才能と怪人 3
目を疑った。ニコラが持っていた剣を模った蜃気楼は、白い煙と共に何処かへと四散する。
それだけではない。
それだけではないのだ。割れてしまったカップが元に戻っていく。
何もなかったかのように机の上に戻って来たのだ。
「御覧の通り、使い続ければ、こう言った新しい力を目覚めたり、元々あった力を鍛えることも出来る。そして、吸引装置を使わず効率良く蒸汽を回復するには、御伽噺のように接吻するか昨夜みたいに大量の蒸汽を浴びることだ。両方ともあまりお勧めはしないがね。前者は人間関係がギクシャクするし、後者は肉体がギクシャクするからな」
奇跡のような出来事を起こしたヴァンパイアは、何とも思わない様子で答える。
それを触れて確認しようとしたが、彼女は「安易に触れない方が良い」と言って静止する。
「割れるのを防いでいるだけだ。その手を破片で汚したいと言うならば謝ろう。それとニコラについても」
「いや、別に」
「そうか。そうか。私の家族を許してくれるのか、彼女に代わって謝罪させてもらおう。有難う。あとで私から説明しておくよ。それも、ゆっくりとね」
「……」
正直、僕は甘いのかもしれない。
本当はニコラの口から聞きたかったけど、そのときの僕も黙ってしまった。
語るも恥かしい話なのだが、ヴァンパイアの美貌に目を奪われてしまったからだ。
……そのうち、僕は彼女以外の悪女に騙されるかもしれない。
我ながら不安だ。
「それで僕はどんな才能なんだ? どうやって使えるんだ」
「そんな質問しないでくれよ。そんな質問すると、本当にニコラに斬り付けられてもしれん。私は出会って早々未亡人になるつもりはないぞ」
彼女は肩を竦めると、もう一度カップを掴む。
「まぁ、そんなこと一言も喋っていないけどね」
「いや、喋ってくれよ」
「私は楽しみは最後まで取っておく方なのでね」
すると、ヴァンパイアは懐から何かを取り出した。その何かと言うのは、昨夜彼女が身に付けていたマスクと比べると口周りしか付いていないマスクと、ノズルが付いていない携帯用スプレー缶みたいなものである。
それをニコラにそっと渡した。
「ニコラに渡した仮面が吸引装置で、霧吹きみたいなものが蒸汽保存機だ。私達は単純にマスクとスプレーと呼んでいるがね。ニコラ、リューに着けてあげて欲しい」
「分かりました」
ニコラはそう答えると、僕の後ろの方へ移動し始める。
行動は早かった。スプレーを僕の手元に渡すと、犬の躾用であるグルーミングマスクに見えるものを口元に着けさせられ、これでもかと言わんばかりにベルトで締め上げる。あまりの痛さに文句の一つ二つを言おうと思ったけど、多分、叱られたことを根に持っているのだろう、彼女に睨まれてしまい、開いた口を閉じさせる終えなかった。
「あとは鼻の上ぐらいにある通気口にそのスプレーで差すだけ。すると、マスクの中に程よい量の蒸汽が充満し、それを吸うことで才能が使えるようになる。使用回数は個人差に寄るがね。才能の使い方は、まぁ、スグにわかるさ」
「こ、ここかな?」
それらしき場所を指で確認してからスプレーを差し込む。
異変はスグに起きた。スプレーは風船から空気が抜けて行くような音を出しながら、あの肺が焼けてしまう刺激的な臭いが充満して行くのが分かる。
すると、視界が海原で嵐に遭った大船みたいに、ぐにゃりぐにゃりと揺れ始めたけど、スプレーから手を離してソファーの肘掛に力を入れて必死に耐える。
マスクのベルトを解けるほどの余裕は無かった。
「落ち着きたまえ。呼吸ではなく深呼吸するんだ。肺に入れるだけではなく、体全体に蒸汽を行き渡らせるように、深く深く呼吸をしてみたまえ。そうすると、いくらかはマシになる筈だぞ」
