12 相談役(貴族のお姉さん)②
彼女は、私は四年前に結婚して子供もいますが、と言い置いてから、
「妹には両親が決めた許婚がいました。ですが妹はその許婚の方ではなく、他の人と結婚したいと言いだしたのです」
消え入りそうな声だ。しかも緊張のせいか語尾が震えている。
それでも不思議と聞き取りやすい声だ。
「妹が結婚したい相手というのは、石工の職人の方です。もちろん石工の方々は大聖堂やお城を造れるのだから尊敬します。
ですがその方は親方ではなく徒弟の一人のようで、両親はそんな男と結婚なんて許せるはずがないと、怒りをあらわにしました」
「はい」
それはそうだろうな。
着ているものや話し方、雰囲気などから、格子越しでもこの女性が上流階級の人間だとわかる。
もしかしたら貴族かもしれない。だとしたら身分の違う恋だから。
「正気の沙汰ではないと、両親は妹を寝室に閉じ込めました。正気に戻るまで絶対にここを出さない、と。ですが私とは違い、妹は活発な性格で、二階の窓から屋根伝いに脱出したそうです」
確かに活発である。
「そしてそのまま石工の方の許へ行き、結婚しました」
「えっ、結婚したんですか!?」
思わず聞き返してしまい、慌てて口元を手で押さえた。
てっきり全てを捨てて駆け落ちした、か、泣く泣く諦めた、とか続くと思っていた。さすが自由を重んじる自治都市である。
それに何より、
妹さんが行動的だわ。
アリシアは感服した。格好いい。憧れてしまう。
「愛する男性と一緒になれて妹は幸せそうです。妹の許婚だった方も、本当は妹のような元気で活動的な女性よりも、おしとやかでおとなしい女性が好みだったそうです。だからそこはなんとかなったんです。ただどうにもならなかったのが――」
言いよどむ。
彼女の続けたい言葉がアリシアにはわかった。
「ご両親ですか?」
静かに確認する。
格子越しに相手がこくりと頷いたのが見えた。
「両親は妹を勘当しました。妹は平気そうですが、両親は私にも金輪際妹には近づくなと言いまして……」
小さい頃から仲のいい姉妹だった、と女性は悲しそうに続けた。
だから両親には悪いと思ったけれど、それからもこっそり妹に会いに行ったり、使用人に頼んで妹の家に贅沢品などを届けさせたりしたそうだ。
けれどそれが両親にばれた。両親は姉である彼女にも怒り、今度妹と連絡を取ったらお前も勘当する、と言い放った。
言葉を失うアリシアに、彼女は悲嘆に暮れた声で訴える。
「私の両親は昔気質というか、真面目なんです。規則や決められたことは何があっても守らないといけない、と思っています。
もちろんそれはそのとおりです。妹と許婚の方との結婚は昔からの約束でしたから、いくら許婚の方も納得されたとはいえ、それはしてはいけないことです。ですが……」
語尾が消え入るようだ。
彼女の言いたいことがわかり、アリシアはスカートを両手で強く握りしめた。
落ち着かない。心臓の鼓動が速くなってきた。
「ですが、私は妹のことが大好きなんです。子供だった頃、私は引っ込み思案で、同い年の女の子たちとなかなか打ち解けられませんでした。
だからお茶会に誘われて行っても、ずっと一人で黙ってお茶を飲むだけで……。そんな自分が惨めで、ずっと嫌でした。
でも妹はそんな私を好きだと言ってくれました。そのままでいい、そんな姉さんが大好きだ、と……」
鼻をすする音がした。
小窓の向こうで女性がシルクのハンカチを鼻と口元に当てている。そしてこちらを見た。
格子越しにではあるが目が合ってしまい、アリシアはうろたえた。
女性が身を乗り出した。
「私はどうしたらいいんでしょう? 妹は約束を破りました。してはいけないことをしました。両親の怒りはもっともです。でも妹はとてもいい子で、私は大好きなんです……!」
ぐらりと床が傾いたような感覚に陥って、アリシアは彼女から顔を背けた。
……何、これ?
