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エメラルド・サウンズは黎明に輝く  作者: 文月 薫
第一章 宵闇 ―― calmato
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第四話   迷走するブラスバンド Ⅱ

 憮然としている間に、自宅へ到着した。

 身だしなみを整えてこい、と絵理子達から命令され、俺は追い出されるように車を降りた。生活指導の教諭に強制送還された高校生のような気分だ。絵理子は本物の高校教師なのであながち間違いじゃない。間違っているのは三十歳近くにもなってそんな気分を味わっている俺である。

 無駄に敷地の広い一画に佇む俺の自宅は昭和初期に建築されたと伝え聞く古めかしい洋館で、住む者が俺一人になってからは廃墟一歩手前の様相を呈している。簡単に言えばお化け屋敷で、近隣ではちょっとした噂になっているし回覧板すら回ってこない。たまに送付されるのは固定資産税の納付書くらいである。いらない。

 と、玄関に近づく俺の目に信じられない光景が飛び込んできた。

 戸のドアノブが外れているのだ。そこには申し訳程度に黒いテープが貼ってあり、辛うじてドアが開かないようになっていた。外れたドアノブはポーチの隅に置かれている。

 そこで俺は、死にかけていた時の夢の中で最後に聞いた打撃音が、まさにこのドアをぶっ壊した音なのだったと気づいた。壊されたことも信じられないが、それよりも恐ろしいのは丸二日以上にわたって俺の自宅が誰でも入り放題だったという事実である。

「何をぼうっとしてんのー!」

 愕然としていると、背後に停車している絵理子の車から日向の声が飛んできた。

「いや、だってこれ……」

 振り返って泣きそうな顔をすると「こっちは路駐してるんだから早くしろ」みたいなことを言われた。路駐よりもよっぽど重大な犯罪が起きているかもしれないのに、本当に悪魔みたいな奴だ。

 仕方なくテープを剥がしてドアを開けると、広くて持て余すだけの玄関ホールが俺を出迎えた。真っ直ぐ二階へ上がり、屋内に変わった様子がないことを確認した俺はひとまず安堵して自室のクローゼットを開けた(言うまでもなく自室のドアノブも壊れていた)。今からどこへ連行されるか知らないが、あまりにもラフでなければ大丈夫だろう。何せ元がジャージなのだ。俺は適当に白いカッターシャツと黒いスキニーパンツを取り出して着替えを済ませた。そのまま洗面所で顔を洗って髭を剃る。ついでに寝癖も直す。そういえば鏡など久しく見ていなかった。病院ですらそうだったのだから、不審者扱いされても不思議ではない。多少こざっぱりしたが、指名手配犯のような人相の悪さと不健康極まりない表情はどうにもならなかった。さすがにこのままだと肌寒いので再びクローゼットを開け黒のモッズコートを羽織り、身につけた腕時計をちらりと確認すると車を出てから十分程度経過していた。彼女達を待たせるのは申し訳無いというか、後からどんな報復をされるかと思うと恐ろしいので、急いで階段を下りホールを抜け、玄関のドアのテープを貼り直す。このまま放置しておくのはあまりにも嫌だったのだが「屋内の各部屋には鍵が掛かっているから大丈夫」という、洗脳でもされているのかと思われそうなほど気休めにもならない論理を振りかざして玄関を後にする。肝心の自室だけがフリーパスなので、大丈夫でもなんでもない。

「……ひじきみたい」

 後部座席で俺を待っていた日向が、戻るなりそう評した。あんまりだ。

「黒いし細いし、本当に枝みたいな男だね」

 せっかく急いで支度を済ませて、ドアも放置してきたというのに結局ボロクソである。

「でもあのジャージを見た後ならどんな服もまともに見えるわよ。腐りかけの食べ物と比べればジャンクフードだってご馳走でしょ」

 救いようの無い比喩を用いた絵理子が、一刻も早く立ち去りたいとでも言うように車を発進させた。この女達はこちらが黙っているのを良いことに言いたい放題である。

「どちらにせよ体に悪いじゃん。それならこの人はジャンク人間だね」

 ゲラゲラ笑いながら、まともな頭をした者が考えつくとは思えない蔑称を開発したのは日向である。やっぱり教師の性根が歪んでいると生徒もおかしくなるんだな、と思った。腐った蜜柑という奴だ。

