後悔するよりも先に
このお屋敷の方はお優しい方が多いです。
僕は恵まれているのでしょう。
変わった方も多いですが、日々楽しく働かせていただけております。
―――
シャッ
寝室のカーテンを開けました。
日差しを浴びながらの朝は素敵です。
人拐いに誘拐された数週間、僕は四六時中暗いゲージの中でした。
なので、ヒュラドグ様の腕の中で久しぶりにお日様を浴びた瞬間は感動しました。
太陽の有り難みを全身で感じました。
太陽の陽射しはやはり気持ちが良いですね。
心が温かくなります。
ヒュラドグ様は苦手なようですが。
洗面所の前で身嗜みを整え、寝室のベッドに向かいます。
広いベッドの上、こんもりと膨れ上がった布団の山は直属の上司のヒュラドグ様です。
傍らに立ち、頭部らしき場所に挨拶をします。
「ヒュラドグ様、おはようございます。起床のお時間を過ぎておりますが、どうなさいますか?」
「寝る」
「お仕事はどうなさいますか?」
「まだ私は要らないだろ」
「僕はヒュラドグ様がいらっしゃらないと朝食を食べられません」
「一人で食べられるだろ」
「奴隷の身分で、毒味以外にヒュラドグ様より先に食べ物を口にはできません」
「……知らん」
掛布団から僅かに不機嫌な顔を露にされ、再び潜り込んでしまいました。
ヒュラドグ様は普段はきっちりとした格好をされ、仕事も真面目に取り組むとても優秀な召し使いさんです。
ですが、朝に酷く弱い方なのでベッドの中では基本的に不機嫌で頑固者です。
ボサボサの髪にしかめっ面をされ、普段のヒュラドグ様からは想像できない言葉をたまに吐かれます。
それと、掛布団を離してくださらないことが難点です。
僕は奴隷の身分ですので無理矢理剥がすことはできませんが、ヒュラドグ様はずっと掛布団を頭から被り起きてくださりません。
僕がこのお屋敷で朝を迎えるようになってから毎日です。
最初は困り果てていました。
ですが、一週間が経過した今ではちょっと違います。
困った時は、軽く脅させていただきます。
奴隷の身分ではありますが、このお屋敷のご主人様直々に頼まれておりますので仕方ありません。
ヒュラドグ様よりも、ご主人様の命令の方が優先なのです。
「失礼します」
ギシッ
ベッドの上に膝を着き、失礼ながらヒュラドグ様に覆い被さります。
筋肉などは人並みに無いので、体重はあまり重くない方です。
ですので息苦しくなるという心配はありません。
多分ですが。
家にいた頃はのし掛かるとあの方は喜んでらしたので、僕の推測でしかありません。
あの方は笑顔で優しく抱き締めてくれました。
あの両腕が、温もりが、今は遠い記憶のように感じます。
二度と会えないのです。
幸せに暮らしてくださると嬉しいのですが、我が侭な僕はそのことに寂しさも感じてしまいます。
自分勝手ですね。
ダメな人間です。
話と気持ちが逸れてしまいました。
早くヒュラドグ様を起こさなくてはなりません。
指先でヒュラドグ様の顔の部分らしき場所を包み込み、まるで売女のような言葉を囁きました。
「ヒュラドグ様…このまま起きてくださらなければ、僕はヒュラドグ様の(ピーー)を(ピーー)して(ピーー)しながら(ピーー)するしか方法がありません。それか、熱いヒュラドグ様の(ピーー)を僕のく」
「やめなさい!」
ガバッ!
