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8.翠さん(後編)

 それからというもの、ボクは必死に物語を考えた。脚本というものがどんなものかを良く知らなかったから、とりあえず何か物語を書いて、それを翠さんに読んでもらおうと思ったのだ。


 だが、恋愛経験もなければ、大した人生経験のない毬栗頭がそうそう簡単に人を唸らせる物語を思い浮かぶわけもなく、何のアイデアも出てこないまま徒に時間は過ぎていく。あっという間に1学期が終わり、赤点という強烈なパンチを喰らったボクは、補習参加が必須の夏休みを迎えた。


 しかし、救いの神とやらはいるものだ。3年生は夏期講習で夏休みもお盆の時期を除けば全員学校に来ているらしいではないか! 果たして、翠さんも毎日夏期講習に参加し、昼食後のわずかな休憩時間には、部室に立ち寄ることも発見した。


「あれ? 神原何やってんの?」


 補習だというのは少々バツが悪かったが、嘘をついても仕方ない。ボクは正直に英語で9点しか取れなかったことを白状した。


「ひとケタ! そりゃまたやらかしたねぇ、アハハハハ」


「でもクラスの1/3は補習ですよ。ボクだけじゃないし……」


「権田だろ? わかるわかる、性格悪いんだよ、あいつは」


 翠さんはそう言って英語の教師の名前を言い当てる。ボクを慰めてる? かどうかはわからないが、ニコニコしながらコーラを飲んでいる。と、


「飲む?」


 翠さんはいきなり飲みかけのコーラをボクに差し出す。えっ! ボクはそのあり得ない状況に固まってしまう。


「コーラ嫌い?」


「いや…… そんなことは」


「いいよ、全部飲んで。もういらない」


「はぁ」


 よく見ると、底に1/10ほどしか残っていない。ゴミ箱がわりにボクに差し出しただけのようだ。


 ボクはボトルを受け取ると、なかなか飲めないまま、椅子に座ることもできず、立ったままで翠さんを見下ろした。


「どう? 脚本できてる?」


 翠さんは棚から一冊の台本を取り出して読みながら、顔も上げずにボクにそう訊いた。


「できません…… 難しいです」


「うん。そう簡単にはできないよ。アイデアはあるの?」


「家族の物語を書こうかと…… 」


「ふ~ん」


 彼女はようやく台本から目を上げてボクの方を見た。相変わらず淡いブラウンの瞳がちょっとドギマギさせる。


「家族の何を書くの?」


「…… ボク、父親がいないんです。正確に言うと、いるけど、いない。いないけど、いる、そんな感じなんです」


「うん」


 彼女は台本を閉じてボクの方に向き直り、目で座るよう促した。


「ボクが中学に入学する直前に父は家を出てしまってるんです。死んではいません。いる場所も大体知っています。でも帰っては来ない。もう何年も話したことがない。だから、もし、話をしたらどんな感じになるか、それを書こうかなと……」


「うん」


「…… そこまで考えたんですが、その先に進みません」


「うん」


 彼女はうんとしか言わない。でも、じっとボクの目を見て話を聞いてくれている。


 ボクが彼女に最初に抱いた、この人には近づいても大丈夫だと思った印象は、こういうところだったかもしれない。彼女は何も言わない。ただ、ボクをじっと見つめて、だけど、ボクは決して息苦しくはならず、彼女に何でも素直に話をしてしまう感じがするのだ。


「男同士で話したいことがある。でも何を話したらいいかわからない、そういう物語……」


「うん」


「…… 書けないかなぁ、よくわかりません。何が書きたいのかもよくわからない」


 ボクは話しながら涙が出てきてしまった。父親が家を出る前の日に、ふたりで釣りに行ったことを思い出していた。




 釣り糸を垂らして、水面を眺めている時、父親がふいに切り出した。


「明日なぁ……」


 ボクはその言葉の次にどんな言葉が来るかわかっていたから、


「知ってるよ! もういいよ!」


 そう言って、父親の言葉を遮った。それまで我慢していた涙が一気に溢れた。父親も次の言葉を見つけられずに、そのまま無言になった。無言のまま夕方まで釣りを続けた。


 翌日、ボクが学校に行っている間に父親は出て行ってしまっていた。




 その時のことを思い出していた。ボクは、翠さんの顔を見ながら、その時の水面のことを思い出していた。長閑な春の光がキラキラ反射していた。


「そっか…… 神原は吐き出したいんだ」


 翠さんはそう言った。ボクは自分のことを一方的に話し出したことを急に恥ずかしくなって、何も言えなくなってしまった。


「いいよ、書いてごらん。いつでも聞くから。書けなくても聞くよ」


 翠さんは決して笑っていなかったが、その時のボクには笑顔に見えた。微笑みと言えばいいのだろうか。ボクの存在が丸ごと許されている感じになった。


 それから、翠さんはまた台本を開いて読み始めた。ボクはすっかり炭酸の抜けたコーラを一口に飲むと、ごみ箱を探してキョロキョロした。それに気づいたのか、翠さんが


「ここ、ごみ箱ないんだよね。悪いけど、どっかに捨てといて」


「やっぱり…… ボクをごみ箱がわりにしたでしょ」


「アハ、バレてた、アハハハハ」


 彼女は最初に会った日のように大袈裟に笑った。やっぱり、ボクには地上に降り立った天使にしか見えなかった。




 8月に入ると、文化祭の準備に本格的に取り掛かった。その頃までにはキャプテンが言っていたとおり、2年生と1年生が数名ずつスカウトされ、総勢12名の所帯になっていた。ボクもクラスの三笠を誘って無理やり部員にしていた。


