3-1
幾千の軍勢を恐れざるとて、未踏の地を恐れざるはなし。踏み出す足の置き場を知らぬゆえに。
――聖典『漆黒の書』第二節
ひっそりと野営地を離れたアルスとジラットは、傭兵たちの馬鹿騒ぎがざわめきに聞こえる程度の位置にまで来た。
聞かれたくない話。おそらく、という推測はあるが、それが嘘をつく後ろめたさからではない、とは言い切れない。
そのアルスに向かって、ジラットは予想した話とは違う話題を投げかけた。
「バドをどう思う?」
予想外の話題で、ジラットの問いが直球であるだけに、アルスは返答に詰まった。それを見て、ジラットは聞き方を変えた。
「バドのやろうとしている事をどう思うかね?」
「どうって……いい事だと思う。昼間にも言ったけどさ」
「そうだったね。では、それを前提として、君はそれに助力してよいと思うかい?」
アルスはその聞き方に違和感を覚えた。が、それを無視して答えようとして、再び引っかかる。クローディアの言葉だ。バドに気を付けろ、という。
「おれがどうしたところで、そんなに大した事ないと思うけどな」
口を付いたのは、偽りだった。
「ふむ。それも真理、か」
納得したのはアルスの言葉に対してではないように見えた。
「では、こう仮定しよう。君にだれにも覆せないだけの力があったとして、君はバドに力を貸すかね?」
ジラットの訊き方は巧妙で、それゆえに狙いがアルスにも分かってしまった。つまり、ジラットはアルスの嘘をすべて見破っている。
「言いたいことがあるなら、はっきり言いなよ、先生」
ジラットの態度が癇にさわり、アルスは焦れたように言葉を吐き捨てる。だが、ジラットの態度は揺るぎもしない。
「君が隠し事をしている以上、私も隠し事をしなくてはならないんだよ、アルス。外の世界とはそういうものだ」
「分からねえな」
「そうだろうね。……ひとつの失言が命を奪うこともある。相手が弱者であろうとも、それは変わらない。ひとつの言葉、ひとつの態度……虚実を取り混ぜてよろわねば、生き抜くことも難しい。それが今の君がいる世界だよ」
「何が言いたい、先生?」
「言わねば、分からぬのも人か……よろしい。君に対して虚を織り交ぜても仕方あるまい」
ジラットはやや表情を改めた。
「意地の悪い言い方をしたね。君の持っている剣――それは魔器なんだろう?」
「やっぱり、知ってたんだな」
「それぐらい、気付かない方がどうかしているよ。君は嘘が下手だ」
ジラットがくつくつと笑う。
「嘘が下手で悪かったな」
むくれるアルスへ、
「いや、けなしている訳ではないよ。嘘を重ねれば、いずれ自分の存在そのものを嘘に拠って騙らねばならなくなる。バドがそうであるようにね」
「バドが?」
「そう。彼の掲げる大義など、口実に過ぎんのだよ」
そのように決め付けるジラットへ、アルスは急速に反発する感情が鎌首をもたげるのを感じた。ジラットを庇うわけではない。ただ、だれかをだれかが決め付ける――そのことへの反発だった。
それを知ってか知らずか、ジラットはただ静かに言葉を続ける。
「そう、初めは人を惹き付けるための口実に過ぎなかった。しかし、五年、十年と続ける内に、口実では済まなくなった。後を追う者の期待に押され、自ら築いた嘘に拠らねばならなくなってしまったのだよ。今となっては、彼自身にもそれが嘘か真か区別が付くまい」
ジラットの口調に籠もる実感に、アルスは抗う術を知らない。わずか十五か六の少年が、そうした殺せぬ感情を知るはずもない。
いや、ひとつだけ知っていた。どうしても許せないもの、どうしても憎まざるをえないもの。これだけは殺せないという感情。
「それでも、君は手を貸せるかね?」
「……先生も、バドの仲間じゃないのか?」
アルスの反問に、ジラットは軽く顎に手を当てる。
「どういう意味かね?」
「どうして、おれにこんな話をするんだ?」
「ふむ。そうだね。確かに君を丸め込むことは容易いだろうね。君はあまりにも世間を知らない。本当にそっくりそのまま、バドの言葉を受け取るほどにね」
その真意が、アルスには知れない。ジラットはどこかでアルスのバドからの乖離を望んでいる――そのようにも感じられるが、それに何の得があるというのだろう?
