第七話 発露する不穏 Ⅰ
衣替えの時期がやってきた。替えるほどの衣装を所有していない俺には無関係な風習だが、生徒達は六月に入ると同時に夏服の着用を始めるのが慣例だ。すれ違う生徒の涼しげな装いは、じめじめした校内に一定の爽やかさをもたらしている。
「何を呑気な顔してんの? もう六月なんだよ?」
風流もわびさびも無いことを言うのは日向だ。
「風流? それなら出家でもしたら? どうせ無職なんだし」
身も蓋も無いことを言うのは絵理子である。二人の息がぴったりなので無性に腹が立つ。
「六月になったことなんて、わかってるに決まってんだろ。息を吐く間も無いのかよ」
「あんた、日中は超フリーじゃん」
「そうね。みんなはちゃんと授業を受けているのに」
「『秋村を貶しながらじゃないと会話が続かないゲーム』がまた始まったよ」
慣れたとはいえ、二人がかりなのが凶悪だ。とくに絵理子なんて、サシでも身に余るのに。
下らない会話をしている分、緊張感という意味ではたいして切迫していないようにも見える。ただ、合同演奏会が目前に迫っていることもあり、当然ながら穏やかな雰囲気が漂うはずもない。
俺は絵理子に呼び出されて第三職員室を訪れていた。いまだに彼女の顔を見ると楓花の件を思い出して死にたくなるが、その楓花が日向を通して俺を頼ったことを、何度も自分自身に言い聞かせることで正気を保っている。
「で、用件は?」
「ああ、そうそう」
本気で俺を貶すためだけに呼び出したのかと見紛うほど、絵理子は思い出したかのように一枚のプリントを取り出した。
「なんだこれ」
「来週に予定されている補習のスケジュール」
「……補習?」
久しぶりにそのワードを耳にしたが、いつ聞いてもあまり気分の良いものではない。
「この前あった中間試験の結果を踏まえて開かれることになったの」
「へえ?」
絵理子の説明を聞き流しながら、俺はなんとなくプリントへ視線を落とす。それぞれの学年の欄に十人程度の名前が記載されているが、一、二年生の中には俺の知る者はいない。
「――げえ!?」
つい、とんでもない奇声を上げてしまった。
「お、おい……。お前これ、いつもの悪い冗談だよな?」
突きつけられた現実を受け入れたくない俺は、縋るように絵理子を見つめる。
「前から言ってるけど、冗談なのはあなたの存在よ?」
血も涙も、慈悲も思い遣りも何一つとして無い言葉が返ってくる。
「それ、残念ながら学校が作った公式文書だから」
「なんでそんな残念じゃなさそうに言うんだよ!?」
俺が発狂したのは、メンバーの中に吹奏楽部の部員が紛れ込んでいるからである。
「いや、そんなスパイみたいなものじゃないでしょ。どちらかというと指名手配ね。あなたと一緒」
「一緒じゃねえよ!!」
ただでさえ忌むべきこの書類の内容の酷さに拍車を掛けるのは、そこに列挙されたメンバーである。
「南玲香、江坂優一、村崎淑乃、辺見璃奈、若狭芽衣、露崎紅葉……」
「ロイヤルストレートフラッシュね」
「ふざけんな!!」
俺は勢い余って絵理子にプリントを投げつける。補習を受けるのは、よりにもよって俺と一緒に自由曲の選考会を行った幹部連中なのだ。「犯罪組織が一網打尽」みたいな表現をされてもまるで違和感が無い。というかこいつは先ほど「みんなはちゃんと授業を受けている」とか言っていなかったか。いったいどこがだ。いい加減にしろ。
「あの子達、自分には音楽しかないって言ってたでしょう? つまりこういうことよ」
「言ってることはわかるけど、お前が得意気になるのはマジで殺意しか沸かないからやめろ」
まるでいつもと立場が逆である。
「はあ……。まあ、幸いこれを見ると一部の教科だけって奴もいるみたいだが……」
補習は来週の各平日の放課後に開かれる。文武両道を是とする汐田校長のことを踏まえても、ここに記載された面々は部活の練習を返上して出席せざるを得ない。休日に開かれないだけマシだ。
そんなことを考えていたら、珍しく眉間に皺を寄せた日向が「困ったね……」と呟いた。
「ああ。そういえばここって、学校なんだよな……」
