ふたりきりの自習室
律がいる。
それだけで、こんなにも体が反応するなんて――思ってもみなかった。
「先生、今日も少し残って自習しても……いいですか?」
「……もちろん」
律は、俺を見て小さく微笑んだ。
夢の中と同じ笑みだった。
もう、それだけで胸が痛い。
あの夢を見た夜から、まだ二日しか経っていない。
俺の中にはまだ、あのときの柔らかい肌の感触、囁かれた声、腕の中の温もりがこびりついている。
現実の律は、なにも知らない。
ただ勉強を頑張る、優秀な生徒だ。
だけど、今こうして自習室で“ふたりきり”になると――現実と夢の境界が曖昧になっていく。
他の生徒たちが帰り始め、廊下の灯りが少しずつ落ちていく時間。
その静けさのなかで、律はノートに数式を書き込んでいた。
顔を伏せて、ペンを走らせるその姿。
机に寄せた肩、シャツの布が滑る音。
そのすべてが、俺の神経を逆なでしてくる。
「……律」
無意識に名前を呼んでいた。
「はい?」
顔を上げた律の目が、俺を見つめた。
一瞬、思ったよりも近くて、心臓が跳ねた。
「そろそろ、……目が疲れてきたんじゃないか?」
「そうですね……少し、だけ」
「じゃあ、ちょっとだけ休憩しようか。目を閉じて、深呼吸して」
俺の言葉に律は素直にうなずき、ペンを置いた。
そして、目を閉じた。
──やめろ。
律が目を閉じているだけなのに、こんなにも艶めいて見えるのはなぜだ。
黒髪が頬にかかって、呼吸に合わせて肩が小さく上下する。
まぶたの薄さすら、艶やかに見える。
静かな吐息のたびに、鼓動が熱くなる。
「……眠くなりそうです」
ふっと漏れたその一言に、俺の喉が鳴った。
「じゃあ、寝るか? ここで」
「ふふ、……先生が隣にいてくれたら、眠れるかもしれません」
軽い冗談。
きっと、律はそんなつもりだったんだろう。
でも――
今、その一言が、どれだけ危ういかわかっていない。
「……俺が隣にいたら、眠れないと思うけどな」
自分でも驚くほど、低く、熱を帯びた声が出た。
律が、目を開けてこちらを見た。
きょとんとした顔。
俺は、椅子の背にもたれ、目を伏せてごまかした。
ダメだ。
もう、律に触れてしまいそうだ。
あの首筋に、手を伸ばしたら、きっと止まれない。
「……帰ろう。今日はここまで」
「え……でも、まだ」
「いい。疲れてるだろ?無理させたくない」
律は少し驚いたようだったが、黙って頷いた。
「……はい。先生がそう言うなら」
その言葉が、妙に胸に響いた。
“先生がそう言うなら”
その無垢な信頼が、俺を縛る。
でも、それでも。
俺は――触れたくて、たまらなかった。
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夜の塾は、ほとんど無音だった。
外の雨は上がっていたが、湿った風がまだどこかに残っている。
律が鞄を手に立ち上がり、制服の裾を直すようにスカート……ではなく、ズボンの端を軽く叩いた。
その拍子に、シャツの裾がわずかに持ち上がる。
肌が、また見えた。
白い、細い腰骨のあたり。
骨ばっていない、まだ少年の面影が残るような、柔らかそうな肉付き。
律が動いた瞬間、俺の手が――
反射的に、その裾に、触れてしまった。
「……っ」
指先に、確かに布と、下にある肌の感触があった。
律がぴくりと肩を震わせる。
「……せ、先生?」
その声音には、戸惑いと、かすかな揺れが混ざっていた。
「……ごめん」
すぐに手を引っ込めた。
触れたのは一瞬だった。だが、俺には長すぎた。
心臓がひどくうるさい。
視線をどう向けていいかわからない。
律は、自分の裾を見下ろし、小さく息を吸った。
「……あの、なにか……ついてましたか?」
その問いに、俺は嘘をついた。
「いや……糸くず、が。ついてたから、取っただけ」
「……あ、そうなんですね。……ありがとうございます」
律は微笑んだ。
信じている。俺を。
なのに俺は――
その裾の下に指を伸ばしたくなっていた。
その奥にある肌を、確かめたくなっていた。
俺は最低だ。
教師としても、大人としても。
なのに、こんなにも、律に触れたい。
「……律」
「はい」
「次、いつ来る?」
「次は……あさっての金曜日です。」
その“声”が、甘く響いた。
「……気をつけて帰れよ」
「……はい。先生も、無理しないでくださいね」
そう言って、律は背を向ける。
その後ろ姿を、俺は見送るしかできなかった。
制服の裾に、まだ自分の熱が残っている気がした。
もう、止まれない。
俺は、この感情に名前をつけることを、諦めるしかなかった。