8-2
「じっとしておればよい」
落ち着かない様子の少年を見咎め、クリスは読書を中断して、そう言った。何度も読み返した書であり、それほど興味を傾けるものでもない。要は時間を持て余しての読書であり、アルスに注意を向けたのも、そのためだった。
溜め息混じりにたしなめられた少年は、不満そうな目でクリスを見た。
「じっとしてろって言ってもさあ……」
「今は休むことが仕事だ。そもそも、何をするつもりなのだ?」
アルスの気分が分からないではない。外で激しい攻防戦が行われていると言うのに、与えられたのは待機命令で、邪魔になるからという理由で、無用に部屋の外に出ることも制限されていた。これでは何をしに来たのか分かりもしない。
「我々が出たところで、守備隊の邪魔になるのが関の山だ。弓を扱えるわけでもなし、特に膂力に優れているわけでもなし……出来ることはない」
「でもなあ……」
「いいじゃない。休める時には休んでおく事は必要よ」
すかさずクローディアが説得に加わる。
「待機命令が出てると言うことは、後で総力戦があるからよ。その時になって疲れても、休ませてはくれないのだから」
「そういうことだ」
クリスが軽くうなずいた。何度も言われたし、納得しているのだが、アルスにすればそれでも落ち着かない。
「先日の刺激が、裏目に出たか?」
敵陣を突破した時の興奮を、いまだにアルスは引きずっている。新兵にはありがちな事ではあるのだが、戦闘の興奮に酔う反面で、何かをしていないと不安になるのだ。
クローディアの方を見ると、彼女もやはり困ったような表情を浮かべている。もちろん、アルスがごねたところで、何が変わるというものでもないのだが。
「……じきに召集がかかる。そうだな、二、三日中にはかかるだろう」
仕方ないと言う表情で、話すつもりのなかった情報を与える。クリスには、アルスが放っておくと何かをしでかしそうな所が気がかりだった。
案の定、アルスはその話に食いついた。
「本当に?」
「恐らく、としか言えないが、そろそろ後続の援軍が到達する頃合だろう。それに呼応して行動を起こすことは間違いない」
「前と後ろから、包囲してる連中を挟み撃ちにするのか?」
「そういう事になるだろうな」
「……引っかかるな。なんか隠してないか?」
常とは異なる、歯切れの悪い言葉に、アルスが疑り深そうな表情を向ける。
「何を隠す必要がある? 言っておくが、伯からは何も聞いてはおらぬぞ。すべて私の推測でしかない。その上で、何をどう隠す必要があるのだ?」
そりゃそうだけど……というアルスの表情に、困ったものだと言うように女騎士は肩をすくめた。ちらりとクローディアを窺うと、どうやら彼女の方はこちらの考えを読んでいるようだった。
「暇なら仕事をやろう。桶に水を汲んで来てくれ。体を拭きたい」
「雑用じゃないか」
「従卒なら、文句を言うな」
追い払うようなクリスの言葉に、鼻を鳴らして出て行く。なんだかんだと言って、指示に従うのはクリスの身体への配慮と、どちらにせよ暇だからだろう。
アルスの退室を見届けて、命じた本人は表情を改めてクローディアの方を向いた。
「分かっているようだな?」
「ええ。糧食……ですね?」
クローディアの言葉に、諦めたようにうなずく。
「量と質が落ちてきている。兵が気に止めるほどではないが、確実にな。おそらく、備蓄量が心許なく感じて来たのだろう」
「それが尽きる前に決戦を、ということですね?」
「尽きてからでは遅いからな。今ならまだ士気も高い。十分に戦う事が出来るだろう」
それはつまり、負け戦ということなのではないか――クローディアはそう考えた。無論、クリスにしてもその事は重々、承知しているはずだ。
「気がかりなのは……伯の心情だな。どうも焦っておられるように見受けられる。これが、まだ敵を追い払う程度に考えているのなら勝ち目もあるが……」
持ち前の鋭い洞察力で、彼女はその事を看破していた。様々な局面において彼女を救い続けた洞察力だが、今回ばかりは役に立ちそうもない。
「もしも、伯がソヴァース公との決戦を望んでいるのなら、勝ち目は薄いな」
そのような判断が下せたとしても、現状ではどうにもならない。結局、ベルナルドに味方するという判断が、そもそも誤りであったとするしかない。
「アルスに偉そうなことを言ったが、私も選択を誤ったな。だが、アルスまで巻き込むつもりもない。分かるな、クローディア?」
「そういう言い方は卑怯です」
「やり方も気に食わない、という顔だな……アルスもそうだが、少し正直すぎる。世長けた者がついていなければと思わせる。それも魅力かもしれないが」
