5-3
人の営みなど顧みることなく、時は刻まれ、季節は移ろう。長く辛い冬は去り、新たな命の息吹が生まれる春へと、季節は変わる。
一冬を稽古と学問に過ごしたアルスは、クリスに伴われてスプトリを後にした。
イグナーツ親父は、「また来い」と言ってくれた。知り合った住人たちが総出で、騎士と少年の旅立ちを祝福してくれた。
向かう先は聖都ラスティアにも近い、バルドレード伯領。大貴族に分類されるバルドレード伯は、近隣のソヴァース公と良質の鉄を産するラカラン地方について十年に及ぶ係争を続けている。
伯領に辿り着く頃には、戦が始まるだろうというクリスの予測だった。
彼女の話によれば、オライオン家はバルドレード伯ベルナルドの遠い親類に当たるのだという。幾度かその係争にも参加しているし、ベルナルド本人とも面識がある。無碍には扱われないだろうという話だった。
クリスには時間がないように自覚されていた。
そのクリスの思いを察したのか、アルスは何も言わなかった。あの夜から、アルスはことさら気楽に振舞うようになっていた――クリスに負担をかけないように、と。
「しっかし、十年もよくやるよな」
アルスの感想はその程度のものでしかない。
「ここ数年で鉄の普及率が跳ね上がった。農具にも使われるようになっただろう?」
「そういや、そうだな」
村の事を思い出して、アルスはうなずいた。鉄の農具があれば畑を耕しやすくなる、と、父親が言っていたような気がする。
寒村にすら鉄が出回り始めた事は、製錬技術の向上、職人の増加など理由は幾つかあるが、ともかく、鉄の需要が急激に高まったことは事実だ。
「鉄は重要な資源だ。農具から武具まで――幅広い使われ方をする。その鉄を生み出す土地ともなれば、躍起にもなる。もともとラカラン地方は小領主が居たのだが、十年前にその領主が死んで、血縁関係のあったバルドレード伯とソヴァース公が領有を法的に主張した」
「ふん?」
いまいちよく分かっているのかいないのか、アルスが相槌を打つのを気にした様子もなく、クリスは説明を続ける。
「聖都の高等法院が、その訴訟に対して乗り出したが、結論は「血縁関係の濃いバルドレード伯の領有を認める」というものだった」
「んで、もう一方が怒ったわけだな」
「そうだ。バルドレード伯が後継者手続きを踏んでいる隙に、高等法院の決定を不服として、ソヴァース公が軍を発し、強引にラカラン地方を征圧してしまったというわけだ」
「そいつが悪いのか?」
「いや、ラカラン地方を奪われると、伯の勢力が伸び、公が脅かされる可能性があった。やむをえん、というところだろう。普通、教団の高等法院に逆らうような真似は大貴族でもやらないものだ」
クリスの説明は至って客観的な視点によるものだった。およそ感情というものに流される事がない。その横顔に透明な匂いを感じながら、アルスは疑問をぶつけた。
どうして、というアルスの質問に、クリスは淀みなく答えた。
「教団の影響力は強い。それこそ、諸侯すべてを敵に回すようなものだ。教皇が聖勅を発すれば、近隣の諸侯がこぞって参戦するだろうからな。伯はソヴァース公の横暴に対して訴えを起こしたが、いまだに聖勅がくだされていない……おそらく、ソヴァース公がかなりの賄賂を、教団の上層部に対してばら撒いているのだろう」
「教団は腐敗してる、だったっけ? でも、どう見てもベルナルド伯、だっけ? そっちが正しいのに、みんな黙ってるだけなんてさ」
「皆、強力なベルナルド伯を恐れている。ソヴァース公が伯を押さえてくれているような状況だからな。だれも手出ししないのだ。教団にしても、ひとつの勢力が力を伸ばすのは不都合だ。そのせいで自分たちの影響力が薄れても困る」
「なんだか、みんな自分の都合ばっかりだな」
その言葉に、クリスは少し複雑な表情を浮かべた。
「そういうぎすぎすした所がなくなれば、少しはマシになるのかな?」
「そうだな……」
