金曜日、夜の教室
金曜の夜は、不自然なほど静かだった。
生徒の大半は週末前に帰宅し、講師もぽつぽつと退勤していく。
時計の針は19時を過ぎ、廊下の照明はすでに間引かれている。
俺と律だけが、まだ残っていた。
「今日は調子いいな。……どした?」
「……なんとなく、静かな教室が好きなんです。音がないと、集中できるというか……」
そう言って律は微笑んだ。
まるで、俺と“ふたりきり”でいることに、何の違和感も覚えていないように。
それが、余計に苦しい。
俺は、心の中で何度も言い聞かせている。
「これは、生徒だ」
「まだ何もしていない」
「してはいけない」
──でも、もう限界だった。
ふと、律が伸ばした腕からシャツの袖が落ち、白い手首が露わになる。
その手が、ペンを握りながらかすかに震えていた。
「あ……ちょっと間違えました。ここ、逆ですね……」
「見せて」
ペンを持つ律の手に、俺の手が重なる。
指先が、触れる。
皮膚の熱が、溶けて混ざる。
律がびくり、とわずかに肩を揺らした。
でも、手を引かない。
「……先生の手、あったかい」
ぽつり、と律が言った。
「冷たいの、苦手なんです。だから……なんか、安心します」
俺は答えられなかった。
その手を、強く握ってしまいそうだったから。
でも――
律は、自分の手の下にある俺の指に、ぎゅっと力を込めてきた。
「……どうした?」
「……先生、最近、僕のこと……避けてますよね」
その一言に、背筋が凍った。
「……そんなこと」
「してます。前より、目を合わせてくれない。近づくと、すぐ話を切り上げる」
「それは……」
「……僕、なにかしましたか?」
まっすぐな目。
だけど、わずかに揺れていた。
不安と、戸惑いと、もしかすると……期待に似たもの。
俺は、堪えきれなかった。
「……律」
俺の手が、彼の頬にふれた。
それはもう、本能だった。
律は驚いたように目を見開いたが、逃げなかった。
むしろ、そっと頬を俺の手に預けてきた。
「……先生」
「……ごめん。もう、止められないかもしれない」
「……止めなくていい、です」
その瞬間、すべてが決壊した。
身体が近づく。
触れる、唇。
ためらいがちに、けれど確かに、互いの温度を確かめ合うように。
律の唇は、想像よりも柔らかくて、震えていた。
それでも、彼は目を閉じて、俺を受け入れてくれた。
「……律」
「……僕も、先生のこと、ずっと……」
その言葉の続きを、キスが奪った。
そして、金曜の夜の教室。
そこで、ふたりの関係は、静かに“教師と生徒”を越えた。
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唇を離したあとも、律の息が熱を持っていた。
細い肩がわずかに上下し、こちらに預けられた体温が、じんわりと俺の胸に染みていく。
「……律」
「……はい」
顔を上げた彼の頬は赤く、潤んだ瞳が真っ直ぐに俺を見つめていた。
あまりにも綺麗で――
このまま抱きしめて、全部奪ってしまいたくなる。
けれど、律はまだ震えている。
きっと不安で、きっと、まだ“その先”を知らない。
だから俺は、ゆっくりと腕を回して、ただ優しく抱き寄せた。
「……もうちょっとだけ、こうしててもいいか?」
「……はい」
律の返事は小さかったが、拒まれることはなかった。
背中に手を当てると、制服の生地越しにその細さが伝わる。
「律の体、……華奢すぎるくらいだな」
「僕、食べても太らない体質で……あの、……やっぱり、男っぽくないですよね」
「そんなことない。……律は、律のままでいい。俺、……すごく、好きだよ」
その言葉に、律が小さく息を飲んだのがわかった。
「……そんなふうに、言われたこと、ないです」
律の指先が、俺のシャツの胸元をそっとつまむ。
その小さな仕草がいじらしくて、愛しくて、思わず指で律の頬をなぞった。
ついでに、首筋にも触れる。
肌が、熱くなっていた。
「……くすぐったい、です」
「嫌か?」
「……いえ、嫌じゃない、けど……はじめてで」
その“はじめて”という言葉が、妙に生々しくて、俺の中の欲を煽った。
「……律」
俺は、律の制服の裾に手を差し入れた。
指先が、シャツの下の素肌にふれる。
律の肌は、驚くほど滑らかで、ぬくもりを帯びていた。
「……っ、秋、せんせ……」
「……律。俺のこと、名前で呼んでくれないか?」
「……え?」
「もう、“先生”じゃなくていい。……俺のこと、秋って、呼んで」
律は、目を見開いて固まったようだった。
すぐには答えなかった。けれど、俺の目を逸らさなかった。
そして――
「……あき、くん……」
少し戸惑いながら、けれどたしかに、呼んでくれた。
その響きが、胸の奥にずしんと落ちてきた。
律の声で、自分の名前が呼ばれる――たったそれだけで、何かが報われるような気がした。
「……ありがとな、律」
そう言って、もう一度そっと唇を重ねた。
今度は長く、深く。
それでも、まだ一線は越えない。
律の指が俺の手にしがみつくように触れていて、その震えが俺を止めていた。
「……秋くん」
また呼ばれた。
その声が、かすかに甘く掠れていて――息がかかるたび、理性がふるえていた。
「無理はさせない。だから、安心して。……」
律は、少しだけ笑った。
その笑みは、どこか安心したようで、どこか戸惑いも残っていた。
けれど、確かに言った。
「……僕も、秋くんがいいです」
ふたりはそれ以上、肌を重ねることはなかった。
けれど、唇よりも深く、呼吸よりも近く、心が重なった夜だった。