静かな衝撃
静かな午後だった。
講師控室にはコーヒーの香りと、少し遅れて届いた出席票の紙の音だけが漂っている。
「柿崎先生、今日からこの子お願いね。長篠くん、成績は優秀だから指導しやすいと思うわ」
受付の女性が手渡してくれたファイルには、丁寧な文字で記入された学習記録と、プリントされた証明写真が挟まれていた。
その写真を見た瞬間、なぜか、心臓がひとつ跳ねた。
── 綺麗な顔をしてる。
男か女か、一瞬分からない。だが、視線の奥にある静けさが妙に引っかかった。
整いすぎた顔立ち、白くて儚げな肌、まっすぐで曇りのない黒い瞳。
「……長篠律、ね」
心に妙なひっかかりを残したまま、その日の指導時間を迎えた。
個別ブースに入ると、そこにはすでに彼がいた。
制服のまま、背筋を伸ばしてノートを開いている。
「……失礼します。柿崎秋と申します。今日から担当させてもらいます」
声をかけると、彼がゆっくりと顔を上げた。
その目が、こちらを見つめた瞬間。
── 胸の奥が、ぞわりと揺れた。
「……あ、長篠律です。今日からよろしくお願いします、先生」
落ち着いた声。年相応とは思えない礼儀正しさ。
けれど、睫毛の影からのぞくその視線は、ほんの少しだけ怯えているようにも見えた。
「よろしく。成績、すごくいいって聞いてるよ。理系希望なんだよね?」
「はい。できれば、国立の理学部を目指していて……でも、物理が少し、苦手で……」
言葉を選びながら話す彼の様子が、どこかいじらしい。
思わず笑みがこぼれる。
「苦手なとこは、全部俺が埋めてやるよ」
言ってから、自分の言葉がどこか含みのあるように聞こえて、少し慌てた。
けれど律は、首をすこしだけ傾げて、
「……ありがとうございます」とだけ静かに笑った。
ああ、駄目だ。
これは、予感だ。
何度も人と関わってきた。
恋も、遊びも、誰かの心に踏み込むこともあった。
でも――
この子には、簡単に触れてはいけない気がする。
この“綺麗さ”に、きっと俺は、溺れていく
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問題演習が半分ほど終わった頃、律が小さく眉を寄せた。
「この公式、……あの、何度も見てるんですが、感覚的に理解できなくて……すみません」
すまなそうに差し出されたノートのページには、何度も書き直された式と、丁寧すぎるほどの計算が並んでいる。
──真面目すぎるんだよな、ほんと。
「大丈夫。むしろ、ここで質問してくれるの嬉しいよ」
そう言って、俺は自分のノートを広げ、律の座る机の脇に少し腰を寄せた。
個別ブースは狭い。
生徒との距離が物理的に近くなるのは日常茶飯事だ。
いつもなら気にも留めない。
けれど今日、隣に座った律の香りが、微かに鼻をかすめた。
──石鹸みたいな、やわらかい匂い。
その匂いだけで、喉がひとつ鳴ったのを自覚する。
近すぎる。こんな距離、まずい。
「ここね。たとえば……」
ペンを手に取って、律のノートの空白に式を書き足す。
指が、紙の上で滑る。
その隣、律の白くて細い指先が、ノートの端を軽く押さえていた。
ふと、その指先が、かすかに震えているのに気づく。
「……緊張してる?」
「……はい。すみません。先生にこうしてもらうの、まだ慣れなくて……」
俺のペンが止まる。
「別に怖いことしないけどな」
冗談めかして笑うと、律は一瞬、驚いたような顔をして、すぐ小さく笑った。
その笑顔が、あまりにも――綺麗で。
無意識のうちに、目を逸らせなくなっていた。
やばい、と思った。
顔が近すぎる。目が合ってしまう。
こんな距離で、そんな風に笑わないでくれ。俺の理性が持たない。
「……先生?」
「あ、いや、なんでもない」
ノートに視線を戻すふりをして、誤魔化す。
このままじゃ、何かが壊れてしまいそうだった。
律の肩越しに見える横顔が、やけに近い。
耳の形も、襟元の細い首筋も、見えてしまう。
知らない感情が、じわじわと胸に溜まっていく。
俺は今日、ただ教えるだけのはずだった。
でも今、この教室で、自分が何を教えたいのか、少しわからなくなっていた。