ヴァンパイアはそう言っているが、簡単に出来るようなことではない。
呼吸する度に脳裏でアレをチラつかすのだ。
あの光景を。
あの感触を。
あの死の恐怖を。
そして、あの化物を。
あの夜味わった何もかもが鮮明に思い出していくのだ。
とうとう耐え切れず、ソファーから立ち上がってベルトに手を伸ばすも外れない。
ベルトが頑丈と言うわけではない。
きつく締めているからでもない。
腕と手が可笑しいのだ。
腕が長く感じる。
手が麻痺している。
足だって長く感じる。
視界もいつもより高く感じる。
何もかも可笑しく感じてしまう。
それよりも一向に収まる気配がない。
そればかりか酷くなるばかりだ。
気付けば、僕は談話室から出ていた。
ふら付きながらも僕は屋敷を彷徨う。
当然、行くあてなどない。
此処に来たばかりだ。壁にぶつかりながらも、ただ、ただ、ひたすら前へ前へ進む。
そんな僕が偶然入った場所は食堂だった。
ヴァンパイアに否応無しに連れて行かれた時とは違って見えた。先程、食堂については、広々とした豪華な食堂と抽象的に書いていたが、このとき見た食堂はあまりにも違って見えた為、今更ながら具体的に描写しようと思う。
先程まで誰かが居たであろうテニスコートぐらいの広さがある食堂は、点々と置かれてある蝋燭に照らされ、その蝋燭を立てるために使われている金の蝋燭立てのお陰もあるだろうけど、目に映るあらゆるものが神々しく見える。
壁紙やその壁に飾られている風景画、今は使っていない暖炉やちょっとした骨董品らしき物、長々としたテーブルやその上にかけてある真っ白なテーブルクロスも、見るからに高そうな装飾品が、何一つ特徴がない食器も、全部が違って見えた。
それだけではない。
絨毯も、である。あのときに見た赤い絨毯は、今では血の海に見える。目の錯覚だと信じたいが、蝋燭の炎が揺れる度に、風に吹かれて微かに震える水のように見えてしまう。
気をつけて進まなければ、深みに足が捕らわれ、溺れ死んでしまう。
ただの赤い絨毯だと言うのに、そこは危険だと第六感が伝えているのだ。
その中に気になるものがあった。
宝石を惜しみも無く使われている鏡。
それに映る奇妙なもの。
それが気になって気になって、それを確かめようと近付いて。
この鏡に待っていた衝撃は今でも覚えている。
何も無かった。
人間でも無かった。
髪が無かった。
鼻が無かった。
耳が無かった。
眼が無かった。
漫画家が持っていそうなモデル人形みたいな顔だった。髪は全て刈られ、眼は刳り貫かれ、鼻と耳は削ぎ落とされ、口元を覆っているマスク以外何一つも無い。代わりに全てが皮膚に覆われている。怖ず怖ずと眼があった場所に触れると、確かに眼が無かった。
鼻も、耳も、無かった。
それだけではない。
手足が木の枝のように伸び、指など蜘蛛の足のように無い。服も千切れ、半裸に近い状態だ。それでも何があるのか分かる。
喋れる。
聞こえる。
触れれる。
それが何だか恐ろしくて、とても恐ろしくて。
鏡に映る、あの“アメンボウのような手足を持った人間もどき”の悪魔に似た化物の姿で体が震えていた。
あまりにも醜い化物の姿で一歩下がると、ズドンと地響きが鳴る。
それに驚いて、長々としたテーブルに手を置くも、テーブルが真っ二つに折れる。
支えるものが無くなった僕は、そのまま倒れてしまった。
テーブルは当然の如く粉々に砕いてしまった。
「騒ぎを聞きつけて、来て見れば、おもしれぇものがいるじゃねぇか」
ヴァンパイアでもニコラでもない声に、振り向くと見知らぬ女性が二人が立っていた。