2.ケイちゃん
神原 俊哉 :としクン、小学4年生の時の物語です。
【主な登場人物】
奈良橋 桂子 :ケイちゃん
神原 千鶴 :母さん
中田 菊代 :魚屋のおばちゃん
奈良橋のおばちゃん
ケイちゃんは決してとびきりの美人というわけではない。成績だってそんなに目立った感じでもない。運動神経が良かったという印象もない。面白いことを言って人を笑わせたわけでもない。声が大きくて目立ってたわけでもない。う~ん…… とにかく普通だ。
普通だけど、ケイちゃんの笑顔は忘れられない。
小学4年生になると、そろそろ男子と女子は違うのだということが実感的にわかってくる。誰から教わるわけでもないが、女子は女子、男子は男子、そういう区分けが頭の中でできる。だから、女子とは必要以上に話すことも、一緒に遊ぶことも、まして、手を握ったりすることは絶対にしてはいけないことだと思っている。そうしないことが自然だと思い込んでいる。だから、意識しなくても女子は遠ざけた。こっちがそうだから、相手にも伝わるのか、クラスの大半の女子にボクは避けられた気がする。
ただひとり、ケイちゃんだけが例外だった。
あれは半袖の運動着を着ていた頃だったから、1学期のプールの授業が始まる少し前だっただろうか。
その日の体育の授業はポートボールだった。少しでも早く校庭に集合しなきゃいけないのだが、ボクは前の理科の授業で使った器具を片付けるのに手間取ってしまって、気が付いたら一番最後に教室を出る羽目になった。
4年2組の教室は3階建て新校舎の1階で、着替えてすぐに飛び出せばみんなに追いつけるはずだったが、その日のボクはなぜか走って追いかける気にならず、ぼんやり中庭を歩いて校庭に向かった。
そこに、後ろからダダダッって感じで追いかけて来る気配がした。きっとボクより後片付けに手間取ってしまったマヌケな誰かだろうと思っていたが、その足音はボクの近くまでくると急に速度を緩めた。
と思った瞬間、ボクの右腕に誰かの腕がからみついた。ハッと相手の顔を見ると、ケイちゃんだ。
な、なにっ??
ボクはなにをどう反応してよいやらわからず、ただただ呆然、唖然とするしかなかった。
ところが、ケイちゃんはそうすることがまったく当たり前であるかのようにボクの腕にしがみついたままだ。そして下からボクの顔を覗き込むようにしていきなり訊いてきた。
「ポートボールって得意?」
「…… うん、まぁ」
「へぇ~ としクンは何でもできるもんね」
「…… うん、まぁ」
ケイちゃんは笑うと目が線になった。笑うときっと何も見えてないよな、というくらい線になった。でも、そこが可愛かった。
「ねぇ、としクン、最近引っ越したの?」
「ん? いいや? なんで?」
「だって、昨日、うちの近くで見かけたよ。商店街の入り口のお魚屋さんに入って行ったでしょ?」
「あ~、あれは親戚のおばちゃんの家だよ。昨日はうちに誰もいなくなるから、そっちに行きなって言われただけだよ」
「な~んだ、そうなの? 今日から一緒に帰れると思ったのにぃ~」
「ケイちゃんちはあの近くなの?」
「うん、あそこからちょっと行ってお酒屋さんの角を曲がったところあたりだよ」
「ふ~ん」
ケイちゃんとボクは腕を組んだまま、といってもそれは大人の恋人がするような組み方じゃなく、ケイちゃんがボクの右手を引っ張っている感じでしかなかったが、そうやって校庭までのわずかな距離を並んで歩いた。
そんなボクたちをクラスの男子が見逃すはずもなく、
「お~~~~~~~~~、何やってんだぁ~~~!!」
「できてる! できてる! としとケイちゃんカップルだぁ~!!」
という話になり、数人の男子がバカ騒ぎしている。女子はしれっ~とした顔で見ている。
その声が耳に入っていないわけでもないだろうが、ケイちゃんは知らん顔してボクの方に向き直ると、
