雨に濡れて、透けた距離
窓を打つ雨音が、午後の教室を包んでいた。
空は灰色に沈み、放課後の塾には、いつもより人が少ない。
それでも律は、約束どおりやってきた。
制服の肩と腕が濡れて、ところどころに水の染みが広がっている。
「……傘、忘れました。途中で急に降ってきて」
「バス、使えば良かったのに」
「バス停混んでたので……」
そう言って、律は笑った。
少し湿った黒髪。濡れたままのシャツの布地。
それが、肌にぴったりと張りついている。
細い首筋から、鎖骨のあたりまで――
白く透けていた。
一瞬、呼吸を忘れる。
「寒くないか?」
「すこし……でも、大丈夫です」
律はそう言ったが、俺は机の下で手を握った。
本当は、視線を逸らしたい。
でも逸らせない。
その透けたシャツ越しの肌。
うっすらと浮かぶ体のライン。
華奢で、柔らかそうで、知らない世界のように見えた。
「……拭いてこい。風邪ひく」
「はい、すみません……」
律が荷物からハンカチを取り出して、シャツの袖を押さえる。
だが、拭くだけでは乾かない。
俺は考える。
講師としての正しさと、男としての衝動がせめぎ合う。
「……タオル、持ってきてやる」
そう言って控室へ向かい、予備のフェイスタオルを一枚、引き出しから取って戻る。
律に差し出すと、彼は驚いたように目を丸くした。
「先生、こんなものまで……」
「こういうの、あると便利なんだよ。……使っていいから」
「……ありがとうございます」
タオルを受け取る律の指先が、俺の指にふれた。
わずかに冷たい感触。
その小さな接触だけで、理性の境界が揺らぐ。
俺は、何も言わず席についた。
しかし視線の先では、律がシャツの前を少し開いて、タオルで内側を押さえている。
──やめてくれ。
そんなつもりじゃないとわかっている。
でも、それが余計に苦しい。
無自覚な仕草。無防備な距離。
律がただ「拭いている」だけなのに、俺の体は熱を帯びる。
「律……」
呼びかけた声が、喉の奥で震えた。
「はい……?」
彼が、顔を上げた。
その瞳は、いつもと同じく、まっすぐだった。
純粋な、生徒の目。
……それが一番、俺を苦しめる。
「……なんでもない。始めようか」
「はい、お願いします」
律はまた、ノートを開く。
俺は、何もなかったふりをして、ペンを取った。
けれど、シャツの中の素肌を見てしまった今日。
俺の中で、何かが音を立てて、崩れていた。
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夜。
シャワーを浴びてベッドに沈んだ俺は、ひとつ、長く息を吐いた。
あの透けた制服。
肌に張りついた白いシャツ。
タオル越しに押さえた、自分でも気づいていないような仕草。
律の全てが、頭にこびりついて離れない。
「……見なきゃよかった、なんて、嘘だな」
悔しいほどに惹かれている。
それが恋なのか、ただの欲望なのか――そんな境界は、とうに曖昧だった。
目を閉じれば、瞼の裏に律の姿が浮かぶ。
そして、静かに意識が深く沈んでいった。
夢の中で、律がいた。
制服のまま、少し濡れた黒髪を揺らしてこちらを見る。
襟元が開いていて、鎖骨のあたりがしっとりと光っている。
「先生……」
律が囁いた。
その声が、やけに甘い。
いつもの丁寧で真面目な口調ではない。
どこか熱を含んだ声色だった。
「……僕、先生に教えてほしいんです。もっと、いろんなこと」
「律……?」
「こういうのって、……どうするんですか?」
律が、ゆっくりと俺の手をとる。
その指が俺の指に絡み、胸元へ導く。
シャツの前が、ひとりでに解けていき、なめらかな肌が目の前に広がった。
「先生の手、あたたかいですね……」
耳元で、ふわりと囁かれる。
目の前にある、華奢な身体。
その白さ、柔らかさ。
全てが甘くて、どうしようもなく誘惑的で。
夢だとわかっているのに、もう抗えなかった。
「触れて、いい……?」
俺が問うと、律は微笑んだ。
「……はい。先生だから」
その瞬間、理性が砕けた。
抱きしめた身体は、驚くほど軽くて、熱をもっていて、柔らかかった。
唇を近づけ、触れようとした、その刹那――
目が覚めた。
「……っ、くそ」
シーツの上で、俺は荒く息をついた。
喉は渇き、手のひらは熱を持っている。
下半身が、はっきりと反応していた。
夢だった。
でも、あまりにもリアルだった。
布団を蹴り上げる。
けれど、この熱はどうしようもなかった。
「……会いたくねぇ、明日……」
それでも、明日は来る。
律は、またあのまっすぐな目で、俺を見つめてくる。
知らないふりをしながら、無垢な顔で。
それが、なによりも――怖い。