11 相談役(貴族のお姉さん)①
しまったなあ。
修道士専用の礼拝堂で、ヒューイはため息を吐いた。
アリシアはいい子だ。優しいし思いやりもある。不幸な境遇にも笑顔で耐えている。だからこそ大事な『妹』だと思っていたし面倒も見た。それなのに。
――まさか惹かれるなんて思いもしなかった。
五歳年上だから、アリシアにとってヒューイはまさに『兄』だろう。そう思ったからこその『妹』発言だったのだ。
それがまさかこうして自分に返ってくるとは。まさにブーメラン。自業自得とはこのことか。
ここは街中にある開かれた聖域だから、ヒューイも他の修道士たちと同じように街へ出る。知り合いの女性たちもいる。信者でもある彼女たちは、若き司祭で人当たりもいいヒューイに近寄ってくる。
それでも特別だと感じる女性に出会ったことはなかった。
それが、まさか。よりにもよってアリシアだとは。
小さく呻きながらも、自分の心をはっきりと自覚していた。本気であることもちゃんとわかっている。何回目かわからないため息を吐いた。
そして前を向いた。祭壇で蝋燭の灯りが揺らめいている。確かめないといけないことがあるのだ。そのための準備も終わった。
願わくば、誰にとっても優しい結果が出ますように。
祭壇の前で両手を合わせ、ヒューイは神に祈りを捧げた。
* * *
夜も更けて、アリシアは寝室のベッドに座っていた。窓の外は真っ暗だ。今夜は星もない。
ベッドの横にあるナイトテーブルの引き出しを、そっと開けた。兄とその恋人からもらったシルクのスカーフが入っている。
結婚式用の手縫いのドレスは家に置いてきたけれど、これは残してこられなかった。
何度となく手にしたものを、そっと手に取る。向こうが透けて見えるほど薄い布地なのに、とてもなめらかで柔らかい。
きっと高いんだろうな……。
罪悪感が込み上げて、急いで首を横に振る。でもそのせいでアリシアの結婚は破談になってしまった。自分は怒ってもいいはずだ。
そう思うのに、胸の内に満ちる感情は悲しみだけだ。
正直、兄たちについてまだ気持ちの整理がつかない。怒ればいいのか悲しめばいいのか。ただ――。
お礼も言わなかった。
最後はいつもその結論に達して喉の奥が苦くなる。アリシアはスカーフを握りしめてうつむいた。
どれだけの間そうしていただろう。
ガチャリ、と隣の部屋の鍵を開ける、かすかな音に顔を上げた。急いで立ち上がり部屋を飛び出す。
予想どおり、ハンナが隣の寝室へ入っていくところだった。
「あ、あの」
無言で見つめてくるハンナに、声を絞り出す。
「私、この部屋を使わせてもらうことになったの。前に修道院で会ったわよね? また色々と教えて」
笑みを浮かべるが、ハンナはドアノブを握ったままの姿勢で、じっと見つめてくるばかりだ。
気まずい……。
これ以上何を言えばいいかわからず、居たたまれない気持ちを舌の上で転がす。
するとハンナが口だけ小さく動かした。
「それ、綺麗」
「えっ?」
ハンナの視線は、アリシアが握っているシルクのスカーフを差している。
「ああ、これ」
夢中で飛び出したから手に持ったままだった。
「ありがとう。その、兄からもらったの」
ハンナが軽く頷く。
話ができたわ!
嬉しくなったアリシアは興奮状態で続けた。
「こんな上等なものを持つのは初めてで。というか、ここすごいのね。大聖堂や修道院も大きくて広いし、この邸宅だって。この部屋も。こんな上等な調度品を使うのも、私、初めてで――」
目の前でハンナの部屋のドアが閉まった。
あ、あれ……?
ハンナの姿はない。部屋の中に入ってしまったのだ。
目の前にいたのだからアリシアはその光景をちゃんと見ていた。それなのにあまりにも有り得ない状況に、脳が見ていたものを拒否したようだ。
結果アリシアは驚き、廊下で一人呆然とした。
会話の途中……だったよね?