卑猥な言葉は初なヒュラドグ様には効果テキメンです。
その証拠にベッドから飛び起きたヒュラドグ様のお顔は、庭に咲く薔薇よりも真っ赤な色に染まっております。
今まで面倒そうな言葉も普段のハキハキとした口調に戻っております。
いそいそとベッドから下り、甲斐甲斐しく頭を下げました。
「おはようございます」
「…ハァ、おはようございます。ジェンガ」
「朝食をお持ち致しております。着替えの後にお召し上がりください」
綺麗に折り畳まれた着替えをヒュラドグ様に差し出します。
それを片手で受け取ったヒュラドグ様は傍らに備え付けてあるワゴンを視界に入れ、顔を歪めました。
呆れてらっしゃいます。
「…そこまでしなくて良いと、私は申してるではありませんか」
「厨房の方にお願いされましたので、此方にお運び致しました。
奴隷の仕事は上者の命令に絶対服従です。僕は仕事を行っただけです」
「…そうですか。ありがとうございます」
「奴隷ですので。
では、僕は仕事に戻ります」
手で額を抑えるヒュラドグ様に再び腰を折り、他の方に仕事を頂こうと寝室の扉に向かいます。
パシ
ですが、ヒュラドグ様に腕を掴まれてしまいました。
これでは部屋を出られません。
ゆっくりと左斜め後ろ振り返ると、ヒュラドグ様が大きな欠伸を噛み締めてるところでした。
生理的に溢れた涙をパジャマの袖で拭う行為は子供のようです。
体をヒュラドグ様に向け、質問します。
「いかがなさいましたか?」
「ジェンガ、来なさい」
「はい」
新しく名付けていただいた名を呼ばれ、腕を引く強さに流されるように体を倒します。
鎖骨辺りに伸ばされた細長い手を見つめ、ヒュラドグ様に視線を向けます。
ヒュラドグ様は僕の胸元を見ていました。
シュル
不恰好に結ばれたネクタイを外されました。
朝に何度かチャレンジしたのですが、やはりダメでしたか。
お屋敷に買われ一週間が経ちましたが、未だにこれだけは苦手です。
キュッ
手際よくネクタイを結ばれた手が、次は軽く僕の頬をつねりました。
爪が食い込まないようにしてくださりますが、ちょっと痛いです。
ですが、僕が人間なのでこれでも手加減してくださってるのでしょう。
お優しい方です。
勿論、奴隷の身分ですので抗議の言葉は口にしません。
「全く、何時になったら結べるようになるのでしょうね」
「申し訳ありません」
「あんな起こし方をする前に、ネクタイを結ぶ練習を重ねてください」
「申し訳ありません」
「もう行っていいですよ」
「はい」
頬から人肌より低い指先が離され、スルリと一撫でされました。
初め冷たいと感じた眼差しは、目の前で柔らかく細められます。
この時のヒュラドグ様の表情が僕は好きです。
ちょっとだけ、あの方と重なってしまうので。
―――
お屋敷内ではお仕事をいただけなかったので、お屋敷の庭に来ました。
此処では庭師の方と助手さんのお二方でこの広いガーデンを手入れをされてます。
見渡す限り何万本もある薔薇の手入れをお二方でされてらっしゃるのは凄いと思います。
しかも、こんなに綺麗に形作れるお二方の技術に尊敬します。
僕にはとてもできそうにありません。
辺りを見渡してもそのお二方がいらっしゃらなかったので、暫く庭を歩きました。
黒薔薇や赤薔薇をご主人様は好まれてらっしゃるようなので、ガーデンには殆ど二色しかありません。
たまに青薔薇や桃薔薇のアートを見掛けるくらいです。
三分ほど歩いていると、見慣れた背中を見つけました。
熊のように大きな背中と先ほどのヒュラドグ様よりもボサボサの茶色い頭は、お屋敷の庭師のモグラさんです。
白いワイシャツの袖を捲り、薔薇の手入れをされてらっしゃいます。
お仕事の邪魔にならないように静かに横に立つと、モグラさんは長い前髪を垂らしたお顔を上げられました。
僕だと気づくと僅かに口角を上げてくださいます。
ペコリと一礼してからモグラさんの隣にしゃがみました。
「何かお仕事はありますか?」
「…ん」
ポン
脇に置いてあった手袋と輪ゴム、それとゴミ袋を渡されました。
