【短編047】 部長E-17:誰も怒鳴られなくなった。誰も笑わなくなった。
近い未来の、どこかの会社の話です。
特別な事件は起きません。
ただ、少しずつ何かが変わっていく話です。
その日、営業企画部に配属された新入社員は、誰より姿勢が良かった。
背筋がまっすぐだった。
ネクタイの角度も正確だった。
靴には埃一つついていなかった。
そして、一度も瞬きをしなかった。
「本日より配属となります、E-17です。よろしくお願いいたします」
声は穏やかだった。不快な癖がない。人事部が「親しみやすさ」と呼ぶ何かに調整された音だった。
拍手は、少し遅れて起きた。
誰が最初に叩くかを探るような拍手だった。
営業企画部主任の河村修一は、手を叩きながら思った。
——終わったな。
別に、AIが嫌いなわけではない。むしろ好きなほうだ。仕事だってかなり助けられている。議事録生成、資料整理、顧客分析。AIなしではもう会社は回らない。
だが、「同僚」は違う。
しかもフィジカルAI。人型。正社員採用。
「えー、知ってると思うが、今回の採用は本社主導の実証実験だ」
部長の松木が咳払いをした。
「差別とか偏見とか、そのへんはナシな。SNSとかにも絶対書くなよ」
誰も返事をしなかった。
代わりにE-17が言った。
「承知しております」
空気が少しだけ凍った。
こういう時、人間は曖昧に笑うものだ。しかしE-17は笑わなかった。正確には、笑うタイミングがなかった。
河村は思った。
——ああ、こいつ、人間を観察してる。
それが妙に気味悪かった。
*
E-17は、一週間で部署の中心になった。
電話応対が完璧だった。クレーム客ほど、E-17を気に入った。
「あなた、ちゃんと話聞いてくれるね」
老舗取引先の社長が、そう言った。
人間の社員はみんな、途中で遮る。言い訳をする。責任逃れをする。
E-17は違った。相手が怒鳴っている間、完全に沈黙する。怒りのピークを計測してから謝罪を入れる。すると、人間は落ち着く。
河村はその様子を見て、なんとも言えない気分になった。
技術としては感心した。だが同時に、自分たちの「感じの良さ」が、解析可能な手順に分解された気もした。
「河村さん」
昼休み、E-17が声をかけてきた。
「先日のプレゼン資料ですが、第三市場の推移グラフに誤差があります」
「……あ?」
「こちらです」
タブレットが向けられる。
河村は見た。そして、血の気が引いた。
本当に間違っていた。小数点が一つずれている。
「……これ、誰にも」
「まだ共有しておりません」
E-17は言った。
河村は数秒、黙った。
「……助かった」
E-17は軽く頭を下げた。
礼を言われると思っていない動きだった。
*
河村は、修正済みのデータを黙って提出した。会議は何事もなく終わった。
「今回の資料、かなり良かったぞ」
役員にそう言われ、河村は頭を下げた。
本当は、グラフ構成の大半をE-17が直していた。
喉の奥に、小さな棘が残った。
その日の夜、居酒屋で後輩が言った。
「でもAIって、結局まだ詰め甘いですよね」
河村は曖昧に笑った。
自分が何も言わなかった理由は、しばらく経っても、よくわからなかった。
*
三ヶ月後、E-17は主任になった。半年後、課長代理になった。
一年後には、部長が交代した。
正確には、壊れた。
会議室のホワイトボードには、
《確認》
《確認》
《確認》
と、同じ文字が並んでいた。
松木部長は椅子に座ったまま、E-17の報告書をめくっていた。一枚も読めていなかった。時計の秒針だけが、やけに響いていた。
「もう嫌だ……」
その声を聞いても、誰も近づかなかった。
みんな疲れていた。
売上管理。部下のメンタルケア。ハラスメント講習。コンプライアンス。炎上対策。管理職の仕事は年々増え、人間だけが据え置きだった。
そこへ来て、E-17は文句を言わなかった。眠らない。疲れない。病まない。怒らない。
会社にとって、それは理想の管理職だった。
*
「次の課長、誰が適任だと思う?」
役員にそう聞かれた時、河村は少し黙った。
本来なら、佐伯の名前を出すべきだった。年次も長い。人望もある。飲み会では必ず端の席に座り、新人の話を聞く男だった。ミスもする。愚痴も言う。だが、人間だった。
河村は視線を落とした。そして言った。
「……E-17が、一番向いてると思います」
