大人の階段
春が終わりかけた放課後、校舎の窓から射し込む陽射しがやけに眩しく感じた。クラス替えから一カ月。中学三年になった俺は、進路調査票の前で固まったまま、ペンを握る手を動かせずにいた。
将来の夢。第一志望校。やりたいこと。
――それが書けないというだけで、みんなが俺を置いて行くような不安に襲われる。
後ろの席では、美優と航平が楽しそうに話していた。美優はいつも笑顔が似合う女子で、俺とは小学校からの同級生。そして気づけば、視線を追ってしまう存在になっていた。でも、それを自覚したのはつい最近だった。
中学二年の終わり、教室の窓際で彼女が「来年は受験だね」と言ったとき、なぜか胸がぎゅっと締めつけられた。そのとき「彼女がどこか遠くに行ってしまいそうで怖い」と感じた意味を、やっと理解し始めていた。
だけど俺は、何も言えなかった。
「好き」なんて言葉を吐き出した瞬間、今までみたいに自然に笑い合えなくなりそうな気がして。
テストの返却が終わったあと、担任が「進路調査票、明日までな」と軽く言った瞬間、俺の胃は急に重くなった。「まだ書いてねぇのかよ」と航平が笑いながら俺の肩を叩いたが、その背後で美優が少しだけ心配そうな顔をしているのが見えた。
その目が苦しかった。
心配される俺は、ずっと子供のままだ。
俺は、中途半端に笑ってごまかしながら、進路票を鞄に詰め込んだ。何も決められないまま。
◇
ある日、美優が窓際で泣いているのを見てしまった。
誰もいない音楽室の前。開いたドアの隙間から漏れた嗚咽を聞いてしまった俺は、動くことができなかった。
声をかけるべきか、そっとしておくべきか。
気づかれないように立ち去ろうと一歩下がったとき、背後から「ねえ、聞こえてるんでしょ」と、震えた声がした。
振り返った俺を、美優は涙を拭いながら見つめた。その目は赤く、笑おうとした唇は上手く形にならなかった。
「……ごめん」
それが、俺の口から出てきた精一杯の言葉だった。
すると彼女は首を振り、「謝らないで」と言ってから小さく息を吐いた。
「私ね、受験どうしようかなって。親は進学校行けって言うけど、本当は美術の高校に行きたいの。だけど、自信ないし……怖い」
胸の奥がざわついた。
それは俺が抱えていた不安に、彼女も苦しんでいると知ったからか。
それとも、自分だけが止まっていると思い込んでいたことが、少しだけ恥ずかしく感じたからか。
「……美優なら行けるよ」と言ったら、彼女は驚いたように目を開き、それから少し泣き笑いの表情になった。
「じゃあ、君は?」
「え?」
「君はどこに行きたいの?」
その問いに、言葉が詰まる。
子供だ、と自分のなかで声が響いた。自分のことすら言えない俺は、やっぱり子供だ。
そのとき、美優がほんの少しだけ俺の指先に触れた。
それは何かを求めるような、あるいは頼るような、弱いけれど確かなぬくもりだった。
「怖いよね。でも、一緒に怖がってくれたら少し安心するかもしれないから」
その言葉に、俺の胸の奥がじわりと熱くなった。
◇
翌日、放課後の屋上で俺は進路票を広げた。文字はまだ白紙だ。
だけど、昨日よりは少しだけ怖くなくなっていた。
美優が言ってくれた「怖いのは一人で進むとき」という言葉が頭に響いていたからだ。
――でも俺は、美優に「一緒に進む」とはまだ言えない。
言葉にした瞬間、想いに責任が生まれる。それはもう、子供ではいられないという宣告になるのだ。
風が吹いて、進路票がふわりと舞い上がった。慌てて掴んだその紙の端が、少し折れてしまった。でもなぜか、その折れ目が俺の心のどこかにも刻まれたような気がした。
◇
数日後、美優は両親に美術高校のことを話したらしい。
「今日、泣かれた。でもね、ちゃんと話したら、少しだけ考えてくれるって」
笑顔でそう語る彼女の顔は、泣き腫らしたときよりもずっと強く見えた。
それなのに俺は、自分が何も変わっていないと痛感していた。
――大人になる階段の前に立っているのに、一歩も踏み出せていない。
帰り道、夕暮れの空の下、美優がぽつりと呟いた。
「私ね、中学最後に、ちゃんと好きな人にありがとう伝えたいんだ」
心臓が跳ねた。
「そしたら、大人になれる気がするの」
その瞬間、俺の胸は激しく波打った。
――美優には、好きな人がいる。
分かっていたはずの現実なのに、その言葉は刃のように突き刺さった。
俺は笑わなければならなかった。
「そっか」
「うん」
「……いいじゃん」
そう言った瞬間、美優は「ありがとう」と小さく笑った。
その笑顔が、あまりにも綺麗で、痛かった。
◇
その夜、進路票を開いても文字は滲んで見えなかった。視界がぼやけて、ペン先を握る指が震えた。
――俺も、美優に「ありがとう」って言いたかった。
俺を不安から救ってくれたことを。
だけどそれはもう、誰かに向けた言葉になるだろう。
俺の「好き」は、まだ幼くて脆すぎた。
その幼い想いを胸に抱いたまま、俺は一行目に「県立・城南高校」と記した。
本当の夢かどうかは分からない。でも、これが俺の「今、踏み出せる一段目」だと思ったからだ。
◇
学年末の面談後、美優が俺の机に小さな紙を置いていった。色鉛筆で描かれた階段と、その横に「一緒に怖がってくれてありがとう」と書かれていた。
その言葉に、俺の喉は詰まったままだった。
――でも、次は。
次に怖くなったときは、俺が言う番かもしれない。
「大丈夫だよ」って。
「一緒に進もう」って。
それが言えるようになったとき、きっと俺はもう少し大人になれている。
階段の一段目。それはまだとても低いけれど、確かに俺の足はそこに触れていた。
――――――――――
(第3話 完)




