが彼は振り向きもしない。ヒューイは全く気にしていない様子で、彼の隣へ行き、横から覗き込んだ。
「筆記長、手伝いの子を連れてきましたよ。アリシアです」
筆記長が渋々といった感じで、フードを脱いで振り返る。三十代後半くらいか。痩せて青白い顔をした、神経質そうな男性だ。
「よろしくお願いします」
アリシアが頭を下げると、軽く会釈した。
ヒューイと筆記長が話しているが、それに気を留める者はいない。皆、アリシアがここに入ってきた時と同じ姿勢で、机にかじりついて作業している。ハンナもだ。
すごい集中力だわ。
恐いくらいである。
誰もこちらを見ないので、後ろから彼らの机の上を観察してみた。
八角形になった天板の中心部分が盛り上がり、手前に向かって傾斜している。そこに羊皮紙を置いて、羽ペンで筆写するのだ。
傾斜した部分の端っこには尖筆やガチョウの羽ペンが何本も刺さり、角で作ったインク壺が小さな穴に差し込まれている。
見たこともない光景に感動していると、
「休憩ですよー」
若い修道士が大きな盆を持って入ってきた。
三角に切ってあるたくさんのアップルパイが入っている。それを一つずつ机の端に置いていく。途端に、
「やっと休憩だー!」
「あー、これ今日中になんて絶対に終わらねーよ!」
「肩ガチガチなんだけど! 目も痛いし、すごい乾くし!」
静かだった室内が騒がしくなった。皆椅子の上で思いきり伸びをしたり、首を鳴らしながら立ち歩いたりする。
よかった。普通の人たちだったわ。
安心してアリシアは小さく息を吐いた。正直言うと、先程の光景はちょっと異様で恐かったのだ。
アリシアはハンナの後ろへそっと近寄った。皆がリラックスしている中、ハンナだけがテーブルにかじりついたままだ。
「あの、ハンナ。休憩しないの?」
邪魔しないように小さな声で話しかけるが、ハンナは振り向きもしない。アリシアは気になって机の上を覗き込んだ。
「わあ、すごい!」
思わず声がはずんだ。
ハンナは艶出し担当のようで、机に置かれた羊皮紙には、細かい金の装飾がなされている。青い背景に金のアイビーの蔦が複雑に絡み合う。周りの貝殻を細かく砕いて色付けした、赤い細工も見事だ。
「これ、ハンナがしたのよね? すごく綺麗。この金のアイビーも赤い模様も細かいのね。本当にすごい!」
知らず知らずのうちに興奮していたようだ。
ハッと我に返ると、ハンナが目を見開いてアリシアを見つめていた。
「あっ、ごめんね。つい興奮しちゃって」
邪魔をしてしまったかな。反省して離れようとすると目の前に皿が突き出された。
配られたアップルパイだ。煮詰めた林檎とシナモンの甘い匂いがする。
「どうしたの? これはハンナのでしょう?」
戸惑いながら聞くも、ハンナは無言のまま皿を突き出してくるばかりだ。
えーっと、これは――。
「……もしかして私にくれる、ということ?」
ハンナが真顔でこくりと頷いた。
アリシアは困った。きっと菓子工房の職人たちが作ったものだろう。何層にもなったパイ生地がサクサクしているのが見ただけでわかる。とても美味しそうだ。けれど――。
筆記者には集中力が必要なので、菓子工房に休憩用のお菓子を毎日頼んでいる。つまりこれはハンナの仕事に対する対価なのだ。
けれどハンナは相変わらず何も言わず、ぐいぐいと皿を突き出してくる。
ここまでしてくれている以上、断るのも何か変よね。そういう結論に至ったアリシアは、
「ありがとう」
と笑顔で皿を受け取った。ハンナが無言で頷いた。
「ハンナとしゃべってるの? すごいね」
ヒューイが興味津々といった顔で近づいてきた。
だがしゃべっていたのはアリシアだけで、ハンナは一言もしゃべっていない。
