バカみたいに幸せだから
朝、目覚めた時、やたら固いなーなんでかなーと思った。ベッドのスプリングが恋しくて固いものから逃げようとしたら、固いものに拘束された。惰眠を貪らせなさないよと、目を開けると、ムスッとした顔の旦那様がいた。
「なぜ、逃げる」
「はい?」
おはようの挨拶もなく、記念すべき朝はそんないつもやりとりで始まった。
昨日の夜は、うん。なんか凄かった。そんな感想しか持てないのは記憶がほとんどないからだ。例えるなら、ケーキを作ろうと思って、粉の代わりに砂糖を入れてしまい、卵の代わりに砂糖を入れてしまい、牛乳の代わりに砂糖をいれて……って、それじゃあ、ただの砂糖か。
ともかくそんな甘いカンジだった……と、思う。しょうがない。脳内がオーバーヒートして、爆発したのだ。記憶はない。
そんな一夜を過ごして何が変わるかと思ったけど、旦那様を見ても何も変わらなかった。変わらず好きだ。自然と頬が緩んでしまう。
「おはようございます、旦那様」
目覚めた直後に、おはようを言えるって幸せなことだと思う。
ふふっ。くふふっと、怪しい笑みをしていると、面食らっていた旦那様の表情が優しくなる。もうちょっとこうしていたくなるが、いつまでもベッドでゴロゴロしてはいられない。起きますか。
よいしょっと体を起こすと、はらりと布団が体から滑り落ち、凹凸の乏しい上半身が……
って、ぎゃあっ! まって! ちょっと! 慌てて布団をかき集めた。
「隠すことないだろ」
後ろから旦那様の声がした。ムッとして振り返ると、頭を手で支えながら、寝そべり惜しみなく青い筋肉ボディを晒した姿が見えた。
ひぃぃっ! 目に毒だ! 毒すぎる!
「着替えます!」
服はどこだ!? バスローブ! バスローブ!
はっ。なぜ、ベッドの下に置いてある!?
これじゃあ、手が届かない。
上半身どころか、下半身さえ晒さなくてはいけない。くっ。そんな恥ずかしいことはお断りしたい。
どうする……布団を剥ぎ取って巻き付けたいが、それだと旦那様の下半身を無防備にするわけで……ひぃぃぃっ! それはダメだ。朝から拝むものではない。
作戦が定まらないまま、体だけが熱くなっていく。すると、ふわり、目の前に旦那様の腕が見えた。
次の瞬間、ぴたっと背中に肌がくっつく。この体勢は……後ろから抱き寄せられているのか!?
背中にじんわり旦那様の熱が伝わって、私の体はますます熱くなる。いや、沸騰してる。強火でお湯を沸かすポットのように熱は急上昇。汗が大量に出る。
「ラナの肌はあったかいな」
耳元でくすりと笑う声がした。そのまま首筋をちゅっ、ちゅっと、唇が這う。
「それに、美味しい味がする」
カプリと肩を噛まれた。
――ぎゃぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!!!!
ちょっと! え!? はっ?
ふぉぉぉ!
いやいや、その味、汗ですから!
かなりしょっぱいですって!
……旦那様って、塩辛いの好きだっけ?
――はっ。違う違う。
好みの分析をしている場合ではないっ!
なんだこれ!? なんだこれ!?
「お腹が空いているなら、ご飯にしましょうよ!!」
そう叫んだが、後ろで呆れられたような声がした。
「腹が減っているわけではない」
「じゃあ、なんで肩を食べるんですか!」
「うまそうだからだ」
「ほ、ほら! お腹が空いているんじゃないですか!」
「……ラナが食べたいだけだ」
は? 私を食べたいって……? 何を……
また耳元でくすりと笑う声。
「昨日はたくさん味わっただろう? また味わせてくれるか? 俺の花嫁」
そのままベッドに押し倒され、旦那様はシーツを手に取り、私たちごと包んだ。
……結局、私がバスローブを着れたのは本当にお腹が空いていた昼頃だった。
◇◇◇
「……まだ、怒ってるのか?」
朝から体力を使わされ、私はノックダウンした。恥ずかしいやらなんやらで、顔がまともに見れない。なので、自然と口はへの字になり、固く閉ざされたままだ。それを旦那様は怒っていると勘違いしている。
「……別に怒ってはいません」
「怒っているだろう」
旦那様は鼻で息をして、こっちを見ている。ちなみに今は船の上だ。森の近くの港町に向かう途中だ。
私たちは甲板に出て、海を見ながらそんなやり取りをしていた。
「……怒ってはないです」
「じゃあ、どうして、こっちを見ない」
割くように進む海面を見ながら私は顔を熱くして呟くように言った。
「……朝からは恥ずかしいだけです」
本音を言うとますます恥ずかしい。いっそのこと、広大な海に向かって意味不明なことを腹の底から叫び出したい。
そんなことを考えていると、つんつんと指がほっぺに食い込む。なんですか? と横目で見ると、困ったように笑う旦那様が見えた。
「悪かった。朝からははしゃぎすぎた」
……あれは、はしゃいでいたのか? はしゃいでいるようには見えなかったけど……
ふにっと、ほっぺをつっつかれながら、旦那様を見て口を開いた。
「……恥ずかしいだけで、嫌ではなかったです」
そう言うと、旦那様が目を丸くする。そして、はぁ……とため息をついた。なんだ?