「こう見えても、私もバドも一筋縄ではいかない難物でね。ただ、それを言うのなら、君も同じだ。富や諸々を追いながら、どこかでそれを否定したがっている。そう……もしも、バドの行動が君の納得した彼の言葉や理想から外れてしまえば、君は手を引くだろう。もしかすると、バドを殺すかもしれない」
「意味が分からないな」
「たとえば君は農村を襲うことにためらいを覚えずにすむかな?」
「……おれの村は貧しい村だ。税を領主と教会に納めりゃ、もう食い扶持もろくに残らない。それでもなんとか暮らしていこうとするおれたちを叩きのめす連中がいる。そんな奴らの一人にはなりたくないね」
暗赤色の瞳が燃え立つような色を帯びる。そこに本物の怒りを感じ取って、ジラットは詫びるように「無用な質問だったね」と断った。
「あるいは、そういう状況になるかもしれないということだよ。傭兵隊とはそういう場所だ。いかに奇麗事を並べても、ね。言ったはずだよ、兵隊など殺す以外のことはできないんだ。作り上げた死体の山から、自分たちの食い扶持を盗み取る……それが傭兵隊だよ」
アルスが何か言おうとするのを、ジラットは手で制した。
「そこで訊きたい。君は魔器がどういう存在なのか、理解しているのかね?」
アルスは答に詰まる。実際には知らない。クローディアが魔器だということは知ったが、果たして彼女が標準的な『魔器』と呼ばれる存在なのか、そもそも彼女がどのような存在なのか、アルスは知らないのだ。
答えられるはずがなく、ジラットはその沈黙に対して切り出した。
「魔器と呼ばれる存在はね、だれもその正体など知りはしないんだよ。賢者と呼ばれる人たちでさえもね。語源から類推するに、失われた何らかの技術によって作り出された物だと言うことぐらいが推測される程度だ」
相当な教養と知恵を持つジラットにして、この認識なのだ。アルスごときが見極められるはずもない。
「しかし、その魔器が人の及ばない圧倒的な力を秘めていることは確かなことでね。人には成せぬほどに多くの人命を奪い、また物によっては多くを生かす力を秘めている。君にその魔器を正しく使うことができるのかね?」
その言葉は残酷だったかもしれない。だが、戦闘用の魔器を持つ者として、自らに課さざるをえない疑問だった。それを失えば、暴虐を尽くすだけの悪魔と成り果てる。それがジラットの問いの本質だった。
「分からないよ、そんなこと……」
「それが答かね?」
躊躇するアルスに対して、ジラットはこの時ばかりは容赦しなかった。
「覚悟がないのなら、魔器は捨てたまえ。それが君のためだ。君は魔器を手にしている。この事実がどういうことなのか――君は、君の意に沿わぬ者をことごとく排除しうるということだ」
「おれはそんなことはしない!」
「そう言いきれるかね? たとえば、バドが村を襲っても、赤子を殺しても、それでも君は何もしないと言えるのかね?」
「バドはそんなことはしない」
「君がさせない、の間違いではないのかね?」
「止めて、何が悪いんだ!?」
「そう、それは君の権利ですらあるだろう。でもね、君が振るうのは君の力ではない。魔器の力だ。それは覚えておくべきだな。振るわれた方からすれば、それは途方もなく理不尽で、そして絶対的な力だよ。そう、君の村を襲った連中や、君の村から税を取り立てる領主や教会のようにね」
「じゃあ、そいつらを倒すために使えばいいことじゃないか。相手がバドだろうと、構うもんかよ」
「だが、魔器は一切のリスクを君に与えないだろう。単体で戦場すら支配することさえあるのが魔器だ。いずれ、その力を振るい続けることで、道を誤る日が来るだろう」
そしてジラットは決定的な言葉を吐く。
「いつか君は、君が最も嫌悪した存在になるかもしれない。そのことを考えてみるべきだな」
「おれに……おれにどうしろって言うんだ?」
「自分で考えたまえ。そして自分の正しさを疑うことだ。疑わなくなれば、いずれ彼らと同じ道を辿るだろう。話はそれだけだよ」
そう言い残すと、ジラットは悚然と立ち尽くす少年に背を向けた。
訳が分からなかった。
その夜は、ぐるぐると幾つもの言葉が頭を駆け巡り、なかなか寝付くことができなかった。クローディアは何も言わず、ただ寄り添うだけだ。
何度か、彼女に訊こうと思って、思いとどまる。ジラットは自分で考えろ、と言った。それをクローディアに尋ねることは、どこか負けたような気になるからだ。
だれにも負けたくなかった。負ければ、どんな扱いを受けるのか、アルスは嫌というほど見てきた。あるのは惨たらしい末路だけだ。
死んだら、その先はあるのだろうか。数日前にクローディアと話したことが、アルスの脳裏に浮かぶ。もう随分と昔のことのように思えた。
あの時、アルスは死ぬことを目前に見ながら、それでも生きることが当然だと思っていた。生きているから、生きている――そんな理屈にもならない実感だけが支えだった。
だが、村を出ればそんな実感は何の保障もくれはしなかった。決まりきったことを続ければ、なんとか生きていくだけの食い扶持は得られた村の生活とは違うのだ。
こんなおれに、なにができるというのか。
腕の中では『トゥルース』がその冷やりとした質感を伝え続けている。
だれかに道を示して欲しい――しかし、それは自分の答ではない。
自分すら疑えとジラットは言う。では、何を信じればいいのか。
何もかも分からない。
夜通し焚かれる火が遠く見える。
何も見えない無明の闇が広がっているような、そんな錯覚を覚えながら、アルスはいつの間にか眠りに落ちていた。