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その日はそれまでで、それ以上の進展はなかった。そもそも、ベルナルドにしてもサン・ローの救援が目的であって、この兵力ではできることは少なかった。
ソヴァース軍は建て直しに時間を必要としていたし、サン・ロー守備隊にしても猛攻に耐えて来たのだから、休息は必要だった。
あまり戦術を重視されないというのも、この時代の戦の特徴で、正面決戦か攻城戦というのが相場だった。そうなると攻め手、守り手ともに、その手順がパターン化されてしまう。それに則って戦を進めるのが騎士の作法だとさえ言われるようになっていた。
その体制が崩れるのは、もっと後の事で、それにしても天才の出現なくしてはままならないほどに、そうした「作法」は定着していた。
今回のベルナルドの仕掛けは、危急の必要性に迫られてという以上のものではなかった。例外なのだが、それゆえに効果があったと言える。
だから包囲軍が、援軍の到着に油断する守備隊の心理を読んで、攻撃を仕掛けるようなことはなかった。逆に包囲陣の混乱が沈静化する前にサン・ロー守備隊が打って出るようなこともなかった。
サン・ロー砦は味方の受け入れ態勢を悠々と整え、ベルナルド伯とルッソ将軍の協議のもとに配置を変更した。敵軍は五千という大軍でもってなお包囲しているが、これで本隊二千が到着するまで、砦はもつだろう。
「ひとまずは安心、というわけだ」
寝台に腰をかけて、クリスが眠そうな表情で結論する。
女性ということに考慮したのか、それとも家名に配慮したのか、クリスには個室が与えられた。上級将校の扱いである。傭兵たちは言うに及ばず、身分の低い騎士たちも城砦の敷地内に焚火をして雑魚寝しているのだから、個室がいかに貴重かは分かる。
アルスは彼女の個室で床に敷布を敷いて寝る。床は木であるし、雨露がしのげるだけでも十分だ。
「もうちょっと、呑気なもんだと思った」
と、アルスがようやく感想を述べた。飾り気のない言葉だけに、クリスにはその意図したところが明確に分かった。
「名乗りを上げての一騎打ちか? 時代錯誤というやつだな」
クリスはあくびを噛み殺す。強行軍の中ではろくに眠れなかった。疲労もする。なにより、不可思議な病が身体を蝕んでいた。
「まあ、老人の中にはそのようなことをしたがる者もいないではないが……。やはり騎士物語の中だけの話だ。今は昔、というような……」
それを言い終わらぬ内に、目蓋が落ちた。身体を支えていた手がずるずると滑って、身体が横になる。器用なものだと、アルスは変に感心してしまった。
起きる様子がない事を確認すると、アルスは慣れた手つきで長靴を脱がせ、足を寝台の上に乗せる。少し服の胸元を緩めて、布団をかけてやる。
「寝るか……」
呟いて蝋燭を吹き消そうとしたところで、クリスの寝顔が目に入った。そこで固まってしまった。まったく似ても似つかない女の面影が、その面にダブった。
――母ちゃん?
そんなはずはなかった。
貧しい農婦で、最期は痩せ細って死んだ。農作業で骨が太かっただけに、その姿はとても正視できなかった。皮と骨ばかりになって、それでも筋張った身体は、どこか亡霊を思わせた。こんなにも面変わりするのかと思ったことを覚えている。朗らかな笑顔を浮かべたふくよかな顔が、眼窩は落ち窪み、頬は削げ、髪もこんなに薄かっただろうかとさえ思った。
かたや、華麗なる騎士だった。婚期は逃しているとはいえ、その美しさが衰える年齢ではない。むしろ内側から発する気迫が、彼女をより美しく見せている。深窓の令嬢ほど体の線は細くないし、指先は獲物を握るためごつごつしていたとしても、それを恥じる事はなかった。この身体こそが、自らの覚悟を示していると誇れるほど、彼女は強く、美しかった。
なにも似ている所などなかった。そう思おうとして、アルスは溜め息を付いた。自分の心を欺けるはずもなかった。たった一つ、似通うもの――忍び寄る死の気配を、確かにアルスは感じていた。
特に頬がこけたわけでもなく、血色が悪いわけでもない。黄金の髪も今だって豊かに白い細面を彩っていた。それでも、なんとなく感じられるのだ。
クリスから生気が少しずつ失われて行く――そう表現した方が的確だっただろう。逆に少年の感覚を表現するのなら、体臭がゆっくりと透き通っていくような、そんな感じがしたと言うべきだった。
気のせいであればいいと感じた可能性。それが、今や逃げ場のないほどはっきりと眼前に突き付けられている。そんな気がして、アルスは喉が詰まった。
どうしてだろうか。どうして、クリスが死ななければならないのだろうか。人を殺したから、その罰なのか。もっと酷いことをして、のうのうと生きている者がいるのに?