「で、どこに向かってるんだよ」

 これ以上の誹謗中傷を受ける前に、俺は話題を逸らす。

「高校だけど」

「今日部活休みなんだろ?」

「とりあえず向かっているだけだよ」

 結局、日向の意図はよくわからないままだ。それ以上の会話も無く、俺達はあっという間に母校の職員駐車場に到着した。絵理子は有給らしいが出勤している職員もそれなりにいるようで、駐車スペースは半分程度埋まっている。

「どう? 十年ぶりの母校は」

 絵理子が聞いてくるが、正直なところなんの感想も沸いて来なかった。校舎を覆う鮮やかな緑色の屋根も、まだ蕾が膨らんでいない街路の桜も当時と変わらないが、それらに懐かしさを感じることは無い。

 ――私立翡翠館(ひすいかん)高校。

 普通科、特進科、スポーツ科、美術科など多様な学科に分かれており、一学年は六クラス、二百人程度。創立から五十年以上が経過したこの学校は、俺が通学していた頃は不撓不屈(ふとうふくつ)と文武両道を理念とする軍隊のような学校だった。当然部活動にも力を注いでおり、かつて各部が軒並み全国大会に出場していたいわゆる黄金期には、付属中学を持たないこともあり一般入試の倍率が五倍を超えることも珍しくなかった。私立だが高所得世帯御用達という訳ではなく、各学年の四割ほどが特待生入学という驚異的な厚遇もあり、庶民的な学校に仕上がっていた。推薦入試では中学校で努力したことを記述する小論文と、高校入学後の目標を述べる面接があるのだが、この試験の難易度が割と高い。推薦があるからと言って合格が担保されている訳ではなかったし、少なくとも金を積めば入れるような学校とは言えない。俺の場合は複雑な家庭事情により温情で特待生に推薦されたが、小論文で記述することが無いという悲しい中学校生活を送ったため、一般入試を受けて通常の生徒として入学した。幸い父母から相続した資産がある程度残っていたので、授業料には困らなかった。自分で言うのもなんだが、私立である学校側からしたら、俺のような生徒は上玉であっただろう。

 その翡翠館高校黄金期の中では、吹奏楽部も間違いなく県内屈指の強豪であった。俺が入学した頃には既に、コンクールの支部大会の常連になっていた。本番用の漆黒の衣装と翡翠色のネクタイを身につけているだけで、他校の生徒に一目置かれているような気がしたものだ。

「じゃあ、ついて来て」

 俺が回想していると、車にロックを掛けた絵理子が駐車場の外に向かって歩いていく。

「学校の中に入るんじゃないのか?」

「ううん、駐車場を借りただけだよ」

 俺の質問には日向が答えた。どうやら目的地については、俺が自宅に寄っている間に二人で決めたらしい。そのまま学校の敷地に接する歩道をしばらく歩く。横断歩道を渡ってさらに二、三分進むと、住宅やアパートが建ち並ぶ路上で絵理子が足を止めた。

「ここ」

 彼女が指した建物は、一見すると普通の住居のような佇まいだ。両隣に比較的広々とした敷地を持つ家があるおかげで窮屈な印象を受ける。三階建ての外壁はコンクリート打ちっぱなしで、空間の隙間を縫って建てられた都会の雑居ビルのようだった。特に看板のようなものが無いため住居にも見えてしまうのだが、真っ白な大きめのドアの真ん中には、流れるような筆記体で「OPEN」と書かれた木製のプレートがぶら下がっている。なんらかの店なのだろう。

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