10 菓子工房の犯人捜し②
ぽかんとするアリシアの前で、ハービーは目を剥いた。
「薬!? 確かにちょっとピリッとしましたよ! 一体なんの薬ですか!」
助けを求めるように周りにいる修道士たちを見回す。
だが彼らは困惑した顔を見合わせるばかりだ。おそらく、なんのことかわからないのだろう。
「おい、薬ってなんだよ!?」
その彼らの反応が余計にハービーの恐怖を駆り立てた。動揺するハービーに、ヒューイは楽しそうに笑っている。本当に聖職者なのか。
「まさか毒? 毒薬なの!? 俺、死ぬんですか!?」
「大丈夫。死にはしないよ。ただの食欲増強剤だから」
「へっ?」
食欲増強剤? そんなものがあるの?
「でもお前には死活問題だろう。モントル司祭から減量を命じられたことは知ってるぞ。そんな時にこの薬を飲んでしまったら、今まで以上に食欲が止まらない。誓っていい。七日以内にこの腹は三倍になる。モントル司祭は恐いぞ。本気で怒ったら今までの比じゃない。しょっちゅう怒られている俺が言うんだから事実だ」
得意げに語ることではないと思う。けれど効果は抜群だったようだ。ハービーの顔色がかわいそうなほど青ざめた。
「この薬の効果は折り紙つきだ。なんたってうちの薬草園で採れた、金持ち御用達の秘薬だからな。この存在を知るのは司祭以上だけだ。さあ、どうする?」
笑ってハービーを覗き込む。
「でも安心しろ。解毒薬はちゃんとある。正直に話せばこれをやるよ」
暗い紫にも見える薄い黒の液体が入った小さな瓶を振ってみせた。
沈黙が訪れ、その後、
「うわああ――!!」
ハービーは陥落した。力なく床に膝をつく。
「すみません、出来心で……! でも食べる気はなかったんです。本当です! ダイエットがつらくて、せめて美味しそうなお菓子を見て癒されようと思っただけなんです。でもいざ目の前にしたらどうしても我慢できなくて……。
ぷんと鼻をつく蒸留酒の香りが! 欲望を刺激するいい焼き色が! 視線を惑わす薄切りアーモンドの白と、クルミの茶色と、砂糖漬けの果物の赤や黄色がー!」
なんだかとっても美味しそうだ。
「お前なあ」
「なんで二度も食うんだよ」
職人たちも呆れ顔だ。
「だってあまりにも美味しそうで……」
「まあ、それはそうだな」
「俺たちが作ったんだから当たり前だ」
頷く職人たちの中心で、ハービーがヒューイに泣きついた。
「白状しました! 正直に全部言いました。だからどうかその解毒剤をください!」
「うーん、どうしようかな。お前が盗み食いして逃げたせいで、俺は最初こいつらから犯人だと疑われたわけだし」
ヒューイが顔をしかめて、つまんだ瓶を振る。ハービーは必死で頼み込む。
「ごめんなさい! 謝ります。だからどうか!」
「どうしようかなー?」
さっき司祭らしいと見直したのに、そうではなかったようだ。
それにしても色々な薬があるのね。
感心するアリシアの背後で、職人たちが話す声が聞こえてきた。
「なあ、あの瓶ってあれだよな? ここの貯蔵庫に入っていたやつ」
「ああ。ブラックベリーのコンポートだよ。煮て色づいたシロップの残りだ」
「えええっーー!?」
驚愕して大声をあげたのはアリシアとハービーだ。
「あれが解毒剤だって。しれっと、なんていう嘘をつくんだよ」
「そもそも食欲増強剤だなんて嘘が、まず恐いだろ。そんなの普通は思いつかねーよ」
なんてことだ。
「騙された……」
ハービーが悔しそうに床を叩いた。
「おもしろかっただろ?」
ヒューイが笑い、瓶を職人に返して言った。
「じゃあハービー、反省文な」
「ええっ! だってさっき、正直に言えば神はお許しになるとヒューイ司祭様が言って……!」
「神はお許しになられても規則は許さないだろ。それにきっとそいつらも許さないよ」
その言葉どおり、職人たちが溜まった怒りを次々口にした。
「そうだぞ! 俺たちの掃除当番を当分お前にしてもらうからな!」
「この工房の掃除もだ! 毎日手伝え!」