取り留めのないことを呟く姿は、むしろ自らへの問いかけのように思われた。
「ソヴァース軍への突撃は行われる。死への突撃だ。その際、そなたはアルスとともに落ち延びよ。教えるべきことは、それこそ山のようにあったはずなのに、今はなにもない気もする」
透徹する黄金の瞳が、深い緑色の瞳を見つめた。自らの死期を見定め、それすらをも計算の内に含めて、クリスは為すべきことを為そうとしている。
「わたしには、貴女の考えが分かりません」
「そうか? ……そうかもしれないな。何と言うべきか、自分でも探しあぐねる。ただ、今はすべてが見通せるような気がする。幻想かもしれないし、錯乱しているのかもしれない」
怪訝な表情を浮かべたクローディアに、クリスはそれ以上の説明を控えた。混乱させるだけだと思ったし、分かるまいとも思った。
「人の最も恐れる事が分かるか? なにも出来ないことだ。なにも残せずに死んでいく事こそ恐ろしい。子を成せば、その気持ちも救われるかもしれないが、私にはそれすら許されない」
「だから、アルスを残すと?」
「アルスは従うまい。最後の最後まで、共に居てくれる。感受性が高すぎるのだろうな。自分よりも人の身を案じてしまう」
出来の悪い弟を誉めるように、クリスはそう言った。その笑顔は透き通っていて、まるで無邪気な子供のようだった。クローディアはアルスの気持ちを少しだけ実感できた。死期を定めた人間は、際限のない欲望を忘れて、限りなく無私に近付く。そうした透明感がクリスから感じられた。
「わたしはアルスの気持ちに従います。貴女の思うようにはならないかもしれません」
「そうはならんよ」
まるで曇り空を見て雨が降るのが当然だと言うように告げた。いかに無邪気に見えても、クリスはクリスだった。その怜悧さはいささかも失われてはいない。
錯乱しているわけではない。むしろ、現実に即して事実だけをなぞるように、無機質で、まったく隙というものがなかった。
「アルスが私にそうするように、そなたはアルスに最も利があるように動くだろう。相手の望む、望まぬは、その判断の前にはさしたる障害にはならぬ。人は愚直なまでに自分に正直だ。アルスは私が望まぬと知りながら、最後まで傍に居るだろう。それが私のためであり、自分のためであると感じるからだ。同じように、そなたはアルスを逃がす。それがアルスのためであり、自分のためであるから……。私がそなたに頼むのも、突き詰めれば自分のために過ぎない。必ずそうするよ、そなたは」
わたしは人ではない、そう言おうとして、それだけは言うことができなかった。
――それは命なのだよ。
プロフェッサーの声が聞こえた。限りなき命数、人とは異なる力、そのどれもが人とは異なる。だが、と、プロフェッサーはその瞳に理性の輝きを宿らせ、こう尋ねたのだ。
「人は動物の一種に過ぎない。ならば、どうやって人と動物を区分する? 人は動物であり、それは動かない事実だというのに、人は動物ではないと言う。社会を営む動物は数え切れない。会話する動物も然り。心だよ、クローディア。なにも悩む必要などない。心だ。人は心を意識した時、ヒトから人になった。ならば、ヒト以外の存在もまた、人となれる可能性を秘めている――そうは考えられないだろうか?」
ヒト以外の存在が人となる可能性。それこそが、クローディアが祈るように求めた可能性だった。それを自ら否定することはできない。
「人は最も簡単な事を忘れてしまった。幸せになる方法を忘れてしまった。だれかを幸せにする事が、自分の幸せに繋がっているのだということを忘れてしまった」
歌うようにクリスが呟き、そして本当に歌い出した。凡庸なメロディーに何のことはない歌詞。それがクリスの故郷に伝わる民謡なのだろう。
クローディアは自分の思いを確かめるようにしながら、その歌を聴いていた。あるはずのない懐かしさが込み上げた。
カルカサの古い古い、今ではもう伝える者もいない習慣。収穫祭の日に、豊穣の感謝と願いを込めて、祠と呼ばれた洞窟に収穫物を供えるのだ。その事がふと思い出される。だれもが幸せそうな笑顔を浮かべていた時代の事。
故郷に戻りたいのだろうか、クリスは。なにもかもを失った場所は、それでも生まれ育った、たった一つの場所だった。
クリスは戻ろうとしているのだと、クローディアは感じた。理由もなにもないのだろう。幼子が母の腕に抱かれることを望むように、クリスは記憶の中の懐かしい故郷に抱かれていた。
凡庸なメロディーが切々とした感情を乗せるように、狭い部屋の中に響いていた。
サン・ロー砦に立てこもる全軍に出撃命令が下されたのは、それから二日後のことだった。




