13 相談役(貴族のお姉さん)③
しばらくして、アリシアものろのろと立ち上がった。布きれでも詰め込まれたように頭がぼーっとして上手く働かない。体も重く、部屋の出口まで十歩に満たない距離なのにひどく遠く感じた。
出口の前まできてようやく気がついた。前と同じで、ドアが半分開いている。
廊下へ出ると、ドアのすぐ脇にヒューイの姿があった。壁にもたれて腕を組んでいる。
ゆっくりとこちらに視線を向けて、優しく微笑んだ。
「よく言った」
包み込むような声音に、必死に堪えていたものの堰が切れたような気がした。
アリシアはその場にしゃがみこみ大声で泣いた。
自分はなんて馬鹿なんだ。ずっと前からわかっていたのに。大事なものがなんなのか、本当はわかっていたのに。
最後に兄に会った時に、手渡された高価なストール。恋人と二人で選んだと言っていた。
どんな顔であれを選んだのだろう。きっとアリシアの喜ぶ顔を想像していたに違いない。それなのに自分はお礼も言わなかった。
恋人からかけられた言葉にも、なんの返事も返さなかった。
もう嫌。
自分が嫌だ。心の中がぐちゃぐちゃで、どうやって償えばいいのかわからない。
どうしよう。どうすればいいの――?
不意に、差し出された白い布の切れ端が視界に入った。顔を上げると、同じようにしゃがみこんだヒューイがハンカチを差し出していた。
その顔には優しい笑みが浮かんでいる。心に染み込むような笑みだ。アリシアはハンカチを受け取り、顔に押し当てた。
心配してくれている。だから泣き止まないと。焦るのに、ちっとも涙が止まらない。
「無理しなくていいよ」
柔らかい声が降ってきた。
ああ、泣いてもいいんだ。悲しんでも、後悔してもいいんだ。
自分が駄目だと思ってきた感情の全てを許された気がして、アリシアはもう一度泣いた。
「――すみません」
申し訳ない気持ちで頭を下げる。あの後も涙はなかなか止まらなかった。無理もない。故郷のチェスターを出る前からずっと我慢してきたのだ。
それでもヒューイは口を挟むこともなく、ただ黙ってそばにいてくれた。涙でぼやける視界の端に映る、黒ローブの端っこ。ここに雇われてよかった。ハンカチを顔に押し当てたまま、しみじみと感じていると、
「いいんだよ。司祭だからこういったことには慣れてる」
ヒューイが笑って言った。
そうよね、と改めて思った。アリシアのような悩みを聞く相談役ではなく、犯した罪を告白する信者の告解も聞くのだから。
「ただ、まあ――」
とヒューイが言葉を濁す。気になってハンカチから目元だけ覗かせると、ヒューイがフッと視線をそらした。そして気まずそうに頭を掻き、
「目の前で泣かれるのがこれほどとは思わなかったけど」
と苦笑した。
「すみません」
「――いや、多分俺の言った意味はわかってないと思う」
戸惑うアリシアに、ヒューイはやけに真剣な顔で言った。
廊下についた窓から光が差し込む。窓枠に彫り込まれた細かい装飾が、床に伸びる影に荘厳さを与えている。
「俺の経験上、人があれほど泣くのは何か大きな後悔や喪失感を抱えているからだ」
かけられた声は穏やかなのに心に染みた。
そのとおりだ。こくりと頷く。大き過ぎる後悔。けれど目を背けていた自分の本心にやっと気がついた。だからその喪失感を、完全にとはいかなくても取り戻すことはできるはずだ。
「自分の行く道は決まった?」
決まった。今度は大きく頷いた。
兄の居場所を捜す。
ここでの仕事があるし、国中を捜すのは自分だけではとても無理だ。けれど大きな街には人捜しを生業としている者がいる、と聞いたことがある。このシャルドにもいるはずだ。
休みの日に自分の足で捜すけれど、その人にも頼もう。
そして兄とその恋人に会ったら、今度は笑顔で「おめでとう」と言うのだ。必ず。
決意がみなぎるアリシアを見て、ヒューイがゆっくりと微笑んだ。
「そろそろ食事の時間だな。食堂へ行こうか」
しばらくしてヒューイが言った。アリシアが落ち着いてきたことがわかったのだろう。
アリシアは立ち上がるヒューイを見つめた。前も思ったけれど不思議な人だ。聖職者だからだろうか。不安に波打つ心を静かに落ち着かせてくれる。
食堂へ向かうため、並んで廊下を歩きながらアリシアは聞いた。
「人捜しを頼みたいんですけど、街のどこへ行けばいいんでしょう?」
「誰か捜してるの?」
ヒューイが興味深そうな顔をする。しまった、と慌てた。まだ言うわけにはいかない。
「いえ、あの、私じゃなくて、他の人に聞かれただけです……!」
「そっか。尋ね人屋だよね? 街の北西部に靴屋が集まる通りがある。そこの一角で、人捜しか物探しかをする男がいると聞いたことがあるな」
靴屋の通りね。行ってみたらわかるかしら。次の休みにでも行ってみよう。
そう決めた途端、
「でも料金が高いと聞いたよ。最低でも銀貨二十枚は取るって」
「えっ!?」
高過ぎる。そんな大金、とてもではないが持っていない。
そうよね。人を捜してもらうんだものね……。
どこの町にいるのかすらわからない人間を捜してもらうのだから当たり前か。
頑張って稼ごう……!
アリシアは心の中で再び決意を固めた。
食堂へ近づくにつれて、肉の焼けるいい匂いがしてきた。廊下の向こうから歩いてきた修道士が、ヒューイに一礼して告げた。
「菜園担当のギルが来月結婚するそうです。ご報告まで」
「へえ、おめでとう。相手はどんな子?」
「パン屋で働いている娘だそうです。ギルの奴、最近パンばかり買っていると呆れていたら、彼女に惚れて店に通っていたそうです。可愛い子ですよ」
「めでたいね。結婚式をするならぜひ司式する、と言っておいてよ」
「わかりました」
再び一礼して去っていく。
その会話を聞いていたら、ふと疑問に思った。
「ここの司祭様は結婚できるんですか?」
ヒューイが目を見開いた。
「……なんで?」と驚いた声で聞いてくる。
「いえ、確か郊外にある修道院とは違って、こういった街中にある教会や聖堂の聖職者は結婚できるはず、と聞いたことがあったので」
兄の勤めていた教会の神父も、故郷の町チェスターの神父も結婚していたから。
「……ああ、そっちね。単純な疑問の方ね。そうだよね」
がっくりと肩を落とす。そして言った。
「できるよ。ここに勤める聖職者は結婚が許されてる。それでも二十年前くらい前までは、司祭以上の階級になると結婚できなかった。一般の修道士のうちに結婚して、それから司祭になるのはよかったんだけどね。
今はその戒律が変わって司祭以上でも結婚が許されるようになったんだ。でもその名残からか、結婚するまでの手続きがものすごく面倒くさいんだよ」
話しながら盛大に顔をしかめている。
よほど厄介らしい。
それを聞きながら、でも……と思った。でも、ということは――。
「その、ものすごく面倒くさいことをしてでも一緒になりたいと思える女性に出会えたら結婚する、ということですね?」
いいなあ。素敵な話だ。
そう思って微笑むと、
「ん? ――んー、そうだね」
と、ヒューイが一拍置いて笑い返した。
 




