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エメラルド・サウンズは黎明に輝く  作者: 文月 薫
第三章 月虹 ―― con brio
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第六話   生煮えの心 Ⅱ

 商店街のイベントは予報通り好天に恵まれ、万事滞りなく完遂することができた。たっぷりと睡眠を取った俺のメンタルも、万全とは言えないが回復した。日向に本気で頼られたことは、俺自身が思う以上に嬉しかったのかもしれない。

 学校に帰った俺は、束の間の休息を取るため音楽準備室に立ち寄った。しばらくすると、部員達も続々と学校に戻ってくる。演奏会とはいえ小規模のステージであったため、今日はこの後も合奏練習が控えている。

「――具合が良くなったようで安心しました」

 セリフとは裏腹に無機質な声を発したのは、俺のもとを訪れた部長の玲香である。

「……すまないな。心配を掛けて」

「心配じゃなくて、迷惑です」

 せっかく回復傾向のメンタルを根元からへし折ろうとする玲香には、もはや敬意すら覚える。

「この後は、予定通り自由曲の合奏でいいですか?」

「ああ。大丈夫だ」

「わかりました」

 高校によってはコンクール前に定期演奏会を開くところもあるが、翡翠館高校が秋に開催するという点は、少なくとも今年に限って言えば有利であると言えた。もしこのタイミングで定期演奏会をやるとなれば、百パーセントの力で仕上げなければならない楽曲の数が全く違ってくる。

 そういう意味では、コンクールまで課題曲と自由曲のみに注力できることの意義はことさら大きい。今日のような舞台で披露する楽曲を、初見でも演奏できるくらいの難易度にしているのも、奏者の負担を増やさないためである。

「『メリー・ウィドウ』はどうするんですか?」

「……」

 完全に現実逃避していた事実を、玲香はすぐに暴いた。俺の心の中の話とはいえ、セロハンテープを剥がすくらいあっさり封印が解かれたので、虚無感に襲われる。

「合同演奏会まで、一ヶ月を切りましたけど」

「……わかってる」

「いっそのこと、もう腹を括って合同演奏会も『幻想』にした方がいいんじゃないですか?」

 玲香の言葉を聞いて、俺は無意識に拳を握りしめた。彼女がここへやって来た趣旨は、おそらくこの提案をすることだったのだろう。奏者にプログラム変更を打診される指揮者など、お話にならない。

「心配させてすまな――」

「いや、ですから心配ではなく迷惑です」

「……もう大丈夫だ。責任持って『メリー・ウィドウ』もやるよ」

「そうですか」

 あくまで淡々と言葉を紡ぐ玲香は、棚に置かれたメトロノームを掴んで扉へ向かう。

「秋村さんが、『俺を信じろ』って言ったんですよ。しっかりしてください」

 去り際にそう言い残され、俺は一人ぽつんと室内に立ちすくんだ。

 玲香は俺に発破をかけようとしたのではない。彼女達は「音楽しかない」から俺を頼ったのだ。それなのに俺がまともに音楽をできなければ、それはもう存在価値の消失を意味する。俺は用済みということだ。

「――何をぼうっとしてんの?」

 玲香が開け放していった扉の向こうには、俺に不審な目を向ける淑乃が立っていた。

「いや、なんでもない。さっきはお疲れ様」

「……」

 咄嗟に労いの言葉を掛けたが、彼女は返事もせず視線を逸らす。

 今日の淑乃は、奏者の中で最も表情が硬かった。それは音にも表れていたのだが、本人にも自覚があるのだろう。

 新入生が入った後も、部員達は定期的に昔の音源を聞いている。それは俺が口酸っぱく「イメージが大事」だと言い続けているからであるし、かつての音色を復活させたいと思う部員にとっては、まさに目指すべきものだからだ。演奏だけでなく拍手や歓声まで録音されているため、より憧れの気持ちも強くなる。俺が勝手に迷走しているのとは真逆で、部員達は日に日に成長している。

