2‐1
憐れめや、憐れめや、かくも人のか弱きを。
その弱さ故に罪を犯すとも、咎人となりて、なお生きる者どもに祝福のあらんことを。
――聖典『祈祷の書』第四節
魔器――魔術でも手品でもなく、『魔器』と呼ばれる存在がある。
理解も英知も及ばぬ遥か彼岸に、しかし厳然として存在するなにかを、人々は恐怖と憧憬とともにそう呼んでいた。
なぜそう呼ばれるかさえ、知る者はいない。ただそう呼び習わされ、その圧倒的な存在としてそこに在った。
たとえば、伝説の騎士オーンヴェイルの振るう槍は、その一薙ぎで敵陣を粉砕したという。
また教会の総本山、聖都ラスティアは炎ではない輝きに昼夜彩られているという。
そうした常識の枠の外にあるなにかは、それゆえに手に入れた身の栄華を約束した。人々はそれを手に入れることを熱望したが、そうした魔器すら、時代を吹き飛ばすほどの原動力とはならなかった。
いかに魔器が常識の枠から外れていたとしても、その使い手たる者たちは時代の申し子であり、それ以外の世界を知らなかった。いや、現状を把握するという意味で世界を認識するということすらなかった。
そのために、魔器は常に圧倒的な力を誇りながら、常に現状の体制を維持するために使われた。たとえ、使い手たちがそのことを認識していないとしても、それは紛れもない事実であった。
眼が眩むほどの苦痛というのは、幾通りかのパターンがあるに違いないが、とりわけ容易に解決できるにも関わらず、時として最も解決が難しいものがある。
アルスにとって、と言うか、カルカサの村民にとって慣れることのできない最大の苦痛こそ、他でもない飢餓、つまりは空腹である。
秋晴れの空の下、どこまでも続くように見受けられる街道が、余計に気を滅入らせた。初めての村の外も、街道ばかりで気を紛らわせるようなものはなかった。
何度目か分からない溜め息は、腹から吐き出されているにも関わらず、気が抜けきっている。
その眼は死んだ魚のように虚ろだった。その顔には、黒く変色した血の付着した、ぼろぼろの包帯を巻きつけている。はっきり言って、ゾンビかなにかとしか見えない。
「少し休もうか?」
傍らを歩いていたクローディアが心配そうに尋ねる。空腹を感じることすらない彼女に、うらやましそうな視線を向けて、アルスは首を横に振った。
いまさら、理由も説明しない。する気力もない。
理由ぐらいは分かっているので、仕方なくクローディアは前に向き直り、少し難しそうな表情を浮かべた。
「昔は、この辺にも大きな街があったのよ?」
少しだけ口調が言い訳がましい。その「昔」がどれほど以前のことなのか、自覚していないわけでもない。
ただし、その言葉も、アルスはろくに聞いていない。あまりに腹が減りすぎて、逆に極度の集中状態に入っている。食べられるものはないかと、真剣に探しているのだ。別名を視野狭窄と言う。
あからさまな毒キノコに手を出そうとして、寸前でクローディアに押し留められた事も覚えていないだろう。
その余りにも悲惨な状態に、クローディアは少しだけ肩を落とした。そもそもの原因が自分にあるような気がしないでもない。
秋空は憂鬱な色に見えるだけで、彼女の心を慰めることもなく、まして彼の空腹を満たしてくれることもなく、ただ高く澄んでいた。
まず最初に言及しておくなら、現在の状況の元凶はアルスの無謀のせいであり、クローディアの無知のせいであり、そして、そのどちらのせいでもなかったとも言える。
アルスはクローディアを伴って旅に出た。それがそもそもの始まりであることは確かだった。
野盗によって家族を奪われたことが、その主な理由だった。身寄りを無くし、その上、畑からなけなしの蓄えまで、すべて焼き払われてしまっては、今年の冬を越せそうにない。
通例ならば、身寄りを無くした者はだれかが引き受けるところだが、今年の収穫量の少なさと、野盗が焼き払った村を見渡せば、だれも余分な口を養う余裕など持ってはいないことは明らかだった。
アルスの手当てをしてくれた叔母は、「すまないねえ」と繰り返した。その傍らに、生まれたばかりの弟の姿を見れば、アルスは責める気にもなれなかった。
それは止むを得ざる事情であり、餓死か凍死という二択を迫られたアルスに、村長が持ちかけた話は、「出世話」という香辛料を塗りたくった「旅立ち」という腐肉だった。
「傭兵となれば、戦功次第で夢のような暮らしもできる」
そのようなことを村長は言った。もしアルスがもう少し思慮を身に付けていれば、こう答えただろう。
「なら、ご自分でいかがですか」と。
しかし、その時、アルスの脳裏を過ぎったのは、寝物語に聞いた「騎士」の話のことで、迂闊な少年はそれについて尋ねた。騎士になれるのか、と。
村長は重々しくうなずいて見せた。
アルスの腰に剣のフリをして吊るされていたクローディアは、村長の嘘を敏感に察しはしたものの、黙っておく。いずれにせよ出て行くしかなさそうなのだから、アルスが夢を抱いたところで結果は変わるものではない。
ただ、農民の身分であるアルスが村を出るには、多少の問題があった。生まれた村を捨て、領主から借りている農地を捨てると、「流民」と呼ばれる身分に墜ちる。
この時代、農民は土地に縛られていた。領主が君主から下賜された『封土』は、そこに住む農民も含まれている。その農民が土地を捨てる、ということは、領主が君主から与えられた「領地を経営する」権利に反するということだ。
