前兆
「何だ? 淳はともかく、湊まで遅刻なんて珍しいな」
教室に息を上がらせて入ってきた二人に担任の松崎重則先生が不思議そうな目を向けた。
彼は数学の先生をしているが、実はもともと理系らしく、数学が得意だったらしいが、大学で数学の奥深さ(難しさ)に気付かされたらしい。そして挫折した。ただまだ数学が得意だった名残があるのか、計算が早い。
「すみません。ゆっくり歩き過ぎまして」
「いや〜。こいつが雄弁に語っちゃって」
「うるさい」
「言い訳はいいから。さっさと席につけ」
先生は呆れた顔をして出席を取り始めた。
「え〜と。今日休みなのは、忍と瑞樹っと。ま、どうせサボりだろうがな。今日で三日連続だし。そろそろ親にでも連絡入れとくか。よし、授業始めるぞ」
こうして授業が始まった。
「ええと。ここ重要だぞ。テストに出るからよく覚えとけ。天正十年、西暦で1582年だ。今は2025年だから、443年前だ。織田信長が死んだ。それが本能寺の変。討ったのは家臣の明智光秀。いいか重要なのはそれまで絶好調で天下人目前と言われた織田信長が、突然死んで誰が天下を取るか分からなくなったってことだ」
「先生〜。何で明智光秀は主君である信長を討ったんですか?」
「ううん。それはまだ分からない。一説によると十五代将軍の足利義昭という人物が明智をそそのかしたって言われてる」
「はっ、きっとお偉い様になって天狗になってたんだよ、信長も。それで家臣に辛く当たるようになったってとこだろ。ああ、怖い怖い」
白金拓人が後ろの南沢健二に話しかけた。
「ああ、そうだな。それで家臣に裏切られて死んだんじゃ世話ねえよ」
「おい、お前たち。人様の死を悪く言うと祟られるぞ」
「はっ。そんな手には乗らねえよ先生」
二人はケラケラと笑った。
「やれやれ、クラスにああいうやつって必ずいるよな。俺の時もいたし」
先生はため息をついて、黒板にチョークで何かを書いた。
先生に同意したようにクラスの過半数が小さく頷いた。
「よし、でそのあとの山崎の戦い…ん?」
突然、先生がよろめいた。
「じ、地震か。おい、全員の机の下に潜って伏せろ」
生徒たちは騒ぎながら急いで、机の下に潜った。
「信長の呪いかもな」
「ほらほら、さっさとしろ!」
先生も素早く教壇の下に隠れた。
地面が左右に激しく揺れている。
壁に画鋲で貼り付けてある生徒たちが先週作った好きな武将ボスターも小刻みに揺れた。
教壇に乗っていた、このあと生徒たちに出そうと思っていた小テストが散乱した。
生徒たちの叫び声があちこちから聞こえた。
終いには生徒たちの隠れていた机や椅子があちらこちらに滑った。
「へっ、情けねえな」
拓人は一人だけ悠然とその場に座って、他の生徒の様子を高々と眺めていた。
「おい、白金。お前も頭を守れ」
「俺には必要ねえよ。そんな…いっ!」
突然、拓人の後ろの掃除用具を入れていたロッカーの上に置いていたバケツが、拓人の頭めがけて落ちてきた。
「痛って! くそ〜」
「はは、信長のバチが当たったんだな」
その場にいた生徒たちの何人かは笑いながら、地震が収まるのを待った。