ヒューイは構わず、空いていたハンナの左隣の椅子に腰を下ろした。アリシアは言った。
「ハンナの写本、すごく綺麗なんですよ。見とれちゃうくらいです」
「へえ。――ああ、本当だ。この出来なら筆記長も認めているんじゃない? ねえ、筆記長!」
気分転換用の弱い葡萄酒を飲み干した筆記長がやってきて、青白い顔で頷いた。
「そうだな。ここの修道士たちの中で誰より上手いよ。作業も丁寧だしな。まあ愛想は全くないし、ここに入った時以来声も聞いていないが」
「ハンナも無口な筆記長には言われたくないでしょう」
「そうだな。私も適当なお前には言われたくない」
「アハハー」
ヒューイは笑って、座っている机に置いてあったアップルパイを勝手に食べ始めた。きっとこの机の者が後で泣く。
ハンナはまばたきもせず、じっと筆記長を見つめている。
そして目を見張ったまま小さく口を開いた。
「私……上手ですか?」
「ん? ああ、そう言ったが」
ハンナに話しかけられた筆記長が驚きながらも頷く。ハンナは、
「そうですか……」
と一言だけつぶやいて顔を伏せた。
そして素早い仕草で、ヒューイが座っているのとは逆の、右隣の机に身を乗り出した。
「うおっ! なんだよ、ハンナ?」
驚く金髪の修道士には構わず、彼のアップルパイを皿ごと素早く奪うと、またもアリシアに差し出した。
「おい、ハンナ! それ、俺のだぞ!」
怒る金髪の彼を、ハンナは目を見開いたままにらみつける。結構な迫力だ。彼がグッと言葉に詰まった。
二皿目のアップルパイを差し出されて困惑したのはアリシアだ。
「え、またくれるの? さっきももらったのに」
遠慮するアリシアの頬に、ハンナが皿をぐいぐいと押しつける。
ヒューイが目を細めた。
「もらっときなよ。アリシアがいたから筆記長に褒められた。だからお礼のつもりなんじゃない? 感謝の印だよ。まあ多分だけどね」
相変わらず適当なヒューイの隣で、青白い顔の筆記長が、そうだな、と言わんばかりに頷いている。
「じゃあ……ありがとう」
そっと手を出すと、二つ目のアップルパイが置かれた。
アリシアが笑顔を向けると、ハンナが真顔で見つめ返してくる。表情は変わらないけれど、ハンナの頬の線がかすかに緩んでいるように見えた。
「いや、それ俺のだから!」
自分の分を奪われたのになぜだかいい話風にされている、金髪の修道士が叫ぶ。
筆記長が自分のアップルパイを渡した。
「まあ、許せ。ハンナが感情を出すなんてめずらしいことだぞ。これをやるから」
「食べかけなんていらないっすよ!」
「これは食べかけではない。前もって半分に割っておいただけだ」
「いや、口をつけて食ってたの、見てましたからね!」
賑やかな彼らの前でアップルパイを頬張るアリシアを、ヒューイが笑顔で見つめる。
筆記長が聞いた。
「ヒューイ、そろそろ行かなくていいのか? 夕方の礼拝担当はお前だろう?」
「――まだいいですよ」
「早く行け。ラウルが怒って呼びにくるぞ。あいつを怒らせたら毒舌の嵐なんだから」
「別に恐くないですし」
「図太いお前は恐くなくても、繊細な私たちは恐いんだ。早く行け」
シッシッと追い払う真似をする。ヒューイが顔をしかめた。
「ひどいなあ、筆記長」
「ひどいのはどっちだ。というか、いつもは長居しないのにどうして今日はこれほど粘るんだ?」
ヒューイが返事に困っている。他の修道士たちも、
「そういえばそうですよね」
「なんで今日はずっといるんですか?」
と賛同し始めた。しまったと顔をしかめるヒューイに、アリシアは気を遣って言った。
「私は大丈夫ですから、礼拝の準備に行ってくださいね」
「――わかった」
ヒューイは複雑そうな顔で頷いた。




