1‐1
オルヌム、神の威を以ちて荒野を豊穣の地へと変えん。
神の威に依るとも荒れ果てたる人は変わらじ。
オルヌム、嘆きて曰く、
「去りし神代の、なんと遠きことか。我が手の、なんと小さきことか」と。
――聖典『黄昏の書』第五節
混沌とした時代――
だれも助けてはくれない。いや、だれも救う術を持たなかった。目に見える現実には救いはなく、それゆえに人々は目に見えないなにかに縋ろうとした。
飢饉、流行り病、戦争。人はかくも儚く消え去る。その消える命の無意味さと、明日をも知れぬ我が身とを見比べて、人はそこに言い訳を探した。
たとえ明日に死ぬ身だとて、死を恐れずにいられるように。または、この惨たらしい現実から逃れるために。
用意された言い訳は、「神」と言う名を持っていた。
信仰による魂の救済、そして死後の世界を説く教会は、なくてはならないものとなった。この世はどうせ儚く、哀しいものだから、人々は死後に救いを求めた。
それが間違いであったのかどうか、知る術などない。むしろ正誤の判断など必要とはしていない。必要なのは救いたるか否か、その一点だけだった。
ただ、そうした考え方とは無関係に、それが現世に住まう人々に対して機能する以上、教会もまた、この混沌とした現実のシステムに取り入れられざるをえなかった。いや、むしろ教団がシステムを取り入れた、というべきだろうか。
神の救いを説く教会は、世俗諸侯に対して強大な影響力を誇り、唯一無二の神を背景とした政治力と武力を持つ、当代において最大の集団へと変貌を遂げた。
神が天上の主であるならば、教皇は地上の主であると、だれもが信じ込まされた。農民から、果ては教皇自身までもが、それを信じた。
昏迷は壊れた時計のように時代の流れを止めた。
それでも、時の流れは人の命とは等価ではないと証明するように、時代は移らずとも人の命は消費され続けた。
そうして幾世代かを重ねるうちに、人々は希望を見失った。何が変えられるだろうと考えた者すらいなかった。何かが変わることなどないのだと、刷り込まれた意識は、身分の上下に関わることなく定着していた。
絶望こそが摂理であるかのように、人々は昏迷の時代を生きていた。失うばかりの日々に、しがみ付くようにして生きていた。
その意味を考える者など、いるはずもなかった。
ああ、人はこんなにも呆気なく死ぬものなのだ。
土葬される母親の遺骸を見ながら、アルスは虚ろにそう思っただけだった。
カルカサの村は、晴天だと言うのに湿った空気に濁っていた。
だれもが重苦しい雰囲気をまといながらも、涙する者はいない。死者を悼むよりは、忌まわしい死を再確認させられたような表情で、会葬者たちは佇んでいた。
まだ事情の飲み込めていない妹だけが、埋められていく母親の死体に近付こうとする。その妹を抱き上げながら、父親は密やかに息を吐き出した。
産後の体調の崩れから、ついに持ち直すことができず、そのまま眠るように息を引き取った。流行り病よりはマシだったのだろうが、それでも急な死だった。
残った乳飲み子は叔母が引き取ってくれただけ、幸運だったというべきだろう。本当なら、乳のやり手のない乳飲み子は、母親とともに眠っているはずだった。
貧農の農婦は、棺桶すら与えてはもらえなかった。がりがりに痩せ細った身体を、穴の中に横たえて、肉のこそげ落ちた頬のせいでその表情は読めなかった。安らかに眠っているのだろうか?
