“彼女”と蒸汽文明 3
その声は馬車の天井の角隅、金のコップから声が聞こえた。アニメ映画でよく見る糸電話に近いが、それより立派な造りだ。ヴァンパイアは少し困った表情で「噂をすれば何とやらだな」と呟くと、ホースで繋がっていた糸電話を自分の口元に近づけると、蓋を開けた。
「なんだい、ニコラ。君が慌てるなんて君らしくも無い。近くの配管から蒸汽でも漏れ出したのかい?」
「それよりタチの悪いのが接近中です」
糸電話の先にいる女性は、慌てている口調とは思えない口調で答えた。
「トルーラブ様が双子を引き連れて接近中です」
「……それは見違えていないかい? 彼女達は巻いた筈だが」
トルーラブ。僕達を捕まえようとした少女の名前が出た途端、彼女の顔が険しくなる。
「見間違いではありません。あと十分、いえ、五分後に私達の前に出ます」
「巻けそうかい? 出来れば、会いたくないのだが」
「残念ですが無理です。この先に検問所が敷かれているため道が――」
「皆まで言わなくても分かっている。ああ、分かっているさ。道の変更が出来ないのであろう? いや、変更したところで、後々厄介だな。こうなるなら、ニコラの言う通り、拠点で着替えておけば良かったよ」
「何はともあれ、お早めにお願いします」
「ありがとう、ニコラ。愛している」
ヴァンパイアはそう答えると糸電話を手放した。糸電話は独り手に元あった場所にシュルシュルと音を出して戻って行く。元あった場所に戻ると同時に、壁にぶつかった衝撃で蓋がパカンと閉じ、彼女が手に取る前と同じになった。
「さて、謎解きの途中で申し訳ないが、緊急事態が発生した」
ニコラと呼ばれていた女性の会話が終わり、彼女は再度僕の顔を見た。
「聞いての通り、どう言う訳か、お嬢様が此方に向かってきている」
「僕達を捕まえに?」
「私達なりに巻いたはずだがね」
そう言って、ヴァンパイアは僕にパイプ煙草を持たせた。
火皿から立ち昇る煙草独特の煙が僕の鼻を擽る。咽そうになったけど堪え続ける。
「そこで一つ提案なのだが、私達の仲間になって欲しい」
「仲間って、あの悪魔とか呼んでいる化物を一緒に倒せってこと?」
「一応、そういうことになるな。勿論、ただではないさ。衣食住に加えて、悪魔一人に退治する度に報酬も用意しよう」
「魅力的な提案だと思うけど嫌だ。死んでもお断りだね」
「どうしてだい?」
けど、堪えきれず咽てしまう。僕は咽ながら答える。
「あのときも言ったけど、僕は無関係だ。助けてもらったことは感謝するけど、そこまで巻き込まれる必要性を感じない。第一、仲間になったところで、手伝えることは何一つないさ」
「いいや、あるさ。君は自分を過小評価しているようだが、私はそうとは思っていない。君は私が思い描く戦略の中で、無くては成らない重要人物になっているのだよ。それも、私が持ち得る物全てを投げ出しても、手に入れたいと思うほどね」
ヴァンパイアは帽子を脱ぎながらそれを否定する。
彼女はその帽子を僕に被せるが、僕はそれをあまり気にしていなかった。それよりも重大なこと、先程彼女が述べた僕が重要人物であること。その単語が僕の耳に捕らえた瞬間、異世界転生・転移ものに於ける暗黙のルールの一つ、主人公を思い出していたからだ。
だとしたら、とても不味い。とてもとても不味い。
この異世界転生・転移ものの中心である主人公とは、物語が進むにつれ、厄介事――巻き込まれる事件の難易度が、青天井に上昇するのだ。その度に、誰よりも命が軽かった主人公がなんやかんやで奇天烈な力を使いこなし、油塗れの害虫並みに生存力を伸ばしていく。のだが、それが無い僕の場合はそのビジョンが思い浮かばない。寧ろ、あの悪魔に何も出来ず殺されるビジョンしか思い浮かばない。役割的に言ってしまえば、僕は主人公のふりした一般人か噛ませ犬のどちらかだ。
「そんなこと僕は望んでいない。僕が望んでいるのは元いた場所に戻ること!」
それを阻止すべく僕ははっきりと言ってやった。
「異世界転生とか転移とか何でも良いけど、それは妄想だけの話であって、現実で起きたら一番困るんだよ。悪魔を見たから逃げろ? 異世界から来た人だから手伝え? 有象無象にあるネット小説でも、もう少しマシな導入だと思うぞ。そりゃそう言った出来事が起きないかな? とか思ったことはあるさ。否定しないよ。否定しないけど、当事者になりたいとか思ったことは一度も無い。疲れるから、普通に生きていたいから、何よりめんどくさいから。そんなことより単位。いつもの堕落したキャンパスライフに戻りたいよ」
冷静になって振り返れば、中々の屑っぷりの発言である。
しかし。しかし、だ。ヴァンパイアはそれを何とも思わない様子であった。
それも、あろうことか、僕の目の前で平然と上着を脱ぎ始めようとしたのだ。
「ちょ、ちょっと! 何、自然と脱ぎ始めるんですか!」
「お嬢様が近付いているのだ。着替えているに決まっているじゃないか?」
「だからって、僕の目の前で着替えなくても」