その意味するところは逃亡奴隷と同義であり、社会的なあらゆる保障を失う。生存権すら失い、どのような惨たらしい扱いに対しても異議を唱えることはできない。それが自由の代価だった。
ただ、もとから存在を無視されているに等しい農民にとって、それらの保障を失うことはそれほど意味がないことのように思われた。
領主に知れれば厄介と思ったのだろう村長は、アルスが一家とともに死んだことにする、と言った。その村長の気遣いが、一番の曲者だった。
アルスはこっそりと、しかし迅速に村を出た。死人がいつまでも留まっているのはまずいし、しばらくすると代官が被害を確認しに来るだろう。
旅の準備を整える暇すらなかった。アルスは手当てだけしてもらうと、ほとんど着の身着のままという状態で、当て所もない旅に出ることとなった。
とりあえず、都市を目指した。クローディアの曖昧な知識からの入れ知恵ではあったが、判断としては悪くない。都市には都市法が働き、比較的、人の流入に対して寛容だった。
誤算は、その都市の位置を二人が知らないことと、そして「流民」という身分に対する認識の甘さだった。
幾つかの小村を通ったが、カルカサと同じように余裕はなく、食料を分けてもらうわけには行かない。そこで教会の教義「寛容と博愛」を思い出したアルスは、教会に施しを受けようとしたが、どうやら教義に規定されている「人間」に流民は含まれていないらしかった。
そうこうする内に、元から乏しかった糧食は底を突き、なりふり構っていられなくなったアルスは、「聖都を目指す巡礼者」を装うことを思いついた。
これなら農民が外を出歩く理由になる。巡礼者への施しも、教会の義務だ。名目上、そうした者へ施す義務が、教会への寄付の主な理由だった。
名案だと思ったのだが、結果から言うと失敗だった。
守銭奴のような教会が、そうした場合に対する対処を考えていないわけがなかった。巡礼者が持つべき証明書を、アルスが持っているはずもなかった。教会を騙そうとした背教者を、「教会親衛隊」という名の荒くれ集団が放っておくはずがなく、散々に追いまわされた。危うく殺されるところを、クローディアの助けでようやく脱したのがつい先日。
事態は改善されるどころか、ますます怪しい方向へ向かっていた。
クローディアは困ったような表情で、もう歩く気力も残っていないらしいアルスを見つめていた。
早くも進退窮まったようなアルスを前に、あれこれと思案していたクローディアは、不意に複数の足音と馬の蹄の音を聞きつけた。くわえて車輪の軋みが聞こえる。
現在地が小高くなっているせいで、姿は見えないものの、かなり近い。
慎重に音を分析して、二頭と二十三人の集団だと判断する。荷馬車がおそらく一台。金属音からすると、数人が鉄の鎧を着ているらしい。馬を持つのは相当の身分を得た、たとえば騎士など以上の経済基盤を得た者だという知識を思い出し、慌ててアルスの腕を引っ張った。
「隠れないと!」
そういう身分の者が流民を見つければ、何をするか分からない。が、アルスは動こうとしない。
「どうしようもないよ……飢え死ぬよりはマシかも」
「なに言ってるの! 諦めないで」
そうしている間にも、音はだんだんと近付いてくる。もう少しで姿がはっきりと視認できる。クローディアは焦ったが、アルスは頑として動かない。動いているのは腹の虫ぐらいか。
意外な頑固さが、この時ばかりはじれったい。
どうするべきか考えて、覚悟を決める。そもそもアルスの意思に従ってここにいる。
彼だけは守る。そう規定してしまえば、結論は簡単だった。姿を剣に変えて、アルスの傍らに身を寄せた。
仮初の姿を他人に見せるのは良くないし、本来の姿ならば即応してアルスを守れる。どうにでもなれ、という自棄っぱちな気持ちがなかったわけでもないが、まず合理的な判断ではあるだろうと自分を納得させた。
集団が、その姿を見せた。
憂慮していた正規兵というわけではないようだ。装備が統一されていない上に、装飾も各々ばらばらで、やたらに派手だった。どうやら傭兵隊の類のようだ。
一人だけ騎乗しているのは、最も年長の髭面の男だった。壮年の男は、小男と言ってよい部類だろう。成長途中のアルスよりややもすると背は低いようだ。だが、染み付いた死臭と鍛え上げられた筋肉が、小山のごとき迫力を臭わせた。
その男は戦地に向かう騎士のような出で立ちをしている。ご丁寧に盾には紋章が描かれていた。
その男が、一振りの剣だけを傍らに路端でうずくまっているアルスを見つけた。
軽快に手綱を操ると集団から抜け出し、アルスの傍に馬を寄せた。
「どうした、少年?」
尋ねた声はおよそ害意とは無縁で、凶悪そうな容貌からすると拍子抜けしそうなものだった。
クローディアはひとまずホッとした。後はこじれて面倒なことにならないことを祈るしかない。
が、アルスは聞こえていないのか、答えない。
男は困ったように、やや薄くなった髪を掻いて、馬を降りた。重たい金属音が、甲冑を支える筋肉を裏付けているかのようだ。
男がアルスの顔を覗き込もうとした時、アルスの腹の虫が盛大に音を立てた。
少しぎょっとした表情を浮かべた男は、次の瞬間にはそれを吹き飛ばすように盛大に笑って、後続の集団に何事かと思わせた。
「休憩だ! 昼飯にしよう」
男が大声で指示を出すと、部下たちは要領を得ない表情をしながらも、その言葉に従った。それを見届け、男はアルスを振り返る。
「運が良かったな、少年」
笑顔に妙な愛嬌のある、奇妙な男だった。