 だからこそ今日の演奏会も成功したし、わざわざ玲香が俺へ釘を刺しに来たのだろう。

 だが、部員の中で唯一、出会ったばかりの頃とたいして顔つきが変わらないのが淑乃である。

「どうした? 何かあったのか?」

「……別に」

 室内に入った淑乃は、そのままトランペットパートの棚へ向かう。

 ふと、俺は先日の董弥との話を思い出した。

「なあ、やっぱりお前は『メリー・ウィドウ』をやりたくないのか?」

 そう尋ねた瞬間、淑乃の挙動がピタリと止まる。

「楽曲に罪が無いとはいえ、奏者が精神的な負担を抱えるレベルなら、こちらもいろいろ考える必要があるんだが」

 たった一人でも音楽に集中できない奏者がいれば、途端にバンドは纏まりを欠く。むしろ、一人だからこそ浮くのだ。

「考える、って何……?」

 ゆっくりとこちらに顔を向けた淑乃の目は、真っ暗に淀んでいる。

「私を外すってこと? もう来なくていいって意味?」

 想定外の言葉に、俺はみっともなく狼狽えた。

「違う違う! 曲を変えるかどうかってことだよ!」

「でも、前に生徒指揮者を辞めてもらうって言ったこともあるじゃん」

 自由曲の選曲の時か。

「本気な訳無いだろ」

 軽い口調で返したが、淑乃の目は暗いままだ。

「……楽曲の変更なんて、今さらもう無理でしょ。私一人のために払う代償が大き過ぎるもん」

「お前一人がいなくなるっていう代償は、それ以上に大きいんだが」

 俺がそう窘めると、淑乃は一瞬驚いた表情を浮かべて俯いた。

「新歓演奏会の時は、あんなに楽しそうだったじゃないか」

 萌波との『宝島』のセッションは、今でも鮮明に覚えている。普段は刺々しい奴だが、やっぱりただ純粋に音楽が好きな女の子なのだと、その時は思ったのだが。

「もしかして、弟か?」

 黙ったままの彼女に質問すると、びくっと肩が震える。

「……実はこの間、董弥と話したんだ」

「えっ」

「お前の家の事情も聞いた。いろいろ大変だな」

「そんな……!」

 何か言いかけた淑乃だが、俺の生い立ちの方がひどいと思ったのか、口を噤んだ。姉弟揃って、変なところで律儀な奴らだ。

「もし何かやりづらいことがあるなら、俺から董弥に言おうか?」

「……そんなことしなくていい」

「でも――」

「いいから!」

「どう見ても良くないんだが……」

 俺は、ついため息を吐いた。

「ねえ、あいつのレベルって、どう思う?」

 藪から棒に淑乃から尋ねられる。

「董弥のことか? 正直、なんでうちに入ってくれたんだって思うほど上手だと思うけど」

「……そう」

 生徒指揮者をやりたいと言った董弥も、そう申し出るだけのレベルではあった。それ自体は今の吹奏楽部にとって願ってもないことなのだが、ただでさえ脆弱な部内の人間関係を考慮すると、新入生とは思えぬカリスマ性を持つことは諸刃の剣でもある。

「あいつは、我こそがこのバンドを変えるんだっていう思いでここに入学したんだよ」

「……なんだって?」

 淑乃は、いきなりとんでもないことを言い始めた。

「翡翠館は、腐っても名門なんだよ。あいつは『自分が立て直した』っていう功績が欲しいんだ」

「でも、俺らがいた頃の演奏なんて、董弥は知らないだろ?」

 全盛期の翡翠館高校の演奏を実際に聞いた淑乃ですら、それは小学校低学年の記憶だ。

「そんなの関係無い。とにかく、めちゃくちゃになった組織をなんとかすることが好きなの」

「なんでそんな、コンサルみたいなポジションなんだよ」

「実際、あいつは中学校の吹奏楽部も立て直してる。転校生だから、部活に最初から関わっていた訳じゃないのにね」

「は?」

「うちの事情、聞いたんでしょ? もともとあいつはここら辺の人間じゃない。両親の再婚をきっかけにこっちへ引っ越してきたの」

 ということは、淑乃と董弥は姉弟になってまだ日が浅い。道理で他人行儀な訳だ。

「董弥の父親は、ベンチャー企業の社長なの。子は親に似るんだね」

 まるで余所の家族のことを眺めるようにそう言った淑乃は、珍しく自らが饒舌になっていることに気づいたのか、わざとらしく咳払いをした。

「と、とにかく! あいつが何か言ってきても受け流して。中学の時は、最終的に顧問よりも偉くなっちゃったんだから。あんただって油断していると後ろから刺されるよ」

「その喩えはいろいろと問題じゃないか?」

「喩え? ああ、そういえば本当に刺されちゃったんだっけ」

 悪びれる様子もない彼女を見て、やはり人間の情というものが欠落しているのだと実感する。

「……話を戻すが、『メリー・ウィドウ』を来月に演奏するのは決定事項だ。思うところはあるかもしれないが、割り切ってしっかり取り組んで欲しい」

 曲名を聞いた途端、淑乃は普段の不機嫌な顔に戻る。

「……わかった」

 苦渋の決断を下したような悲愴感を漂わせながら、淑乃は部屋を出ていった。

 ――董弥の件を聞いた俺は、同じく自らの力で吹奏楽部をなんとかしようと画策した美月のことを思い出した。ただ、彼女の場合は校長である父親の後ろ盾を利用しようと思っていたに過ぎない。リーダーシップを発揮していたと言っても、技術が伴っていなかった。

 でも董弥は違う。おそらく彼のレベルなら、他校からスカウトが来ていたとしてもおかしくない。満を持して翡翠館に入学してきたのであれば、吹奏楽部で生徒指揮者をやりたいという言葉も本気なのだろう。そもそも、彼にとって俺という存在は想定外の事象であり、ともすれば彼の進路を妨害する障壁だと思われている可能性すらある。

 俺の背中を冷や汗が伝った。

 ここ数日の俺は、敵に背を向けているとわからないまま右往左往する兵士と同じだった。淑乃の言葉は現実的な警告でもあったのだ。もちろん董弥を「敵」と喩えるのは相応しくないが、まだまだ組織として脆い吹奏楽部は、些細なことで簡単に崩壊するだろう。

 日向や絵理子に向かって宣言した「責任は取る」という言葉が、どんどん重みを増していく。

 責任などという熟語とは正反対の場所にいながら、軽々しくその言葉を口にした無職を戒めるように。

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