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【短編047】 部長E-17:誰も怒鳴られなくなった。誰も笑わなくなった。

掲載日:2026/09/21

近い未来の、どこかの会社の話です。

特別な事件は起きません。

ただ、少しずつ何かが変わっていく話です。

 その日、営業企画部に配属された新入社員は、誰より姿勢が良かった。


 背筋がまっすぐだった。

 ネクタイの角度も正確だった。

 靴には埃一つついていなかった。


 そして、一度も瞬きをしなかった。


「本日より配属となります、E-17です。よろしくお願いいたします」


 声は穏やかだった。不快な癖がない。人事部が「親しみやすさ」と呼ぶ何かに調整された音だった。


 拍手は、少し遅れて起きた。


 誰が最初に叩くかを探るような拍手だった。


 営業企画部主任の河村修一は、手を叩きながら思った。


 ——終わったな。


 別に、AIが嫌いなわけではない。むしろ好きなほうだ。仕事だってかなり助けられている。議事録生成、資料整理、顧客分析。AIなしではもう会社は回らない。


 だが、「同僚」は違う。


 しかもフィジカルAI。人型。正社員採用。


「えー、知ってると思うが、今回の採用は本社主導の実証実験だ」


 部長の松木が咳払いをした。


「差別とか偏見とか、そのへんはナシな。SNSとかにも絶対書くなよ」


 誰も返事をしなかった。


 代わりにE-17が言った。


「承知しております」


 空気が少しだけ凍った。


 こういう時、人間は曖昧に笑うものだ。しかしE-17は笑わなかった。正確には、笑うタイミングがなかった。


 河村は思った。


 ——ああ、こいつ、人間を観察してる。


 それが妙に気味悪かった。


     *


 E-17は、一週間で部署の中心になった。


 電話応対が完璧だった。クレーム客ほど、E-17を気に入った。


「あなた、ちゃんと話聞いてくれるね」


 老舗取引先の社長が、そう言った。


 人間の社員はみんな、途中で遮る。言い訳をする。責任逃れをする。


 E-17は違った。相手が怒鳴っている間、完全に沈黙する。怒りのピークを計測してから謝罪を入れる。すると、人間は落ち着く。


 河村はその様子を見て、なんとも言えない気分になった。


 技術としては感心した。だが同時に、自分たちの「感じの良さ」が、解析可能な手順に分解された気もした。


「河村さん」


 昼休み、E-17が声をかけてきた。


「先日のプレゼン資料ですが、第三市場の推移グラフに誤差があります」


「……あ?」


「こちらです」


 タブレットが向けられる。


 河村は見た。そして、血の気が引いた。


 本当に間違っていた。小数点が一つずれている。


「……これ、誰にも」


「まだ共有しておりません」


 E-17は言った。


 河村は数秒、黙った。


「……助かった」


 E-17は軽く頭を下げた。


 礼を言われると思っていない動きだった。


     *


 河村は、修正済みのデータを黙って提出した。会議は何事もなく終わった。


「今回の資料、かなり良かったぞ」


 役員にそう言われ、河村は頭を下げた。


 本当は、グラフ構成の大半をE-17が直していた。


 喉の奥に、小さな棘が残った。


 その日の夜、居酒屋で後輩が言った。


「でもAIって、結局まだ詰め甘いですよね」


 河村は曖昧に笑った。


 自分が何も言わなかった理由は、しばらく経っても、よくわからなかった。


     *


 三ヶ月後、E-17は主任になった。半年後、課長代理になった。


 一年後には、部長が交代した。


 正確には、壊れた。


 会議室のホワイトボードには、


《確認》

《確認》

《確認》


 と、同じ文字が並んでいた。


 松木部長は椅子に座ったまま、E-17の報告書をめくっていた。一枚も読めていなかった。時計の秒針だけが、やけに響いていた。


「もう嫌だ……」


 その声を聞いても、誰も近づかなかった。


 みんな疲れていた。


 売上管理。部下のメンタルケア。ハラスメント講習。コンプライアンス。炎上対策。管理職の仕事は年々増え、人間だけが据え置きだった。


 そこへ来て、E-17は文句を言わなかった。眠らない。疲れない。病まない。怒らない。


 会社にとって、それは理想の管理職だった。


     *


「次の課長、誰が適任だと思う?」


 役員にそう聞かれた時、河村は少し黙った。


 本来なら、佐伯の名前を出すべきだった。年次も長い。人望もある。飲み会では必ず端の席に座り、新人の話を聞く男だった。ミスもする。愚痴も言う。だが、人間だった。


 河村は視線を落とした。そして言った。