クリスには、そうとしか答えられなかった。彼女もまた、『自分の都合』を優先して繋いできた家系の末なのだ。決してそうはならないことを知りながら、それでも潰してしまうには眩しい理想――アルスの口にした言葉はそうした類のものだった。
あるいは、とクリスは思う。いつの日か、それは実現されるのではないか、と。そう思いたいだけなのだとは知っている。そうした希望を持つ事が悪くない事も。
時代は人の命を貪りながら、惰眠を続けている。平和というものは分厚い史書の中での幕間でしかなく、次の争乱への準備の期間でしかない。そうした時代から、解放される日を待ち望みながら、その日を掴むための術を知らない。
待つだけでは何も変わらず、待つ以外の手段を持つ者たちは、その力を継続のみに傾ける。それもまた、無力感の代償なのか。
自分ひとりだけでは何も変えられないと、だれもが思っていた。その意思の集束が、時代を変えようとしないのか。
どこから始まり、どこへ向かうのか――哲学的な命題に、答を示せる者だけが、この時代を変えられるのだろう。不幸の輪を断ち切れる。そして、その器は自分にはない。いや、いったいだれが、その重みを一人で背負えるというのか、それこそ神の存在が必要なのではないのか……
「……リス……クリス!」
その声に我に返り、馬上でまどろんでいた事に気付く。
「危ないだろ」
傍らを歩く少年が、怒ったように言い添える。
クリスは少しだけ笑みを浮かべ、休憩にしようと言った。まだそれほど進んでいないが、無理をするわけにはいかない。せめて、アルスが一人立ちできるようになるまでは、退場するわけにもいかないのだ。
「そうしよう」
無理をしないクリスに安心して、アルスは笑顔で答えた。
小川で水を汲んできたアルスが見つけたのは、再びまどろみに落ちているクリスの姿だった。人の姿を取ったクローディアが、傍らで彼女の様子を見ている。
冬の前にはこうしたことはなかったように思える。確実に症状は悪化しているように思えて、アルスは不安になりながらも、穏やかなクリスの寝顔を見ていた。
ふとクローディアが顔を上げた。
「彼女の傍に居てあげたい?」
虚を突かれて、アルスは微妙な表情を作った。照れ、戸惑い、悲しみ――幾つもの感情が入り混じった表情は、人に見せたくない類いのものだった。
「ずっと、傍に居るってこと?」
クローディアがうなずく。
「それ言ったら、きっとクリスは怒る……と思う」
「及第点、ね。同情に身を委ねるような人なら、こんな生き方はしないでしょうから」
「そうだよな……」
女騎士のあまりにもあどけない寝顔を見た。普段の彼女との落差が、どれだけ心を強く保っているかということを教えていた。これが彼女の本来の姿だとすれば、それは残酷なことだが、アルスはそうは思いたくなかった。ジラットが言ったように、それがその人の決めた道なら、それは否定されるべきではないのだ。
それでも、アルスよりも遥かに優れた人物でありながら、その身体を蝕む得体の知れないものが、彼女をひどく頼りなく見せた。
「流行り病とかじゃないんだろうけど……クローディア、分からない?」
「ごめんなさい。医学の知識はないの。急所とか、応急処置とか、そういう知識しか――こういう時、役に立たないのね、わたしは」
「そういうつもりじゃないんだ」
自責の念があるらしいクローディアに、慌てて謝る。知っていれば、すでに何か手を打っているはずだ。それが分からないはずはないのに、口に出してしまったのはアルスの迂闊さだった。
眠らせておくことがいいのか悪いのか、それすら分からない事が、不安をいや増す。それがアルスに迂闊な言葉を選ばせた。加えてクリスの目覚めるまでの時間が不規則なことも、不安を助長する。長い時には半日ほど目を覚まさないこともある。
思わず蝋燭を連想した。ゆっくりゆっくりと燃え、そして燃え尽きるのだ。その不吉な想像を頭から追い払い、アルスはその場をクローディアに任せた。
「無駄になるかもしれないけど、薪拾って来る。頼むな」
もしかすると、日暮れか、それ以降まで目覚めないかもしれない。そのことを考えると、準備はしておいた方がいい。