「モントル司祭様に言いつけないだけありがたく思えよな!」
「……わかったよ」
さすがに反省したのかハービーが小さな声で答えた。
おもむろに顔を上げて、貯蔵庫の脇にいるアリシアと目が合った。
「うわっ! ハンナ以外の女の子がいる!」
叫ばれて、アリシアは心臓が口から飛び出るかと思った。
恐い……。
いわれもないのに怯えるのは失礼だとは思う。けれど目を丸くしたまま、一心に見つめられるのには恐怖を覚えてしまう。先ほど黒胡椒だらけのタルトを、美味しそうに食べる姿を見たからなおさらだ。
瞬間、職人たちがハービーに再び飛びかかった。動きを封じる。
「お前な、アリシアが恐がってるだろう」
「そうだ、そうだ」
ハービーが抗議の声を上げる。
「いや、俺は何もしていないぞ!」
「お前はその腹だけで充分恐いんだよ」
「そうだよー。その丸いお腹がねー」
「腹は関係ないだろ!」
ヒューイはもがくハービーの首元のフードをつかんでいる。そして振り返り、アリシアに笑いかけた。
「ごめんね、アリシア。恐がらせて」
笑顔だけれど、その手には結構な力がこもっているように見えた。
「いや、だから俺は何も……!」
無茶な論理を全員に突き付けられ、呆然とするハービーをヒューイが立たせる。
「ほら、行くぞ」
シュンと肩を落としたハービーが連れられていく。確かに盗み食いをした犯人なのだが、恐がってしまった手前可哀想にも思えた。
不意にハービーが振り向いた。真摯な顔つきで職人たちを見渡す。
「最初の試作品はなんていう菓子なんだ?」
「名前か? まだつけてないけど、つけるとしたら……『フルーツケーキ』とかかな?」
「そうか――」
ハービーは微笑みながら遠い目をした。そして、
「フルーツケーキ、なかなか美味かったぜ」
と、とてもいい顔で告げた。
どうして自慢げなのかしら……?
アリシアは困惑するばかりだ。
けれど当然のごとく職人たちは困惑なんてしなかった。
「ふざけんな、ハービー! なんで上から目線なんだよ!」
「盗み食いしたって自分の立場わかってんのか!」
「反省しろー!」
と怒り狂った。
それから数日後、アリシアは素焼きの壺を抱えて歩いていた。助祭のラウルから菜園へ持っていってほしいと頼まれたのだ。両手に抱えて修道院の建物を出たところでヒューイに会った。
「――やあ、アリシア」
いつもの笑顔になる前に一瞬惑うような顔をした。不思議に思いながらも「こんにちは」と挨拶を返す。
「重そうだね。持つよ」
「大丈夫ですよ」
見かけほど重くない。だからラウルもアリシアに託したのだろうし。
「いいから」
真剣な顔で壺を取った。司祭にこんなことをさせていいのかわからないけれど、それでもこうして力になってくれることは素直に嬉しい。
「ありがとうございます」
笑顔を向けると、ヒューイはかすかに狼狽したように無言で視線をそらした。
前まではこんなことなかったのに。戸惑って理由を聞こうとする前に、
「ハービーだけど、反省文に『フルーツケーキもタルトも美味かった』とただの感想を書いて、ラウルがキレたらしいよ」
と妙に早口で教えてくれた。
「ラウルさんが前に言っていたとおり、モントル司祭様は厳しい方なんですね」
「そうだね。俺もしょっちゅう怒られてるし」
アハハと明るい笑い方はいつものヒューイだ。なんだか無性に安心した。
「本当にヒューイ司祭様とは真逆なんですね」
「そうだねえ」
「でも真逆でよかったです。ヒューイ司祭様が優しい人で」
そうでなければ、アリシアは今ここにこうしていないだろう。感謝をこめて笑いかけると、ヒューイが呑まれたように真顔になった。少し顔が赤い気もする。
「あのさ――」
と、ヒューイがやけに真剣な顔をしたのと、
「これからも『妹』として、よろしくお願いします」
と、アリシアが笑って言ったのが同時だった。
ヒューイがショックを受けたように固まる。
「ああ、そうだった……俺、確かにそう言ったわ……」
と壺を持っていない左手で顔を覆い、呻いた。