 その頃になると、翠さんは部室に顔を見せることもなくなった。夏休みを制するもの受験を制す、だ。のんびり文化祭の手伝いをしている場合でもないのだろう。


 文化祭は数年前のオリジナル脚本が選ばれ、声がくぐもって通らないという理由でボクは主人公のクラスメイト役で、うん、うん、そうだね、と頷くだけの端役が回ってきた。


 文化祭を翌週に控えた週末、翠さんほか3年生が6名集まり、その面前で通し稽古が行われた。それは思っていた以上に真剣なもので、ボクが嫌っていた運動部の練習のような叱咤とも罵倒ともつかない言葉が飛び交った。


 翠さんも真剣なまなざしで稽古をじっと見ていた。セリフをいう時の視線が違うとか、セリフとセリフの間合いがおかしいとか、かなり細かい指摘があったが、あれこれ台本を解釈した上で演じていたつもりの2年生と意見が鋭く対立する局面もあった。そういうやりとりが延々と続き、通し稽古の予定が、あちこちで寸断され、気が付くと夜もすっかり更けていた。大勢で何かを創り出すことの面白さに、みんな時が経つのも忘れていた。




 夜も遅くなって、その日の練習が終わると、3年生が冷たい飲み物を差し入れてくれた。1年生のボクと三笠が後ろで遠慮がちにしていると、


「神原、ほらこれ! キミもコーラでいいよね」


 そう言って翠さんが冷えたコーラをボクたちふたりに手渡してくれた。



「どう? 書いてる?」


 三笠には内緒にしている脚本のことを翠さんが急に話し出すので、ちょっと恥ずかしかったけど、今日を逃すと翠さんに物語のことを言い出せないと思って、ボクは勇気を振り絞ってあれから一気に書き上げた原稿のことを切り出した。


「書きました」


「そう。書けた。例の奴?」


「はい。書き終えました」


「そう。よかった」


「ありがとうございました」


「読む?」


「いいえ。これはいいです。でも、次回作はきっと読んでください」


「そっか。吐き出せたんだね。よかった」


「はい。ありがとうございました」


「じゃあ、次回作を期待しているね」


「はい。次は熱烈な奴を書きます」


「アハハハハ、意外に神原って情熱家?」


 そう言って、翠さんはみんなの方に行ってしまった。


 

 夏休みが終わり、まだまだ暑い最中の体育祭が終わると、いよいよ文化祭。その1か月前は舞台セットや衣装の準備、演技の流れの最終確認などで毎日遅くまで学校に残った。だが、3年生はあの日以来、一度も練習に顔出しすることがなかった。


 文化祭当日、朝早く部室に集合した1,2年生を前に、翠さんが久しぶりの檄を飛ばしにやってきた。


「みんな、今日のために死ぬ思いで準備してきたんだから、今日は思いっきりはっちゃけな!」


「うぉ~~~~」


 翠さんのアジテーションはみんなのテンションを一気に上げる。そういう熱を持った人だった。そういう姿を見ていると、彼女はみんなの前でも役を演じているんじゃないだろうか、そんなふうにも思えた。




 翠さんの朝っぱらの檄が効いたのか、ボクたちの作品は結構熱が入ったいい出来だったと思う。キャプテンが思い付きで主人公が高校で器楽部に入部するシーンを付け加え、そこで実際に器楽部の連中がツインギターを大音量で流すという演出が受けて、会場はやけに盛り上がった。


 舞台のそでで見ていた3年生の多くは苦笑していたが、こういう思い付きが大好きな翠さんは、とても満足していて、むしろノリノリだった。リズム感のいい彼女を見ていると、ボクはやっぱり天使を思い出してしまうのだった。



 すべてが終わり、みんなちょっとしたトランス状態だった。翠さんも興奮していた。いや、誰もかれもが興奮して抱き合って喜んだ。


 翠さんがキャプテンとハグしている。よくやったと称えている。順番に2年生とハグしている。急遽入ってきた2年生ともハグしながら、キミ誰だっけ? なんて言ったりしている。


 そして、ボクの前に翠さんがやってきた。こうやって並ぶと、意外に背が小さい。


「神原! よく頑張った! サイコーだよ、サイコー!」


 そう言いながら、翠さんはボクもハグしてくれた。自慢じゃないけど、ハグしてくれている時間は、ボクが一番長かったような気がする。



「先輩! ボク、シナリオ書きます! 次は絶対にラブストーリーを書こうと思います!」


 そう宣言していた。うぉ~~~と歓声が上がった。


「書け! 神原!」


 翠さんがボクを励ます。


「ハイ! 必ず書きます。主役の名前は翠さんです!」


 翠さんは苦笑いしながらボクの頭をポンと叩いた。


「調子に乗るんじゃないよ!」


 みんながどっと笑いだした。


 翠さんの向こう側には、青く澄んだ空が広がっていた。


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