序章 後世の雨、現世の雪、前世の黒雲
この話は『鳥十篇七 夜鷹』のスピンオフです。本編の前に、そちらを御一読頂く事を推奨します。
コンコン。「済みませーん!」「ああ、いらっしゃい」ガチャッ。「おや。今日は随分ずぶ濡れだね」
某秋日、午後。森で独り暮らしを営む俺、愛猫家は笑顔で来訪者達を出迎えた。
本日の客人方は、花も恥じらうお嬢さん二人。その内、先導の茶髪の彼女は顔馴染みだ。家を度々訪ねて来ては、唯一の家族である愛猫と戯れていく。楽しい話題に事欠かない、要は好ましい客人だ。
「雨でも降って来たのか?」
「はい。それで自転車を置いて、慌てて森へ逃げ込んだんですけど。大丈夫?」
後方に佇む黒髪ポニーテールの女性は、返答代わりにワイシャツの透けた肩を震わせた。無表情で堪えてはいるが、かなり寒そうだ。
「なら立ち話は無しだな。さ、早く上がって」
リビングへ客人達を案内し、予め薪をくべた暖炉に火を投入。乾いた木材がパチッ、パチッ……小さな火花を散らし始める。
「今タオルを取って来るから、お嬢さん方。取り敢えずここで服乾かしてな」
「御心遣い、感謝します」
「ほらカレン、前座って。あー、髪も大分濡れちゃったね。一旦下ろすよ」
長髪を束ねる真っ赤なリボンを解き、腰まで広がるストレートロング。そこへサッサッ!相方が素早く手櫛を入れる。
「頭濡れると風邪引いちゃうから、念入りに乾かさないとね」
バスルームから舞い戻ると、彼女等は暖炉へ並んで手を翳していた。仲睦まじい後頭部達を眠たげな細目で見やる、ソファ上の愛猫。白毛の背を一撫でし、俺は二枚のバスタオルを手渡した。
「ありがとうございます。はい、キリ」
「サンキュー」
礼を言いながら、真っ先に相方の髪を拭き始める彼女。まるで姉か母親のようだ。そう指摘しつつ、愛猫の頭を一撫で。その後ティータイムの準備のため、邪魔者は素直にキッチンへ引っ込んだとさ。
寒風吹き荒び、今にも泣き出しそうな暗雲の下。
「………」
街外れの丘陵、その一角に広がる墓地。喪服姿で立ち尽くす人物の目線は正面、真新しい白十字架へと落とされていた。
埋葬を終え、天候の悪化もあって一帯はとうに無人だ。と、パタッ、パタッ……見送り人を咎めるように、周囲で重い音が響き始める。
「………」
ウール製の黒衣を無情に打ち据え、見る見る積もりゆく白。だが肩を占拠しつつある天恵を掃おうともせず、遺された者は呆然と墓標を見つめたままだ。
―――人々に数多の喜びを与えし者、―――。ここに眠る―――
吹雪がいよいよ激しさを増し、人影が掻き消されかけた刹那。呼び掛けと共に、麓からの一対の靴音が接近を告げた。
―――あぁ、つまらない。
物心付いた頃から、その欠落に関しては自覚が有った。周囲に異常が発覚しなかったのは、単に自分の取り繕い方が巧かったせい。良い子、神童、天才児―――周囲にそう呼ばれる度、盲目な父母は素直に喜んだ。虚な当人とは無関係に。
試みに先程、自宅の飼い猫を殺めてみた。ナイフで首を切断したため、当然両手は血塗れ。石鹸で五回も洗う羽目になった。だが結局、肝心の魂は一滴も満ちはしなかった。
名前を呼びながら今、母親が庭で彼女を捜し回っている。実に無為な行動だ。雌猫の肉塊は細切れにし、既に川へと遺棄した。つぶらな黒目も、毎週のブラッシングで整えられた毛並みも、機敏に反応を示していた両耳も。今頃は海で等しく、魚の餌にでもなっている事だろう。
何が悪かったのだ?再度自問自答。観察する限り、彼女は自分に懐いていた筈。心在る、加えて弱者を殺めれば、罪悪感の一つも湧くかと期待したのに。
―――……そうか。
恐らく動物では駄目だったのだ。人を満たすは人。それも、誰もがその死に心痛める者であれば尚更。そう、例えば、
―――………ああ、申し分無い。
顔見知りの笑顔が穏やかな夫妻を想起し、心の奥底に僅かな期待が滲む音を聞いた。