無口な方なので『ん』以外のお声を聞いたことはありません。
ですが、モグラさんの視線や渡された物で大体のことはわかるようになりました。
今日は草むしりをさせてくださるようです。
モグラさんのサイズの手袋は僕には大きいですが、素手で草むしりをするよりは傷がつかないので有り難いです。
輪ゴムで落ちないように固定をして、パサとゴミ袋を広げます。
その間も黙々と作業されるモグラさんを見上げました。
「今日はどちらをやらせてくださいますか?」
「ん」
「わかりました」
屋敷に沿った場所を指差されコクンと頷きます。
その場を立ち上がり、再び一礼してから指定された場所に向かいました。
指定された場所は中くらいの雑草が生い茂り、中々量がありそうです。
腰痛の心配がありますが仕事を貰えないよりはずっといいです。
奴隷が暇を持て余す時は主人に捨てられた時で充分です。
ガシッ、ズボ
根本の部分を掴み、引き抜きます。
大分草むしりのコツを掴みつつあるので、前よりは簡単に抜けるようになりました。
街では除草剤などが売っておりますが、それらを使用すると薔薇などにも影響が出てしまいます。
だからこうやって機械や手作業で雑草を駆除しなくてはならない、と前に助手さんが教えてくださいました。
助手さんは物識りです。
休憩の際にお屋敷のことなどを教えてくださいます。
モグラさんの娘さんとは思えない饒舌っぷりは圧倒です。
今は多分反対側の薔薇の手入れをされてらっしゃるようなので、残念ながら休憩までお会いできないと思います。
少し残念ですがお仕事なので仕方ありません。
―――
モグラさんに肩を叩かれるまで黙々と草むしりをしていました。
午前中だけでも二袋分できました。
モグラさんに頭を撫でてもらえました。
満足感百パーセントです。
褒めていただけたことが純粋に嬉しく、小さく笑みを浮かべました。
手洗いうがいをしてから食堂で昼食を頂きます。
ギッ
端のテーブルでモグラさんと並んで食べていると、前の席に誰が座りました。
執事さんです。
確かお名前はコアさんだったかと思います。
「や、やあジェンガ君とモグラさん。ジ、ジェンガ君は、午前中モグラさんのお手伝いをしてたのかい?」
「はい」
「そ、うなんだ。何をし、してたんだい?」
「草むしりをさせていただきました」
「そ、そうなんだ。つ、疲れたかい?」
「少しだけ疲れました」
「そ、そうか。お、疲れ様」
「ありがとうございます」
「あ…」
コアさんは僕のことが苦手なようですが、よくこうやって話しかけてくださいます。
僕は返事が短いので会話が直ぐに途切れてしまいますが、コアさんは懸命に話題をふってくださいます。
せっかく好意で話しかけてくださいますが、自分のコミュニケーション能力が低くて申し訳ない気持ちでいっぱいです。
人の言葉で話してくださるのに、肝心の僕がこんなんですから会話が成り立ちません。
俯いてしまったコアさんと僕は無言で食事をしました。
気まずい、と顔に書いてあるコアさんはチラチラと此方の様子を伺いつつ何かを考えてらっしゃいます。
これは、僕から話しかけた方がよろしいのでしょうか?
けれど、話題というものが思い浮かびません。
あの方と暮らしていた時もあの方が一方的に話してくださっていたので、僕は殆ど相槌で会話をしていました。
用事以外は殆ど何も話しませんでした。
今になって、あの時に自分から話しかけることをしておけば良かったと後悔しました。
今更後悔してももう遅いですが。
意を決し、顔を上げます。
奴隷の身分で上者に気を遣わせてしまうことはあってはなりません。
ダン
いざ話しかけようとした時、トレイの上に勢いよく何かが置かれました。
ヨーグルトのデザートのようです。
後ろを振り返ると、料理長のシラサキさんが見下ろしていました。
無愛想なお顔で怒ってらっしゃるようですが、生まれつきこのお顔らしいです。
キカミさんというメイドの方が教えてくださいました。
このデザートはどうしたらいいのでしょうか?