「外で着替えろと? すまないが私は痴女ではないのだ。人並みの恥じらいぐらいはある。それより目の前で生娘が着替えているのだぞ? 男性なら普通は喜ぶ場面ではないかい?」
などと言いながら、彼女は首元のネクタイを緩み始めた。
僕は慌てて視線を窓の方へと逸らす。次第に顔が熱くなって行くのを感じる。
逸らした先も僅かにであったが、下着姿になろうとした彼女の姿が映っていたから、カーテンも慌てて閉めた。
「おや、中々気が利くじゃないか。ありがとう」
「そんなこと言っていないで早く着替えてください! 来ちゃいますよ!」
「心配しなくても着替え終えるぐらいの時間はあるさ」
さらり、と。シャツが肌を擦る音が聞こえた。
僕は堪える。一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、彼女の下着姿を見てみたい。男性であれば誰もが持っているであろうスケベ心が煩悩に囁いて来るけど、それを理性と言う蓋を使って防ぐ。
誰もが認める屑野郎ではある僕だが、そこまで落ちぶれてはいない。と思いたい。
「それにしても意外だったよ。君が学者を目指していたとは」
ヴァンパイアはガタンと、何かを開けるような音を出して、言葉を続ける。
その何かと言うのが、後で判明するのだが、ソファーを持ち上げる音だ。そのソファーの下は衣装入れとなっており、様々な衣装が収納されている。
勿論、僕が使っているソファーも同じ構造で、こちらの方には怪人業で使う仕事道具が入っている。
それを彼女は笑って説明してくれたけど、その上で横たわっていたり、座っていたりしていたから、とても笑えない話であったが。
「別にそんな訳じゃないよ」
そんな事情を知らない当時の僕は、出来るだけ平然な様子を装って答える。
「では、名のある貴族の息子だったとか?」
「そんなんでもないよ。時間稼ぎだよ。時間稼ぎ。大学って言ったって、用紙に名前を記入するだけで受かるようなFランク大学。でも、大学卒業って言う箔が付けば就職が有利だし、何より四年間の執行猶予が貰える。……何も起こらなければ、あと一年ぐらいだけだったけど」
「ふむ。何だかよく分からないが、つまり、あと一年ぐらい堕落した生活を送りたかったが、それが邪魔された、と。君はそう言いたいのだな?」
漸く、目当ての服を取り出したのか。もう一度、ガタンと音を出して元に戻す。
「べ、別にそこまで言わないけど、うん」
「なら、そうだな……では、これなら、どうだい? これなら、君も呑んでくれるだろう。亡霊としての手伝いではなく、私、ヴァンパイアとしての手伝いはどうだい? これで呑んでくれるのであれば衣食住と報酬、あとは安全も約束しよう。当然、元いた世界に戻る方法――は、私が請け負った仕事全てを終えてからになるがね、それも探してあげよう」
どうやら、この世界は、いや、彼女は、是が非でも僕を巻き込みたいようだ。
肝心の手伝いの内容は何であるか不明だが、その代案は考えてしまう内容である。
「考えているところ申し訳ないが、今は付き合ってくれないかい? お嬢様さえやり過ごせば、私やリューノスケも当分は大丈夫だ」
ヴァンパイアの手が、僕が持っていたパイプ煙草に触れる。
それに反応して彼女の方へ見てしまったが、既に着替え終えていた。
僕の目に映った彼女の服装は男装ではなくドレス。近代ヨーロッパの上流貴族の娘達が着ていそうな黒いドレスだ。
それも白のような明るい色は僅かに露出している肌ぐらいしか無く、普通の女性がそれを着ようなら、気後れしてしまいそうなデザインだ。
それを彼女は違和感無く着こなしているから、僕は呆然と見惚れてしまう。
そんな僕を目覚めさせたのは、彼女の声ではなく、激しくノックする音だった。
「どうやら時間が無いようだ。早速で悪いが、私の手伝いをしてもらおう」
「手伝うって、どうすればいいんだい?」
「何、よくある恋愛小説の真似の真似事だ」
この後、ヴァンパイアが取った行動とは、恋愛ではなく純愛の真似であった。
そう言いながら彼女は僕の膝の上に跨る。
加えて、手を頭の近くに置き、逃げられないように。
言うなれば、だいしゅきホールドに近い姿勢で僕を捕らえた。
「恋愛に疎いお嬢様でも、これぐらいすれば、今から私が何をしようとしていたか分かるだろう」
彼女は顔を近付けて耳元で囁く。
「あの……これは?」
僕は何とか声を振り絞って小声で尋ねる。
「うむ。体位四十八手のうちの一つ、抱き地蔵だな」
「何で、恋愛小説にそんなこと書いてあるんですかねぇ」
「それは作者が、その方が盛り上がると思っているからだろう」
ヴァンパイアの方は平然と言い返しているが、僕の方はそんな余裕がない。
パニックになりそうだった。脳みそと心臓は熟れ過ぎた果実のように破裂しそうに感じ、理性が煙草と柑橘系の匂いで麻痺して行くのが分かる。口の中が急速に乾いていき、水を求めて彼女の唇に吸い込まれそうになる。
兎に角、僕は、きっと彼女も、冷静ではなかった。
僕は思った。早く来てほしい、と。
「ちょっと! 私が! ノックしているんだから! さっさと開けなさいよ!」
そして、それはスグに願いが叶った。