息が苦しい。体に震えが走る。
そっくりじゃない。
アリシアの境遇と。
してはいけないことをした兄。でも兄は両親亡き後、苦労してアリシアを育ててくれた。優しくて頼りがいのある大好きな兄だ。
女性がすがるように小窓の格子に指をかける。
「私はどうしたらいいんでしょう? 教えてください……!」
やめて。そんなこと私に聞かないで。
耳をふさぎたい。どうしたらいいか? わかるわけない。むしろアリシアが教えてほしいくらいなのに。
兄のことを考えない日はない。もらったストールを見ると胸が苦しくなるとわかっているのに、毎晩それを取り出して眺めてしまう。
兄のことを愛しているのか、それとも怒っているのか。あの時、チェスターの我が家で自分はどうすればよかったのか。
毎晩考えても答えは出ない。
泣きたい気持ちで顔を上げると、小窓越しに目が合った。彼女の形のよい切れ長の目には涙が浮かんでいる。
ああ、迷っているんだ。アリシアと同じように。
頭で考えるより速く、アリシアは震える口を開けた。
「……皆さん、辛いでしょうね。妹さんも、ご両親も、許婚だった人も、そしてあなたも」
「はい」
「あなたはどうすればいいのか。妹さんかご両親か、どちらを選べばいいのか――」
結婚するはずだったセオのことを思い出すのは今でも辛い。
結婚を白紙に戻してほしいとセオの父が言った。
あの時の、決してアリシアを見ようとしない、セオのかたくななまでの頬のこわばり。
今でもまざまざと脳裏に浮かんでは心が冷える。
「どちらの味方につけばいいのか――」
兄か、それとも傷ついた自分か。
唇をギュっと強く噛みしめた。口の中に、かすかに血の味が広がる。
――そんなことわかっている。本当はわかっていたのだ。
チェスターでのことを思い出そうとすると、脳裏に浮かぶのはセオの顔じゃない。いつだって兄の顔だ。
両親のお葬式でアリシアの小さな手を握りながら、必死に涙をこらえていた顔。
子供だったアリシアが、母が恋しいと泣くと、いつでも飛んできて抱きしめてくれた。
最初は下手だった兄の手料理がだんだんと上達してきて、給料が入るとアリシアの好物を作ってくれた。
森で迷子になって途方に暮れて泣いていたら、捜しにきてくれた兄はもっと泣いていた。
隣街の教会で修道士になったのもアリシアのためだ。
女の子だから可愛い服を買ってやりたい。嫁にも出さないといけない。その時は立派な嫁入り道具も持たせてやりたい。
兄は笑ってそう言っていたと、隣のおばさんが教えてくれた。
自分の欲しいものや食べたいもの、やりたいことも全部我慢して、一生懸命アリシアを育ててくれた。
浮かぶのは兄の顔ばかりだ。笑った顔、怒った顔、困った顔、そして最後に会った時の寂しそうな顔――。
「……大好きな人なら、味方になってあげるべきです」
体の奥底から言葉を絞りだす。
「たとえ世間から責められるようなことをしても、大好きな、愛する人なら、あなただけでも味方になってあげるべきです」
おめでとう、と言ってあげればよかったのだ。
今まで自分のしたいことを全て我慢してきた兄が、ようやく掴んだ幸せなのだから。
ただ笑顔で「おめでとう」と言ってあげればよかっただけだ。兄にも、兄が愛した恋人にも。
自分はなんて馬鹿だったんだろう。
果てしない後悔が込み上げた。
アリシアは両手で顔を覆い、椅子に座ったまま膝に突っ伏した。
「――そうですね」
やがて小窓の向こうから細く小さな声がした。
ゆっくり顔を上げると、彼女のうつむきがちだった横顔がまっすぐ前を向いていた。
「そうします。私が妹の味方になります」
かすれがちの小さな声は、それでも新たな決意に満ちているように聞こえた。
「聞いていただいてありがとうございました」
女性がそっと椅子から降りて、告解室を出て行く。向こう側のドアが閉まる音がした。