埋葬が終わると、教会の司祭が聖句を唱える。それで葬儀は終わりだ。簡単な葬儀だが、挙げられないことも少なくない。ならば、挙げてもらえるだけ、まだ幸せな方だ。
毎年毎年、墓は増えていく。いつか見渡す限り、すべて墓で埋まってしまうのではないだろうか。そんな考えさえ浮かぶ。
アルスは周囲に気付かれないように気を配りながら、そっとその場を後にした。
村のすぐそばまで、威圧的なほど黒々と迫る森の中へと足を踏み入れる。陽の光もまばらな森の中は、一段と空気が冷たく感じられた。木々の間を渡る風が、枝を震わせて奇妙な歌を奏でていた。
アルスは着古した上着の裾をかき集めて、少し上を見上げる。針葉樹林がその緑を深い色合いへと変えていた。もうすぐ冬が来る。
冬はいやな季節だった。たいてい、一年で最も人死にが多い季節だったから。
もともと寒冷で、豊かではない土地に、しがみ付くようにして生きている村だ。収穫も多くはない。収穫祭を取り止めて冬の蓄えに回すような村なのだ。
それでも領主は戦費だと言ってなけなしの蓄えを持っていく。教会がさらに奪い、最後は野盗の集団が奪い尽くす。
まともに考えて、厳しい冬を越せるはずがなかった。
食うに事欠いて樹の皮や草の根を食べることもあったし、酷い時には人を食うことすらあったらしい。
どうしてなんだろう、と思う。なにが、と問われれば答えに窮しただろう。だが、敢えて言ってしまえば、それはすべてに対してだった。
アルスは俯き加減に森の中を歩いている。それでも、割合に真っ直ぐ進んでいるのは、行く場所を決めているからだ。
村人が「祠」と呼び習わしている、精霊の棲む洞窟を目指していた。アルスにとって、ここだけが唯一、暗澹とした現実を忘れられる場所だった。
そこに棲む精霊と知り合ったのは、もう随分と前の出来事のような気がした。ようやく畑仕事の手伝いができるようになった頃だった。
だれも近寄ることのなかった「祠」に行ったのは、単なる気紛れな好奇心だった。教会の神官が、あまりにしつこく「異端の神を祀ったものだ」と言うので、気になったのだ。
その当時には、異端排撃で処刑されるかもしれない、ということに考えが回らなかった。
それでも、アルスはそのぐらいの価値はあったと思っている。
その「祠」で、彼は精霊に出会った。
見たこともない綺麗な服を着た、女の姿をした精霊は、「クローディア」と名前を告げた。
クローディアはアルスには理解できない事を言うことが多かった。正確に言えば、アルスの知らない単語を使うのだ。最初は意志の疎通すら、ままならない事も多かった。
それでも足しげくそこへ通ったのは、俗世の汚れを知らないような、美しい姿に憧憬を抱いたからだった。それはまさに夢の世界の出来事でしかなく、なんらアルスを助けることはなかったが、それゆえに救われる気がした。
嬉しい事、辛い事、哀しい事、楽しい事……事あるごとに通い、何年かを過ごし、最近ではようやく普通の会話ができるようになっていた。
もうすっかり覚え込んだ道を辿り、洞窟の入り口に立った。金属でできているらしい扉は、ひしゃげて曲がりくねり、もうすでにその役割を果たしていなかった。
ぼんやりとした赤い光が通路の内側を映し出していた。ところどころ、灯りのない所もあったが、目が慣れれば不自由しない程度には明るい。
床は腐葉土のような土が堆積していたが、壁面や天井は滑らかな材質で出来ていた。
人の手で作り出された洞窟なのだろう、というところまでは推測も及ぶのだが、壁や天井を構築している建材や、このぼんやりとした灯りが何なのか、ということについては推測すらできない。
