平静という仮面
二日後。
再び律が教室に現れたとき、俺は笑顔を浮かべて彼を迎えた。
「よっ。律、今日も頑張ろうな」
「あ、はい。……よろしくお願いします」
いつもと変わらない。
律は制服を崩さずにきちんと着て、ノートと筆記用具を整然と並べて座っている。
俺も、いつもと変わらないふりをした。
けれど──体の奥が、それを拒絶していた。
目が、追う。
喉が、渇く。
昨日、いや、一昨日の夜、俺が思い出しながら達した相手が、目の前でまっすぐ俺を見上げている。
“この唇で、名前を呼ばれたんだ”
“この指先が、机を挟んで、俺のペンを見ていた”
“この目が、俺を……信頼していた”
思い出してはいけない。
なのに、思い出してしまう。
今日は、カーディガンを制服の上に羽織っている。
そのせいか、鎖骨のラインが余計に目についた。
シャツの第一ボタンが、少し開いている。
……襟元なんか、普段気にしたことなかったのに。
それだけで、目のやり場がない。
「ここの計算、前回よりかなりスムーズに解けてるな」
平静を保ちながら、そう声をかける。
手元のノートを覗き込むと、律がまた少しだけ肩をすぼめた。
「……ありがとうございます。でも、先生の赤ペンが見えると、緊張するんです」
そう言って、律が笑う。
冗談のような口調。
けれど、その口元は控えめで、無防備だった。
その唇を、見てはいけない。
けれど、見てしまう。
「……俺の赤ペン、そんなに怖いか?」
「はい。すごく綺麗に書いてあるので、間違ってると余計に恥ずかしいんです」
何気ないやりとりなのに、律の言葉一つひとつが、妙に色気を孕んで聞こえる。
“すごく綺麗”
“恥ずかしい”
それは本来、学習指導の中でしか交わされない会話だ。
でも、俺の脳が勝手に変換してしまう。
俺は馬鹿だ。
この気持ちが、恋なのか欲なのか、もうわからない。
ただ、たしかなのは――
この生徒に、俺の「教師としての理性」は通用しない。
律がふと、ペンを落とした。
カラン、と音がして、机の下に転がる。
「あっ……」
律が椅子から半身を乗り出そうとしたのを、俺は反射的に止めた。
「俺が拾うよ」
かがんで手を伸ばし、ペンを拾いあげたそのとき――
律の膝が、俺の肩にふれて、ほんの少しだけ震えた。
その一瞬で、背筋に電気が走る。
俺の中のどこかが、また崩れた。
「……ありがとうございます」
「……あぁ」
短く、目を合わせた。
律は、なにも知らない。
俺の中で、どれだけのことが起きているか。
どれだけ、“触れてしまいたい”衝動と戦っているか。
だからこそ、苦しい。
こんなにも無垢な視線に、俺の理性は、もう限界が近い。