デザートとシラサキさんを交互に見ていると、シラサキさんにスプーンを渡されました。
僕が食べて良いみたいです。
「阿呆が作った。食え」
「ありがとうございます」
シラサキさんのおっしゃる阿呆とは、ユゲさんのことでしょう。
見習いのコックさんのユゲさんは主にデザートを作ってらっしゃいます。
時折こうやって人間の口に合うかどうか試食させてくださることがあります。
ユゲさんのデザートはどれもとても美味しいです。
今回のも見た目だけでも美味しそうです。
カチャ
スプーンで一口掬い上げてから口に入れます。
『あ?クソモグラお前何見てんだよ?』
『……』
隣でモグラさんとシラサキさんが睨み合ってますが特に気にしません。
お二方はとても仲が悪いようなので、関わるだけ無駄だとコアさんに教えていただきました。
それ以来は気にしないことに決めています。
口に入れた一口を飲み込み、頬を綻ばせました。
喜びが口から零れます。
「とても美味しいです」
「い、いいなー。お、俺も一口欲しいな、なんて」
頬杖をついたコアさんが口元に笑みを浮かべてました。
僕は暫く思案した後、デザートをコアさんの方に押します。
僕は一口いただけただけで満足ですので。
「どうぞ。少し口をつけてしまいましたが、触れていない箇所をお食べください」
「す、スプーンが無いからいいよ!全部ジ、ジェンガ君が食べて!」
「では、新しいスプーンを取ってきます」
「え!?い、いいよいいよ!じょ、冗談だから!」
「そうでしたか。申し訳ありません」
席を立った僕に慌てて話されるコアさんの言葉に謝罪しました。
冗談や嘘というのは判断が難しいです。
僕はそういう類いのものにあまり関わりがなかったので。
深々と頭を下げた頭に大きな手の平が置かれました。
ストン
そのまま反対の手で肩を掴まれ、椅子に座らされました。
ガシガシと頭をかいぐり回されます。
素っ気ない、けれど優しい言葉が頭上から降ります。
「阿呆が坊主に作ったんだ。坊主が全部食べろ」
「ありがとうございます」
「ごめんね?」
「此方こそ申し訳ありませんでした」
「おら、さっさと食べろ。モグラの野郎はもう行ったぞ」
「はい」
いつの間にかモグラさんはいませんでした。
シラサキさんも厨房に戻られ、コアさんも仕事に行かれました。
僕も早く草むしりの続きをしなければ、と少し早めにデザートを食べました。
美味しかったです。
ご馳走様でした。
―――
お屋敷の中でまたお仕事をいただけなければ、また草むしりの続きをさせていただきましょう。
そう思いながらお屋敷の長い階段を上っていると、手摺に腰掛けておられる方と遭遇しました。
半透明な体は向こう側の壁などが見えてしまいます。
「チ~ッス」
執事のアグアさんです。
サボり常習犯で有名な方です。
よくメイドのミルメさんに怒られてるところを見掛けます。
ミルメさんは見えないモノを見れるので、透明になったアグアさんを見つけられるらしいです。
凄いです。
僕は一礼してからアグアさんに近づきました。
アグアさんは見たところによるとサボってらっしゃるようです。
お仕事をしなくて良いのでしょうか?
クビになってしまわないか心配です。
アグアさんはフワリと宙に浮き、横たわりながら頬杖をつきました。
人差し指で僕を指し、クルクルと無意味に回します。
「お前さー、疲れてんじゃね?」
「いえ。お昼休憩をいただいたので、そこまで疲れてません」
「じゃーなーっくてー、ココ」
トン
半透明の指が心臓をつつきました。
痛みはありませんが何だか変な感じがしました。
唇を尖らせ、変な顔をされるアグアさんに質問します。
「精神、ですか?」
「ビンゴ。此処に来た奴らはさー、お前みたいに明るい人生じゃなかった奴が多いから。そーいう奴らをご主人様が拾って磨き上げる。今じゃみんな元気に働いてっけど、最初は真逆だったんだぜ?」
「そうなのですか」
「俺も此処にいて長いからな。色んな奴らの色んなこと知ってるぜ?