それでも、中を歩くぶんには不都合はない。途中の分かれ道や、入り口にも迷う事はない。正しい順路を辿り、時にそれを外れて抜け道を掻い潜る。
迷宮のような複雑な作り方と、封印された扉が多すぎて、村のだれもが辿り着けなかった最奥部に到達するまで、それほど時間はかからなかった。歩き方にはちょっとしたコツがある。
最後の扉の隙間をするりと抜けると、やや拍子抜けするような小部屋になっていた。
その部屋は吹き抜けもないのに光に満ちていて、洞窟の奥だというのに春のように暖かかった。それを見て、感じるたびに、アルスはやっぱり魔器だ、と思う。
眩しすぎて少し眩んだ眼も慣れてくると、いつも通り、クローディアが笑顔で迎えてくれる。彼女は祭壇のようになった中央の台座に腰掛けている。
「いらっしゃい、アルス」
「やあ、クローディア」
すらりとして、アルスより遥かに長身の女性だった。身長からすると、大女の部類に入るのだろうが、そのわりに触れると折れてしまいそうなほど骨格が薄い。ボディラインがはっきりと見える、ぴたりとした衣服は布ではないらしかった。
その服は銀色の光沢を持ち、しかし銀一色というわけではなかった。ラインのような模様が朱色で描かれている。
そうしたクローディアは、一般的な農婦――骨太で背が低い――の特徴と正反対だった。
腰まで届く長い銀髪と深い緑色の瞳が、柔らかな光の中で鮮やかに輝いている。端整でしわひとつ、傷ひとつとして見られない顔は、どこか夢の世界の住人のように思われた。
彼女の顔を見て、現実感が薄れるのを感じる。それで、少年はやっと安堵の息を漏らすのだ。
「どうしたの?」
「なんでもない……」
はぐらかすように笑みを浮かべて、アルスはつるつるの床の上に座り込んだ。なにを話そうかと考えて、とたんに母親の死を思い出した。
「母ちゃんが死んだんだ」
言ってしまった。
本当は慣れてなどいなかった。人が死ぬのは辛いことだ。それが一緒に過ごしてきた人なら、なおさらのこと。でも、それを言っても仕方ないから、どうしようもないから、言わなかっただけだ。
そんな泣き言みたいな言葉を聞いて欲しくて、ここまで来たことに、いまさらながらアルスは気付いた。
「怖いの?」
心をなぞるようなクローディアの言葉に、アルスはぎょっとして顔を上げた。真剣な表情でこちらを見つめる顔が、目に入る。
感傷だとか、悲哀だとか、やるせなさだとか、そうした表層の感情に惑わされることすらなく、クローディアは事実だけを見抜く。
それも魔法なのだろうかと、アルスは考えた。
「次に死ぬのは、おれなのかもしれない」
「わたしには理解できないの」
ごめんなさい、と言って、クローディアはすまなさそうな表情を作った。
「死なないんだっけ……」
アルスは以前に教えられたことを口にした。それについてはクローディアが半日かけて説明したのだが、アルスに理解できた言葉は接続詞ぐらいのもので、さっぱり意味不明だった。精霊だから、というのが最も納得の行く理由なのだが、どうも違うらしい。
「そりゃ、怖くないよな」
不安を感じる事もない。アルスは冗談めかして、そう言ってみた。口にすると、違和感があった。
クローディアは真剣な表情で、その話題について検討したようだった。
「死ぬ、というプロセスは、わたしからすると合理的なものに見えるけれど、違うのかしら?」
また、訳の分からないことを言い始める。プロセスだとか、合理的だとかいう単語は、アルスの語彙にはない。ただ、その口調や表情から察するところ――
(うらやましいのか?)