混乱する頭に、落ち着けと言い聞かせて、最初にハンナと修道院内で会った時のことを思い出す。
ああ、そうか。途中から私のひとり言だと思ったのかしら? あの時も確か「私の名前は聞こえましたけど、まさか呼び止められていたとは思わなかったので」と言っていたっけ。
そうよ。だから今も、ハンナはもう会話は終わったと思ったのよ。きっとそれだけよ。
不安になる心に言い聞かせて、アリシアはのろのろと自分の寝室に戻った。
修道士の一日は七回の祈りを柱にしている。聖務日課と言われる。
朝の四時半に行われる讃課と呼ばれる朝の祈りから、夜の七時半に行われる終課まで。出られる全員が大聖堂や小聖堂に集まって行う規則だ。
そしてその間に三度の食事と、それぞれの担当場所での労働と、読書の時間が入る。
終課が終われば自由時間である。修道士たちは思い思いに集まってしゃべったり、読書をしたり、散歩したり、街へ出て行ったりする。
都市民の生活に密着した大聖堂は開かれた聖域なので、羽目を外さなければ飲酒や女性遊びなども黙認されている。
意外に自由だわ。
聖職者の生活はもっと戒律にも時間にも縛られたものだと思っていたけれど、そうでもなかった。
でも、そうよね。
アリシアの住んでいたチェスターの教会の神父も結婚していたし、町民たちとよく酒を酌み交わしていたから。
食事も美味しいし。意外に豪華だしね。
ヒューイや他の修道士たちと同じく、修道院内にある共用の食堂でアリシアも食事している。食事は厨房担当の修道士が作るので、アリシアは席に着いて食べるだけだ。
修道院の食事というから、固い黒パンに水だけという質素なメニューを想像していたけれど、全く違った。
朝こそパンとスープだが、パンは担当のパン焼き職人と呼ばれる修道士たちが専用の焼き窯で焼いているとのことで、種類も豊富だ。
中でもアリシアが好きなのは干し葡萄入りのパンだ。聞けば干し葡萄も、ここの果樹園で採れた葡萄で作ったものだという。
昼食と夕食はそんな美味しいパンに、肉か魚、野菜料理とスープ、それに葡萄酒がつく。
食材の旨味を活かした薄味だけれど、とても美味しい。それに菓子職人たちが作る間食までつくのだ。
正直、チェスターでの食生活よりよほど豪華なのである。
朝食後、アリシアが食堂を出たところで、笑顔のヒューイに呼び止められた。
「悩みを聞いてもらいたいという女性がきているんだ。今から頼めるかな」
「はい」
アリシアは告解室に入った。そして気がついた。
相手の方はもうきているのね。
壁についた小窓越しに女性の横顔がうかがえる。
アリシアも急いで、小窓の脇に横向きに腰を下ろした。
緊張しているんだわ。
不規則な息遣いと、せわしない衣擦れの音でわかった。
落ち着きなく手を組んだり離したりしているのだろう。そのたびに衣服の袖がこすれる音がする。リンネルや麻が擦れるごわついた音ではない。上等な絹かタフタのさらさらとした音だ。
小窓越しに横目でちらりと相手を確認した。格子は細かくて、しかもその間に細かい網まで張ってあるので、顔の造作ははっきりとはわからない。
けれど艶のある赤毛と、スッと鼻筋がとおっていることはわかった。まともに見たら、きっと綺麗な顔立ちをしているのだろう。
そしてとても繊細そうな人だ。
「神の慈しみに信頼して、あなたの話をお聞かせください」
聞くことしかできないけれど、それでいいなら好きなだけ話してください。
そんな思いを込めてゆっくりと告げた。
静寂の中、窓越しに唾を飲み込む音がした。やがて小さな声が聞こえてきた。
「私の妹のことです――」