「そんなどうでもいいことを言ってるんじゃないよ」
俺の言葉に、日向は心底呆れた口調で応じる。
「まだわからないの? 来週なんだよ?」
そこまで言われて、ショックのあまり思考から消失していた事実にようやく気がつく。
「合同演奏会じゃねえか……」
俺は頭を抱えた。本番直前だというのに、全員揃って練習ができないのだ。マシなことなど一つも無かった。むしろ、演奏会当日の土曜日も補習が組まれていたらと思うと、恐怖でしかない。
吹奏楽部の現状を踏まえると、なおさら厄介である。
先日の商店街のイベントから二週間程度経つが、どうにか俺自身もしっかり練習に向き合うことができているし、一番の懸念であった淑乃も練習をないがしろにするような奴ではないので、今のところ問題は起きていない。董弥に関しては、良い意味でバンドに影響を与えている。完全に一年生のリーダーとなっている彼のおかげで、部内のコミュニケーションも円滑だ。
美月も相変わらず外交力は高いので、今では二年生も完全に集団へ溶け込んでいる。
技術を三年生が、そしてメンタルを下級生が支えているこの状態は、絶妙に噛み合っていると言っても良い。もちろん、日々の練習も充実している。
そういった状況だからこそ、順調な吹奏楽部に水を差す今回の一件から、その絶妙なバランスさえも壊しかねない不穏さを感じ取ってしまう。
「――もう合奏の時間か。こんなのどうやってみんなに伝えればいいんだよ……」
さすがに補習の対象者を全員の前で晒し者にするのは可哀想だが、後輩達の手前、理由も言わずに練習を休ませる訳にもいかない。どうしてこんなことで気を遣わなければならないのだ。
「あ、そうだ。合同演奏会の出演順が決まったわよ」
絵理子が急に話題を変える。教師の立場からアドバイスをくれるとか、そういったことは全く無いらしい。
「どのあたりだ?」
「午後の部の一番目」
「……え?」
合同演奏会は、午前が中学、午後が高校とそれぞれ分かれている。つまり午後の一番目ということは……。
「トップバッターじゃねえか!!」
「そうね」
「どうやって決めたんだ?」
「くじびき」
「引いたのは?」
「私」
「はあああああああ」
幸の薄い女だとは思っていたが、本当にツキがない。我が校の吹奏楽部は、コンサートホールのステージには久しく立っていないのだ。プレッシャーのかかる一番目は、最も避けたかった。
「それと……」
珍しく責任を感じているのか、絵理子が口ごもった。まだ何かあるというのか。
「私達の次が、躑躅学園なの」
またずいぶんと懐かしい学校名だ。
「それがどうした?」
躑躅学園も、翡翠館と同じ私立高校である。いわゆるマンモス校という奴で、生徒数などは翡翠館を大きく上回る。運動部については県外の選手を推薦で集めていることもあり、昔からどの競技も強豪だ。
ただ、少なくとも俺が現役の頃は、吹奏楽部はそう目立った存在ではなかった。
「あそこは去年初めてコンクールの支部大会に出たのよ」
「えっ」
なるほど、十年もあれば勢力図が変わっても不思議ではない。問題なのは、そんな団体の前に演奏をしなければならないということだ。何度も言うように合同演奏会は「前哨戦」である。いくら我が部も成長しているとはいえ、最初から注目されている学校が舞台袖に控える横で演奏するなど、必要以上のストレスだ。
「つくづく運が無いな」
俺は肩を竦めて部屋の外へ向かう。
「ちょっと待って。躑躅学園は――」
絵理子が俺を呼び止めた瞬間、内線のコールが室内に響いた。
「あ……」
何か言いたげな絵理子であったが、電話を無視することもできず受話器を取る。
「……時間やばいんじゃない?」
近くに寄ってきた日向に促された。一度音楽準備室に行ってから講堂に向かうことを踏まえると、たしかにギリギリである。
絵理子の電話は、なかなか終わらない。
彼女の様子が気になったものの、俺は仕方無く部屋を後にした。だが、俺に敵意を抱いているはずの絵理子が心配そうな眼差しを向けていたことに、なんとなく胸騒ぎを覚えたのだった。