「そういうことを言うから、はしゃぐんだろ……」
は? はしゃぐって?
旦那様はムスッとしながら、ふにふにとどこか憎々しげに頬をつつく。
「……あと、一週間くらい旅行をしていたいな」
ん? あと一週間?
ちなみに港町であと一時間なので、夕方には森に着けそうだ。
「ゆっくりしたいんですか?」
不思議そうに首を傾げると、にやりと笑われた。あれ? この笑みって……
「ゆっくりしたい。だから、一週間延ばそう」
目が爛々と輝き出す旦那様に引く。
わーい、やったー!と喜んでいるようにも見えるが……この悪寒はなんだ?
それを夜、知ることになるのだが、気づいた時にはだいぶ手遅れだった。
そんなこんなでズルズルと旅行は過ぎて、私は森に帰ってきた。
森に入ると、そのシュールさにいささか引く。曇天の空に嗤う森。こんなブキミな場所でよく生活していたものだと、自分に感心してしまう。
屋敷に行くとミャーミャとスケルが待っていた。
「お帰りなさいませ、ラナ様、魔王様」
スケルが近づき、荷物を持ってくれる。
「ただいま、スケル」
少しだけ懐かしいガイコツを見て微笑む。真っ黒な空洞の目が優しく揺れているように見えた。
「お帰りなさいませ、ラナ様……」
ミャーミャが感慨深く近づき、私の手をとった。ふわふわの大きな手が何度も私の手をさする。
「ミャーミャ?」
首を傾げていると、ミャーミャが微笑む。
「ラナ様、魔王様。おめでとうございます。お命が宿りましたね」
……え? 命って……
呆然としていると、スケルが場違いな声を出す。
「なんと! お子さまですか! めでたいじゃないですか!」
旦那様の背中をバシバシ叩きながら、スケルが豪快に笑う。
「魔王様、よかったですね! 今夜は乾杯しましょう! 脱童貞☆も合わせて!」
「……ちょっと、黙ってろ」
ミャーミャの切なくてあったかい、大きな三つの瞳を見る。そして、自分のお腹を見た。
ここに命がある……?
なんとも言えない感情が込み上げて、私は呆然としていた。
◇◇◇
その日の夜、私は自室のベッドの上にいた。横には旦那様が椅子に座っている。私の体は、一言でいうならお団子みたいだ。服を着込まされ、団子になっている。
子供ができたと分かって、旦那様はベタベタデレデレモードから、そわそわオロオロモードになり、かなり過保護になった。
いいから寝てろを今日はだいぶ言われたと思う。私は体調が悪くなったわけでもないので動きたいのだが、オロオロ魔王がそれを阻止する。
そんなびっくり展開もありつつ、不思議な気持ちで私はお腹を撫でていた。
この感情はなんだろう。
嬉しくて、でも切なくて、幸せで、でも泣き喚きたくような気持ち。こんな気持ちは初めてで、複雑だ。
「子供……いるんですね。ここに」
さすりながら、旦那様に話す。
「名前……考えなきゃですね」
この子には、もう魔王という名前は必要なくなるから。
旦那様が私のお腹に手をあてて、優しい声で言った。
「名前なら、考えてある」
「え?」
意外な言葉にきょとんとしていると、旦那様が愛しそうにお腹を見つめた。
「希望だ」
優しい声色に、体が喜びに震える。
「この子は、俺たちの希望そのものだからな」
そう言って、旦那様はこっちを見た。そして、子供のように笑う。
「ありがとう、ラナ。やっぱり、俺はバカみたいに幸せだ」
その笑顔を見ながら愛しさが込み上げて、私も笑顔で返す。
「私も! バカみたいに幸せです!」
こうして、私は希望を生むための日々を過ごすこととなった。
これで5章はおしまいです。
余聞を挟み、次で最終章になります。
最終章の始まりは、来週になります。
最後までお付き合いくだされば嬉しいです。