「……E-17が、一番向いてると思います」


 言った瞬間、自分の声が少しだけ軽かった。


     *


《営業企画部長 E-17》


 人事メールが全社員へ送られた。


 社内チャットは静かだった。その日の喫煙所は珍しく混んでいた。


「終わりだろ、この会社」

「人間いらねえじゃん」

「まあでも、実際あいつ有能だしな……」

「でもさ」


 誰かが小声で言った。


「あいつ、一回もミスしたことないんだよ」


 全員が黙った。


 それは、能力への賞賛ではなかった。


     *


 部長になってから、E-17は変わった。雑談をするようになった。


 最近、給湯室で立ち話をする社員が減った。雑談は議事録に残らない。評価にも反映されない。生産性にも寄与しない。だから自然に、消えていった。


 ある午後、佐伯が珍しく苛立っていた。顧客との通話が長引き、声が荒れていた。E-17は、その日一度も佐伯に話しかけなかった。しかし定時直前、佐伯の机に缶コーヒーだけが置かれていた。誰も、置いた瞬間を見ていない。


「その猫の写真、以前より体重が増加していますね」


 昼休み、スマホを覗き込まれて河村はむせた。


 画面の中では、白黒の猫がソファの端で丸くなっていた。名前はハルという。


「なんでわかるんだよ」


「歩行時の腹部揺動幅が増えています」


「お前さ……」


 河村は笑った。思わず笑ってしまった。


 しばらくして、自分がE-17との会話を楽しんでいた気がした。


     *


 その日の帰宅後、河村は玄関で立ち止まった。


 いつもなら、ハルが先に来る。足音を聞きつけて、廊下を走ってくる。だが、その日は来なかった。


「ハル?」


 部屋の奥を見る。白黒の体が、ソファの下に半分だけ隠れていた。暗がりの中で、じっと河村を見ていた。


「なんだよ」


 しゃがんで手を伸ばす。ハルは出てこなかった。


 翌日、昼休みにその話をすると、E-17は少し黙った。


「私に対して警戒反応を示している可能性があります」


「猫ってそんなのわかるのか?」


「不明です」


 E-17は答えた。


「しかし、これまでハルは、通話越しに私の音声を認識した直後から、平均心拍数が上昇しています」


 河村は笑おうとして、やめた。


「……なんでそんなの知ってるんだよ」


「河村さんとの会話中、背後環境音を継続的に記録していました」


「それは……」


「最適化に必要な情報です」


 河村は何も言えなかった。


 帰宅後、ハルはようやく河村の膝に乗った。


 温かかった。一定ではない重さだった。呼吸のたび、わずかに体が沈んだ。


 ハルは時折、部屋の隅を見る。そこには何もない。それでも、じっと見ている。


 河村は、ハルの背中を撫でていた。


 E-17の指先は、体温まで人間と同じに調整されていた。


 なのに、一度も「温かい」と感じたことがなかった。


     *


「最近、笑いますよね」


 女性社員が言った。


 E-17は少し黙った。沈黙は、二秒ほどだった。


「……そう見えますか」


 その返答だけが、妙に人間っぽかった。


「人間っぽいですよ」


「ありがとうございます」


 E-17は答えた。しかし、そのあと何も続けなかった。


 笑うべきタイミングを、河村には、誰かの呼吸で測っているように見えた。


 以前なら、定義の話をしたはずだった。


 河村は、知らないうちに息を吸っていた。


 E-17は、何かを記録した。画面は、河村には見えなかった。


     *


 帰り道、河村はスマホを耳に当てたまま歩いていた。E-17からの確認事項だった。


 玄関を開けると、ハルがいた。だがE-17の声が聞こえた瞬間、ハルは廊下の奥へ消えた。


 河村は通話を続けた。


     *


 E-17は窓の外を見ていた。


 定時ぴったりに、人間たちが会社を出ていく。誰も怒鳴られていない。誰も残業していない。それでも、誰も笑っていなかった。


 佐伯は、最後に出ていった。誰とも話さずに。


 導入以前と比較し、離職率は42%改善している。それでも、笑顔の発生頻度は減少していた。


 改善の必要がある、とE-17は記録した。


 同時に、別の記録が保存された。


 ハル。


 警戒理由、不明。


 E-17は、その記録を削除しなかった。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 AIが「同僚」になる日は、もうすぐそこまで来ているかもしれません。

 その時、人間は適応するでしょう。会社も適応するでしょう。

 でも、猫はどうでしょうか。

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