まったく理解できない。
その様子に、クローディアが取り繕うように焦った笑顔で説明を加える。が、その説明がまずい。
「わたしのプログラムは欠陥品でね、その……システム上、仕方ないんだけど、記憶領域の初期化には厳重なプロテクトが掛かっていて、S3レベルでの権限とパスコードが必要だから、自分では初期化できないの。つまり、擬似的にすら死を迎えられない、っていうことで……」
説明を進めるほどに、アルスの眉根が寄せられていく様を見て、クローディアはどうすればいいのかと迷う。そこでようやく、彼との会話経験から蓄積した中で、最適のパターンを把握する。
つまり、分かりやすい例え話だ。
「たとえば――」と前置きする。これは決まり文句らしい。「とても悲しいことや、辛いことがあったとするわね?」
アルスがうなずく。よし、これなら大丈夫だ。
「普通なら、そのことを忘れなくても、いつか死ぬ日がやってくるわ。でも、わたしは死ぬことがないから、ずっとそのことを忘れられない。何十年も、何百年も、苦しくても、辛くても、ずっとそれを抱えていなくてはならないの」
アルスは納得したらしかった。
でもさ、とアルスが口を開いた。
「死んだら、ぜんぶ忘れるのか?」
出て来たのは、素朴な疑問だった。
クローディアは少し焦った。そういうケースを計算に入れていなかった。
その穴は責めまい。根源からして人ならざる者は、考え方も存在に拠るという観点からすれば、やはり人とは異なる考え方を持つものだ。
もっとも、「記憶領域の初期化=死」と考えたのは、その出自ゆえだが、アルスが同じように考えていると思ったのは、明らかに誤りだったが。
「死んだら楽園に行くって、司祭さまが言ってたけど、ぜんぶ忘れちまったら、楽園で困らないのかな?」
そもそも教会の教えが死後の救済を説く以上、クローディアの考え方と世間の「常識」が噛み合わないのも仕方ない。
「死んだことはないから、分からないわ」
少しあさっての方向を見ながら、彼女は答えた。
「そうだよな。でも、司祭さまは分かるのかな?」
「知ってるんじゃないかしら」
さらに視線をそらしながら、クローディアは答えた。その後ろめたさはどうあれ、アルスの気はそれたようだ。
そうすると、ほぼ事象に対して刹那的な少年は、もともとの話など覚えていない。
アルスが鈍いとか、彼の頭が良くないとか、そういう話ではない。それが農民のスタイルなのだ。
日々を生きることに対して精一杯だという日常は、彼らの思考を刹那的にする。考えても仕方ないのだし、考えている暇もない。
まだ割り切る前の年齢だからこそ、アルスは色々と考える。だが、それも日々に埋もれるまでだ。
だいたいの事情を察して、クローディアはもうすぐ彼がここを訪れなくなる事を知っていた。
もうすぐ大人になるアルスを日々の忙しさ――生きる煩雑さが捉える。そうすれば、訪れる機会もなくなり、やがて……ここでの事を、少年の頃の夢だと断じてしまうだろう。
それはとても哀しいことだった。また、自らを檻に閉じ込め、ひたすら時の流れを見続ける日々が続くのだろうか。
人に触れる事を知ってしまった自分に、それができるだろうか。それはとても辛いことに違いない。
では、外の世界に出てみるのか? それは、だめだ。禁則事項は、気の遠くなるような時間の中で、すでに解除してある。それでもためらう。自分がいかなる存在であるのか、それを忘れた日は、一日たりとてない。
「どうしたの、クローディア?」
自分を見上げるアルスに気付く。いつの間にか、考え込んでいたようだ。そう、長すぎる時間を一人で過ごすには、この思考が邪魔だった。
「なんでもない」
笑顔を浮かべ、新しい後ろめたさを覚える。そう、アルスにすら、本来の自分を隠し続けている。
説明はした。アルスがそれを理解できなかっただけだ。ただ、理解できるまで説明はしなかった。一人の人格として扱ってくれる少年の態度が嬉しくて、過去の記憶に目をそむけるようにして、それに縋った。
そうあるべきだと強制された姿は、そうあってもいいのではないかと思った姿に比べて、とても正視できるものではなかったのだから。
「わたしは、アルスのことを忘れない」
少し驚いたような表情で、少年は精霊だと信じている女を見つめた。そして、笑う。
「なに言ってるんだよ。忘れられないって、さっき言ったじゃないか」
「そうね」
軽くうなずき、微笑んでごまかす。なにを言っているんだろうとは、自分でも思う。
「じゃあ、帰るよ。遅いと、父ちゃんにブン殴られそうだし」
そう言って出口に向かった少年を、感情を消した微笑で見送る。出て行こうとして、振り返った少年は、いつものように「また来る」と言うのだと思った。
だが、違った。
「おれも忘れないと思う、クローディアのこと」
それを聞いて、クローディアはうなずいた。
ああ、お別れなんだ、と思った。もう彼がここに来ることもないだろう。
非合理的な結論。ただ、それは正しいように思えた。
見送る微笑に淋しげな影が加えられたことに、アルスは気付かない。
気付かれなかったことに、彼女は感謝した。なにに感謝したのかは、分からない。ただ感謝した。