帰り道、まだ触れない距離
教室を出たのは、21時を過ぎたころだった。
塾のビルの前はもう人通りもまばらで、街灯のオレンジ色がアスファルトを照らしている。
湿った夜風が、律の髪をそっと揺らした。
「……外、真っ暗ですね」
「ごめんな。帰り、遅くなったな」
「いえ……その、僕は……うれしかったです」
律は、顔を赤らめながら言った。
控えめに笑って、秋くん、と小さくつぶやくように呼んでくれた。
たったそれだけで、心が掴まれるようだった。
「送るよ。途中まででも」
「……はい。ありがとうございます」
二人で並んで歩く。
それだけのことが、なぜかくすぐったくて、少し息がしづらい。
沈黙が何度も訪れる。
でも、そのたびに律が秋のシャツの袖をちょこんと引いた。
“そばにいてもいいですか”
そう言われているようで、秋は思わずその手をそっと握り返した。
歩くたび、手の中の温度が伝わってくる。
細くて、すこし冷たくて、それでも離したくなかった。
「秋くんの手……落ち着きます」
「お前の手、すごく冷たい。……体、冷えてないか?」
「ううん。秋くんが握ってくれてるから、平気です」
“秋くん”
何度呼ばれても、まだ胸の奥がじんと熱くなる。
ふと立ち止まり、秋は律の頬に指を伸ばした。
夜風に触れて冷えた肌は、ほんのりと赤らんでいた。
「……律。もし、また、俺が我慢できなくなったら、どうする?」
「……」
律は、答えなかった。
でも、逃げもしなかった。
ただ、唇を少し噛んで、目を伏せる。
そして――
「……秋くんが、ちゃんと待ってくれるなら……僕、もう少し、怖がらずにいられそうです」
その言葉に、秋の胸が締めつけられた。
この子は、俺を信じようとしてくれてる。
何も知らない不安の中で、それでも近づこうとしてくれてる。
「待つよ。律がいいって言うまで、絶対、何もしない」
そう言うと、律はすぅっと目を細めた。
「……でも、少しだけ、なら……」
「ん?」
「……触れてほしいって、思ってます。僕のほうも」
その一言で、秋の理性がまた、ふるりと揺れた。
けれど、今夜はまだ――その先へは進まない。いや、進めない。
秋は、そっと律の髪に指を差し入れた。
額にかかる前髪を優しくなぞって、そして――おでこに、軽く口づけた。
律は少し驚いた顔をしたあと、照れたように、ふふ、と小さく笑った。
それが、たまらなく可愛かった。
「……ここまでで、今日は限界」
「……はい」
ふたりは手を繋いだまま、静かな夜道を歩いた。
まだ抱いていない。
まだ求めていない。
けれど、心はもう、深く繋がりはじめていた。