「今度おばちゃんちに行くときは一緒に帰ろうよ」
そう言った。その時の笑顔は本当に目が線になっていて、その笑顔を見ているだけで不思議とこっちも笑顔になった。
それだけ言うと、ケイちゃんはボクの返事を待たず、腕を離して女子が集まっている方に向かって走り出した。仕方ないのでボクも男子の方に走り出したが、なんとなく馬鹿馬鹿しくなって途中で歩き始めた。
翌週の火曜日、理科の時間のあとの体育の時間に、ボクはわざと遅れて校庭に向かったが、前の週のようにケイちゃんが走ってやってくることはなかった。
その翌週もそんなことは起こらず、そのうち、体育は水泳になり、夏休みがあって、2学期が始まると、しばらくは体育館でダンスの練習。そのあと校庭で運動会の練習になり、そうなるとのんびり中庭を歩いて集合、なんてことが許される気配じゃなくなった。ボクもいつの間にかケイちゃんとのことを忘れていた。
やがて校庭の脇にある大きなプラタナスが枯葉を落とす頃、ボクはまた家の事情で魚屋のおばちゃんちに帰ることになった。おばちゃんの家はボクの家とは反対方向だけど、人通りの多い商店街の中にあって周囲は賑やかだし、なにより学校から近かったので、ボクとしては毎日でもおばちゃんちに帰りたいくらいだった。
(そうだ、ケイちゃんと一緒に帰る約束をしてたんだ……)
ボクはあの時の線のように細いケイちゃんの笑顔を思い出すと、思わず顔が綻んだが、彼女を誘って帰る勇気などあるはずもなく、ケイちゃんの様子を伺いながら、わざと教室を出るのを遅らせていた。
余程のことがない限り、同じクラスか学年に家の方向が同じ子というのがいるもので、商店街の方向なら、クラスの中に男女問わず何人も一緒に帰る子がいたから、ケイちゃんもきっとそのうちの誰かと帰るのだろうと思っていた。
ところが、ケイちゃんは赤いランドセルを背負うと、ひとりで教室を出ていった。ボクは慌てて彼女を追いかけた。ただ、なんとなく声がかけられずに、少し離れたところを歩き始めた。
小学校は高台にあった。商店街は正門前の坂を下り、バス通りを横切って中学校と短大の間の細い道を通り、バイパスの地下道を抜けて、さらに数百メートル歩いたあたりだった。ボクはケイちゃんが途中で誰かと合流するのかと思っていたが、そんなこともなく黙って歩いていた。後ろを振りむこともなく、かといって急ぐふうでもなく、どちらかというとつまらなそうに歩いていた。
おばちゃんの魚屋さんは商店街に入ったばかりのところにあった。ボクはただいまといってそのまま店先から奥に入ることもできたが、ケイちゃんの後を黙ってつけてきた感じになったのが嫌だったので、
「ケイちゃん! バイバイ!」
ボクにとっては最大限の大声でそう呼びかけてみた。
すると、ハッとしたようにケイちゃんは振り向き、魚屋さんの店の前のボクを見つけると、一目散に駆け寄ってきた。
「としクン! こっちに帰ってきたの? な~んだ、言ってくれればいいのにぃ~」
嬉しそうだった。ケイちゃんが目を線にして笑った。ボクは彼女に声をかけなかったことを後悔した。ケイちゃんと並んで帰ればよかったと心から思った。
「あ~~~、残念だなぁ。今日ね、お留守番で、おうちにいなきゃいけないから、遊べないんだ。もぉ~、としクンが一緒に帰ろうって言ってくれたらよかったのにぃ~!」
「だって、こっちの方向だとサトちゃんとか一緒かなぁと思ったから…… 」
「…… うん、そうだけど」
ケイちゃんがちょっとだけ寂しそうな顔をした。
「じゃあ…… 明日もこっちに帰ろっかな」
ボクはできもしないことをついつい口走ってしまった。できるはずがない、そう思ったけど口に出してしまった。
「ホント! じゃあ明日は絶対一緒に帰ろうね! 今度は約束だよ、ちゃんとした約束だよ!」
「うん。わかった」
「あ~~~~、残念だったなぁ。やっぱり残念だよ、としクン!