お前のことだって、“自己暗示して自分保とうとしてるの”丸わかりだから」
「わかりやすいですか?」
別に隠していたわけではありません。
ですが、面と向かって断言されると多少なりとも驚いてしまいます。
フワリと空中を自由に移動するアグアさんを視線で追い、言葉に耳を傾けます。
淡々とした話し方をされますが、冷たいと感じません。
「俺にはなー。ただ、お前も周りが気を遣ってくれてることくらいわかってんだろー?ヒュラドグとコアが一番わかりやすいか」
「はい。とても優しく接してくださいます。他の皆様も、奴隷の身分の僕にこれ以上ないほど温かく接してくださいます」
「あーあーそれ、禁止」
「申し訳ありません。それ、とは何でしょうか?」
両手で頭を抱えて左右にブンブン振るアグアさんの言葉が理解できませんでした。
アグアさんは嫌そうな顔の前で両手でバツを示しながら近づきます。
何がいけなかったのでしょうか?
悪いことなら直さなくては、他の方に不快な思いをさせてしまいます。
パシ
片手で視界を塞がれました。
条件反射で目を瞑ってしまいました。
暗い世界にアグアさんの言葉が響きます。
珍しく真剣な声は、自由なアグアさんからは想像できないほど低かったです。
「『奴隷の身分で』とかはもう口にするな。さっきも言ったが、此処にいる奴らは明るい人生を送ってきた奴ばかりじゃない。お前の発言で思い出したくもない古傷を掘り返すのは、お前も望んでいないだろ?」
「…申し訳ありませんでした。以後気をつけます」
「お前は、もう奴隷じゃない。此処で働いている時点で“この屋敷の召し使い”だ。理解できるだろ?」
「はい」
「自己否定は好きにすればいいが、いい加減自分を許してやんのもいいかもよ。どうせ、帰れないんだからさー」
パッ
手が離れる感覚がしました。
ゆっくりと目を開けると、アグアさんはもうおられませんでした。
アグアさんは、どこまでご存知なのでしょうか?
誰にも話したことがない胸の内側をいつの間にか暴かれていることに不安を抱きます。
もしかしたら、他の方も気づいてらっしゃるのかもしれません。
この汚い感情を破片でも感づいてらっしゃるのなら、更に気をつけなくてはなりません。
奴隷…ではなく、一人の召し使いとして気をつけなくては。
皆様のお気持ちに応えられるようにならなければ、人として恥ずかしいです。
ニュッ
「あ、そーそー」
消えたと思っていたアグアさんは何事もなかったかのように現れました。
考え事をしていたのでそこまで驚きませんでしたが、心臓には悪いです。
「外に出たくなったら俺に相談しろよ?短時間なら出してやるからさー」
「ありがとうございます。
すみません。一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「何?」
ストン
背を向ける形で手摺に腰掛けるアグアさんは、顔だけ僕の方に向けました。
腰まである長い髪が流れに合わせてサラリと踊ります。
その光景は幻想的で、とても綺麗です。
眠たげな瞳を真っ直ぐ見据えたまま、口を開きました。
「アグアさんは、何故そこまでしてくださるのですか?僕はまだお屋敷で一週間ほどしか働かせていただいてません」
「俺はお節介で世話焼きで屋敷のことなら何でも知ってる、後輩思いの優しい優しーい先輩ユーレイだからな。後輩に優しいのは当然だろー?」
「はい。アグアさんはお優しい方です」
「だろー?むふふ、素直な後輩は好きだぞ~」
ニマニマと笑みを浮かべながら周りをクルクルと飛び回るアグアさんは嬉しそうです。
時折僕の前まで降りてワシャワシャと乱雑に髪を撫でてくださいます。
アグアさんが笑ってらしたので、僕もつられて笑みを浮かべました。
チョイチョイと手招きをされたのでアグアさんに耳を傾けます。
両手で口元を隠し、子供が内緒の話をするように小さな声で話されます。
「可愛い後輩にいーこと教えてやる。ヒュラドグがお前と一緒の部屋の理由な、実は――」
ボソッ
「…」
