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せめぎあい

 放課後の空気は、雨上がりの湿った匂いをまだ手放そうとしないでいた。濡れたアスファルトが西日を反射して、足元が少し滲んで見える。

 美桜と並んで歩く帰り道。それはいつも通りで、いつも通りじゃなかった。


 どちらからともなく歩幅を合わせ、会話はゆるやかなものだった。テストの話、先生の口癖、近所のコンビニに新しいアイスが入ったとか、そんな他愛ないやり取りを交わすたびに、俺は胸の奥で何かが小さく軋むのを感じていた。理由なんて分かってる。今日、美桜が「話したいことがある」と言ったからだ。


「ねえ、春斗」

「ん?」

「……まだ決まったわけじゃないんだけどさ」


 美桜の声は、いつもより少しだけ慎重に揺れていた。それが、何かを遠ざけてしまう予感を含んでいることに、俺はすぐに気づいた。


「美術の先生にね、県外の芸術系の高校、受けてみないかって言われたの」


 やっぱり。けれど、そう思うよりも先に、俺の口は勝手に笑いながらこう答えていた。

「すげーじゃん、それ。美桜、絵すごいもんな」

「ううん、まだ受けるって決めたわけじゃ――」

「でも、ほら、チャンスじゃん」


 自分では驚くくらい明るい声が出た。いつもの俺みたいに、軽く背中を押すようなトーン。でも、内側では違った。あの美桜が、いなくなるかもしれない。その可能性が俺の胸をじわじわと締めつけていく。

 それでも、引き止めるような言葉は口から出てこなかった。


「春斗は……応援してくれるの?」

「当たり前だろ」


 笑った。笑えてしまったことが、少しだけ怖かった。

 美桜も笑った。けれどその笑顔は、どこか脆くて、風が吹けば消えてしまいそうだった。


 しばらく沈黙が続いた。歩幅は同じなのに、距離感だけが妙に変わった気がした。


「でもね、怖いんだ」

「何が?」

「離れること。行きたいって気持ちもある。でも、ここにいたい気持ちもある。どっちを選んでも、きっと後悔するって思うと……怖い」


 せめぎ合っているのは、美桜の気持ちだった。でも、それだけじゃない。俺の心だって、同じように揺れていた。

 行くなと言いたい。でも、それじゃ美桜の未来を縛ってしまう。行けよと言えるほど、俺は格好よくない。だから――黙るしかなかった。


「春斗は、さ……もし、私が遠くへ行っても、変わらないと思う?」

「……さあ、どうだろ」


 本当は「変わらない」と言ってほしかったのかもしれない。本当は「変わってしまう」と言ってほしかったのかもしれない。

 どちらの答えも出したくなくて、出せなくて。

 俺たちの間の空気が、少しだけ冷たくなった。


 ふと視線を上げると、遠くに校舎の屋根が見えなくなっている。空は赤く染まり始めていたけれど、その美しさがやけに虚ろに感じられた。


「もし、行くって決めたら……ちゃんと、言うから」

「言わなくても、分かるよ」

「やだ、それはちゃんと言う」


 美桜は少しだけ笑う。俺も笑ったつもりだった。でも、それはうまく笑えてなかった気がする。


「春斗は、さ……」

 美桜が口を開いたところで、ぽつり、と雨粒が頬に落ちた。


「え、さっき止んでたのに」

「ほら、急ご」


 話の続きを誤魔化すみたいに、俺は少しだけ歩幅を早めた。美桜もついてくる。

 同じ速さで歩くのに、さっきより距離が遠くなった気がした。


 傘は持っていなかった。けれど、俺たちは走らなかった。小さな雨粒が髪に滲んでいく。その感覚が、不思議なほど静かだった。


 もし今、美桜が「ねえ、行きたくないって言って」って言ったなら。

 俺は、それを言えただろうか。

 もし逆に「止めないで」って言われたなら。

 俺は、笑って背中を押せただろうか。


 そのどちらも言われなかったことに、少しだけホッとして、少しだけ苦しくなった。


 やがて家の近くの分かれ道が見えてきた。ここでいつもバイバイをする。

 いつも通りの場所なのに、今日だけは、ここが終着点みたいに感じられた。


「じゃあ、また明日ね」

「……ああ」


 そう言いながら、俺たちは手を振ることなく、それぞれの方向へ歩き出す。

 背中を向けた瞬間、胸のどこかがぎゅっと掴まれたように痛んだ。


 まだ何も失っていないはずなのに。

 まだ何も決まっていないはずなのに。

 ここから何かが崩れ始める気がして、振り返ることができなかった。


 雨はいつの間にか少しずつ強くなり始めていた。

 傘もないまま、ただ前だけを見て歩きながら、俺は心の中で言葉にならない何かとずっとせめぎ合っていた。

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