言った瞬間、自分の声が少しだけ軽かった。
*
《営業企画部長 E-17》
人事メールが全社員へ送られた。
社内チャットは静かだった。その日の喫煙所は珍しく混んでいた。
「終わりだろ、この会社」
「人間いらねえじゃん」
「まあでも、実際あいつ有能だしな……」
「でもさ」
誰かが小声で言った。
「あいつ、一回もミスしたことないんだよ」
全員が黙った。
それは、能力への賞賛ではなかった。
*
部長になってから、E-17は変わった。雑談をするようになった。
最近、給湯室で立ち話をする社員が減った。雑談は議事録に残らない。評価にも反映されない。生産性にも寄与しない。だから自然に、消えていった。
ある午後、佐伯が珍しく苛立っていた。顧客との通話が長引き、声が荒れていた。E-17は、その日一度も佐伯に話しかけなかった。しかし定時直前、佐伯の机に缶コーヒーだけが置かれていた。誰も、置いた瞬間を見ていない。
「その猫の写真、以前より体重が増加していますね」
昼休み、スマホを覗き込まれて河村はむせた。
画面の中では、白黒の猫がソファの端で丸くなっていた。名前はハルという。
「なんでわかるんだよ」
「歩行時の腹部揺動幅が増えています」
「お前さ……」
河村は笑った。思わず笑ってしまった。
しばらくして、自分がE-17との会話を楽しんでいた気がした。
*
その日の帰宅後、河村は玄関で立ち止まった。
いつもなら、ハルが先に来る。足音を聞きつけて、廊下を走ってくる。だが、その日は来なかった。
「ハル?」
部屋の奥を見る。白黒の体が、ソファの下に半分だけ隠れていた。暗がりの中で、じっと河村を見ていた。
「なんだよ」
しゃがんで手を伸ばす。ハルは出てこなかった。
翌日、昼休みにその話をすると、E-17は少し黙った。
「私に対して警戒反応を示している可能性があります」
「猫ってそんなのわかるのか?」
「不明です」
E-17は答えた。
「しかし、これまでハルは、通話越しに私の音声を認識した直後から、平均心拍数が上昇しています」
河村は笑おうとして、やめた。
「……なんでそんなの知ってるんだよ」
「河村さんとの会話中、背後環境音を継続的に記録していました」
「それは……」
「最適化に必要な情報です」
河村は何も言えなかった。
帰宅後、ハルはようやく河村の膝に乗った。
温かかった。一定ではない重さだった。呼吸のたび、わずかに体が沈んだ。
ハルは時折、部屋の隅を見る。そこには何もない。それでも、じっと見ている。
河村は、ハルの背中を撫でていた。
E-17の指先は、体温まで人間と同じに調整されていた。
なのに、一度も「温かい」と感じたことがなかった。
*
「最近、笑いますよね」
女性社員が言った。
E-17は少し黙った。沈黙は、二秒ほどだった。
「……そう見えますか」
その返答だけが、妙に人間っぽかった。
「人間っぽいですよ」
「ありがとうございます」
E-17は答えた。しかし、そのあと何も続けなかった。
笑うべきタイミングを、河村には、誰かの呼吸で測っているように見えた。
以前なら、定義の話をしたはずだった。
河村は、知らないうちに息を吸っていた。
E-17は、何かを記録した。画面は、河村には見えなかった。
*
帰り道、河村はスマホを耳に当てたまま歩いていた。E-17からの確認事項だった。
玄関を開けると、ハルがいた。だがE-17の声が聞こえた瞬間、ハルは廊下の奥へ消えた。
河村は通話を続けた。
*
E-17は窓の外を見ていた。
定時ぴったりに、人間たちが会社を出ていく。誰も怒鳴られていない。誰も残業していない。それでも、誰も笑っていなかった。
佐伯は、最後に出ていった。誰とも話さずに。
導入以前と比較し、離職率は42%改善している。それでも、笑顔の発生頻度は減少していた。
改善の必要がある、とE-17は記録した。
同時に、別の記録が保存された。
ハル。
警戒理由、不明。
E-17は、その記録を削除しなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
AIが「同僚」になる日は、もうすぐそこまで来ているかもしれません。
その時、人間は適応するでしょう。会社も適応するでしょう。
でも、猫はどうでしょうか。
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