神が決めるのだとするなら、それは不公平で、しかし平等だった。一人の心情に関わることなく、罪人は死んでいく。それならば、なおさらクリスが薄命に終わっていくことに抵抗を覚える。
なによりも、クリスが死ぬのだと疑いなく確信できる自分に驚いた。そして抵抗を覚える事にも。
農民でしかなかったアルスにとって、死は常に身近にあった。毎年のように死人が出た。餓えや疫病が、容赦なく命を刈り取っていく。それは常の事だった。慣れている、と言ってもいい。
それにも拘らず、クリスの死に対しては感情が乱れる。
その理由は、アルス自身がよく知っていた。クローディアのせいだ。仕方ないと諦めるな――それが彼女の言葉だった。
そう思えば、その言葉じたいが、アルスの旅立ちの契機だったような気がする。
ジラットとクリスの教えから、アルスはじっと考えた。
そんな気がする、ではだめだった。二人の師は、そんな答では満足しない。自分で考え、そして導いた、自分だけの答が必要だった。
「外の世界を見たかった……」
そう呟いて、ではなぜ見たかったのかを考える。バドの破局を見た後なら、村に戻ることもできたはずなのだ。外の世界に出ても、なにも変わる事はなかった。当たり前のように人は生きて、人は死んでいた。村で見てきたものと、なんら変わるところはなかった。
そこで踏みとどまれたのは、ジラットとクリスが居たからだ。彼らに流されて、今ここに居るとも言える。だが、アルスが拒否すれば、彼らは強要しなかっただろう。それでも彼らの示す流れに乗ったのはアルスの意思だ。それは確信することができた。
あの時、なにを見て、なにを決めたのか。それをアルスは探していた。足跡は、前にも足元にも見つけることはできない。振り返って、ようやく見えるのだ。今、踏みしめている足の下にある足跡は見えないように、その時には見ることのできないものを、探していた。
逃げたのだ。バドを破滅においやった事から。そして、バドが何を為すのか、その一端を担うという責任から。そして辿り着いた場所で、ジラットは待っていてくれた。示すべき道を持って、待っていてくれたのだ。それが嬉しかった。
何かを成し遂げたかった。自分に何が出来るのかを見たかった。それが要約すればすべてだった。クリスに言ったように、彼はまだなにも見てはいなかった。
その原動力が、生きることを諦めるなと言った、クローディアだった。諦めるな、諦めさせるな。それにはどうすればいいのかを、アルスは見極めたかった。
命の在り様を見、そしてあるべき姿を見出したい。それは大それた考えだろう。騎士となるよりも、王となるよりも、それは大それた事だった。言うなれば、それは教団の掲げる神への挑戦だった。同時に、時代を覆う不幸への挑戦だった。
生きることを諦めたくないと叫ぶ、幼い魂の咆哮――それが芽生えた時、アルスは失われていく命に対する恐怖を覚えた。そして哀しみも。
それが今のアルスの全てであり、可能性だった。
命とは可能性だよ――ジラットの言葉が蘇る。
可能性。それは希望であり、絶望だった。挑むことこそ希望であり、達しえないと思うことが絶望となりうる。だが、ジラットが危惧するほどアルスは惰弱ではなかった。
できることをやるのだと思えば、迷いはなかった。高みを望むでもなく、低きを許すわけでもなく、そうしてアルスは昇ろうとしている。
この時代に生きただれものが達しえなかった高みに、そこに人が到達しうるのかを見定めることが、アルスのたった一つの望みだった。
自分でなくていいと思う。自分の可能性をすり潰しても、その可能性を見たかった。神に祈る敬虔な信者のように、アルスはそれだけを心に秘めていた。
アルスは蝋燭の火を吹き消した。