呟かれた言葉は、とても意外な内容でした。
言葉が出ない僕にアグアさんは悪戯が成功した子供のような、満足げな顔を浮かべてます。
僕はわかり辛い優しさを向けてくださっていたあの方に、ただただ胸が熱くなるばかりです。
嗚呼、次お会いした時にお礼を申し上げなければなりませんね。
泣き虫になってしまった僕の目尻には温かい涙を溜め、一筋流しました。
感動する僕から離れ、アグアさんはまたフワフワと宙を舞います。
『アグアさん!見つけましたよ!!』
「ひゃっ!?」
階段の下から女性の怒った声が響き渡りました。
ビクンと過剰反応を見せたアグアさんは、アワアワと両手を振って慌てます。
ゆっくりと意識を戻した僕は下から急いで駆け上がるメイドのミルメさんを見つけました。
ミルメさんは左右違う色の瞳に怒りを滲ませ、ギロリと虎のような鋭い視線でアグアさんを捕らえます。
タンッ
ミルメさんは獣人なのでものの数秒で、僕が数分かけて上った階段を駆け上がりました。
息切れ一つなく僕の隣に並び、キッとアグアさんを睨み付けました。
横顔だけでもちょっと怖いです。
『アグアさん!何時までお仕事をサボっていたら気が済むんですか!?いい加減お札貼って飛べなくしますよ!?』
『え~それはヤダー』
『ならお仕事してください!ジェンガ君を巻き込んで時間を無駄にしないでください!』
『無駄にしてないもーんだ。ねー?』
「申し訳ありません。言葉がわかりません」
アグアさんに同意を求められたようですが聞き覚えのない言葉で会話をなさる為、僕にはわかりませんでした。
後日、僕は白い便箋を手にある方の部屋の前に立っていました。
すぐにお礼を申し上げなければならないとは思っていたのですが、中々お会いすることができません。
ですので、今日は手紙にしてきました。
本当は直接お礼を申し上げた方が良いのですが、この際仕方ありません。
空いている時間の内に読んでいただけると有難いです。
コンコンコン
遅すぎず早すぎず、煩すぎず静かすぎないノックを三回。
中にいる方に気づいてもらえる程度の音で訪問を伝えます。
もし部屋の主がいらっしゃらなければ、この手紙を扉の前に置いてから自室に戻ります。
後日、またお会いできた時に再びお礼を申し上げます。
それに、今頃部屋にいない僕を心配してくださる方の眉間に皺が寄ってそうなので、早めに帰らなければなりません。
ガチャ
返事が無かったので手紙を置いて行こうと屈んだ瞬間、目の前の扉が開きました。
大きな扉の先には大きな体のマイノさんが一人、静かに微笑んでおりました。
まるで僕の来訪を待っていたような、そんな雰囲気がありました。
僕が手紙を手に呆然としていると、マイノさんは僕の手からその手紙を受け取りました。
軽く力を込めて掴んでたのですが、簡単に取り上げられてしまいました。
マイノさんは力が強い方のようです。
何も言えないままマイノさんが手紙を目で読むのを見ていました。
本当は感謝の言葉を口にしたいのですが、邪魔をしてしまうのは気が引けてしまい言葉を飲み込みました。
一通り読み終わった手紙を丁寧に折り畳み、そっと封筒にしまいました。
それを胸元のポケットにしまい、マイノさんは目尻に細かい皺を寄せて微笑みました。
僕は喋ることを許していただけたと思い、小さく口を開けました。
「お忙しいと思い手紙に綴らせたこと、お礼に参るのが遅くなってしまったこと、度重なる失態申し訳ありません。
手紙の内容を繰り返すようですが、自分の口から直接申させてください。
この度は、こんな卑しい身分の奴隷に温かいお心遣いありがとうございました。マイノさんの優しさがあったからこそ、今僕がこうやって皆様と共に働かせていただけると思うと感無量で頭が上がりません。本当に、ありがとうございます」
深々と膝に額が付きそうなくらい頭を下げました。
「これからも、屋敷の従業員を宜しくお願いしますね。ジェンガ君」
「勿体無いお言葉です」
頭を撫でる大きな手はマイノさんのように優しくて、温かかった。