お父さんがね、できることはすぐやりなさいって言ってたよ。思い立ったらなんとかだって、ウフフ」
ケイちゃんは面白そうに笑った。目を線にして笑った。ボクは目が線になるケイちゃんの笑顔を見ているだけで嬉しくなった。
お店に入るとおばちゃんがボクのことを見ていたようで、ちょっと心配そうな顔をして話しかけてきた。
「今のは奈良橋さんちの桂子ちゃんでしょ? お友達だったんだ?」
「うん、クラスが一緒だよ」
「そうなんだ…… かわいそうにね」
何が可愛そうなんだろう? ボクにはなんのことかわからなかったが、おばちゃんもそれ以上は何も言わなかったから、ボクは黙って奥に入り、掘りごたつに潜り込んだ。
その日の夜、ボクは母さんと大喧嘩になった。明日からは毎日おばちゃんちに寄ってから帰ると宣言してしまったのだ。
「あんた、なに寝ぼけたこと言ってるんだい? 反対方向に寄り道して帰るって学校の先生が許すわけないだろ!」
「だって、今日もあっちに帰ったじゃないか! 先生は気をつけて帰れよと言っただけだよ」
「それは今日はこっちに誰もいないから、おばちゃんちに帰らせますって先生に言ってあったからだよ、当たり前だろ、そんなこと…… バカじゃないの?」
母さんはすぐにバカじゃないのと言う。ボクはもう4年生で、ちゃんと勉強もできるし、バカと言われる覚えはない。バカと言う方がバカだ! そういう決まりきった反論をしたが、まったく母さんは取り合わない。
別に母さんが許そうが許すまいが、ボクはケイちゃんと約束したのだ。だから、明日は黙ってでもおばちゃんちに帰ろう。そこから、誰も迎えに来なくても、ひとりで歩いて帰ろう。そう決めた。なぜかボクはケイちゃんと一緒にいなきゃならない気がしたのだ。
次の日、6時間授業が終わって、みんな帰り支度を始めた。いつものクラスの光景がいつもどおりに繰り返された。特別なことなどなにもなかった。
ケイちゃんは赤いランドセルを背負って、教室を出て行こうとした。ボクは慌てて追いかけた。
「ケイちゃん、一緒に帰ろう!」
ケイちゃんは一瞬驚いた顔をしたが、すぐにあの目が線になる笑顔で嬉しそうに声を上げた。
「今日もあっちに帰れるの? やった! 約束したもんね! そうだったよね!」
ボクは嬉しかった。ケイちゃんが昨日の約束を忘れかけていたことは気になったが、でもあの目が線になる笑顔を見ると、あの体育の前、ケイちゃんがボクの腕をとって歩いてくれた日のことを思い出して嬉しかった。
さすがにみんなのいる前でケイちゃんはボクの腕をとるなんてことはしなかったけど、ふたりで並んで帰るだけで十分だった。
TVマンガの話、ドリフの話、そういう話をしながら歩いていたけど、不意にケイちゃんが
「としクン! リコーダーが上手だよね。吹いてみて?」
というので、ボクはとても恥ずかしかったけど、バイパスまでの細い道は短大の吹奏部もよく練習でへんてこりんな音を出していたから、ここならいいかという気になった。
自慢じゃないが、ボクは確かにリコーダーが上手かった。別に誰かに教わったわけでも練習したわけでもないけど上手かった。先生がお手本にといってクラスみんなの前で吹かされることもあった。だから、ケイちゃんに聞かせることは別に平気だった。ケイちゃんはそのあいだ中、ボクを正面からじっと見つめていた。ボクはケイちゃんがリコーダーを見ているのかボクの顔をみているのかわからなくなって、急に照れてしまった。
「ホントに上手いね。先生に言われてとしクンがみんなの前で吹いたときにね、なんでこんなに上手なのかなぁって不思議だったよ。としクンはなんでもできるなぁって思った」
ケイちゃんは笑ってなかった。目が線になっていなかった。ボクは急にドキドキしてきて、リコーダーを仕舞うと、さっさと歩き始めてしまった。
「…… はやく帰ろう」
それは本心でも何でもなく、本当はバイパスまでのこの細い道でずっと遊んでいたい気分だったけど、身体が勝手に歩き始める。少し無口になってボクたちはバイパスをくぐる地下道まで歩いた。
地下道を抜けると、直に商店街が見えてくる。うしろのバイパスは大きな車も行き交って少しうるさい。ボクたちは黙って歩いた。
「…… おばさん?」
前から小走りにやってくる女の人を見てケイちゃんが小さく呟いた。
「知ってる人?」
「…… うん、おばさん」
ケイちゃんは少しこわばった顔でその場に立ち止まる。そのおばさんは、ボクたちふたりの姿を認めると、急に全速力で走り出した。そして、ケイちゃんの腕をつかむと、
「早く! 早く来なさい! 急いで!」
そう言うと、強いチカラでケイちゃんの腕を引っ張った。
ケイちゃんは何か事情を察したようで、おばさんの腕を振り切って、走り始めた。赤いランドセルに刺したリコーダーの袋が激しく揺れた。ランドセルから振り落とされるんじゃないかと思うくらい激しく揺れた。一度もボクを振り返ることなく、彼女は全速力で走って行ってしまった。彼女の向かっていく先には、地表に落ちそうなひこうき雲が解け始めていた。
取り残されたボクを憐れんだのか、ケイちゃんのおばさんがボクにこう言った。
「ごめんなさいね。桂子のお友達? これからも仲よくしてあげてね……」
そう言いながらおばさんは泣いていた。泣いているように見えた。
次の日、学校でケイちゃんのお父さんが亡くなったことを知った。ずっと病気だったことを知った。
それからしばらくのことは、未だに何も思い出せないでいる。
最後までお読みいただきありがとうございました。