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エメラルド・サウンズは黎明に輝く  作者: 文月 薫
第一章 宵闇 ―― calmato
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第四話   迷走するブラスバンド Ⅰ

 すっかり病室で話し込んでいた俺は、大切なことを忘れていた。

 退院の手続きである。

 楓花の部屋の前で挙動不審にしていたところを目撃されていたので、俺は巡回中の看護師にすぐ発見された。この言い方ではまるで俺が行方不明のペットか何かだが、実際俺の病室がある階のナースステーションはちょっとした騒ぎになっていたらしい。

「あなたって昔から人に迷惑を掛ける天才よね」

 ゴミ収集所を荒らすカラスを見るような目で悪態を吐いたのは、言うまでもなく絵理子である。

「今日は不可抗力だろ。日向に呼ばれたんだから」

「そもそも入院している時点で迷惑を掛けているって自覚が無いの? これだから無職は……」

 呆れ返っている彼女に何を言っても溝が深まるばかりだし、絵理子の言葉が一般大衆の総意と受け取れるくらい俺がクズなのは疑いようもない事実なので反論はしない。

 平日の昼時ではあるがロビーはかなり混雑していた。今時の病院というのは空いている時間などほとんど無いのであろう。そんな中で退院する予定の患者が失踪しようものなら、俺が医師や看護師だったら発狂するに違いない。が、俺を発見した看護師は心底安堵しているようだった。俺の持ち合わせている心の広さが、通り雨の後の水たまり程度しかないのに比べて、彼女達は琵琶湖くらいのキャパシティがあるのだろう。

「ちっ。なんで私まで付き合わされてるのよ」

「ごめんなさい」

 お前はビニールプール並みだな、とは口が裂けても言えない。

「謝るくらいなら存在を消してよ」

 清々しいまでに嫌われていて、もはや悲しみの感情も失せた。

「お前さっきの日向の話、ちゃんと聞いてた?」

「聞いてたからイライラしてるのよ!」

「はいはい、すいませんね」

 精算に時間がかかっているらしく、絵理子は余計にフラストレーションが溜まっていた。ちなみに日向は絵理子の隣で居眠りをしている。その姿はやはり俺と絵理子にしか認知できないようだ。

「そういえば、どうして俺が無職って知ってるんだ?」

 なんとなく気になったので聞いてみる。

「あなたが社会生活に適合できるとは思えないから」

 容赦の欠片も無い。

「お前とはしばらく会ってないのに、なんで断言できるんだよ」

「高校時代からそういう評価だったから。あと、まともな社会人は栄養失調にならないから」

「わかった。お前には人の心が無いんだな。だからそんな酷いことが言えるんだ」

 ビニールプールとかそういう次元ではなかった。こいつは砂漠のような女だ。教師になってから何があったか知らないが、彼女の心はもう乾燥しきってなんの潤いも無いのだ。先ほど絵理子は自らのことを無能と言っていた。何も知らない俺は今のところそれを肯定するつもりは無いけれど、こう機械的な態度を取られては生徒も萎縮するだろう。無論、俺が憎悪の対象ということを踏まえた上での話だ。

「のうのうと一人で勝手に生きてきたあなたに何がわかるの?」

 絵理子の瞳には殺意しか映っていない。ちらっと彼女の隣に置いてあるハンドバッグを見ると、楓花の病室で使った果物ナイフの柄が飛び出ていた。どうして絵理子がそのまま所持しているのか考えるのも恐ろしい。銃刀法違反の現行犯で告発したい。が、これ以上刺激したら文字通り刀傷沙汰になる。今の絵理子なら、ケガしても病院だからなんとかなるでしょう、くらいのことを平気で言いそうである。教師のくせに医療従事者を冒涜するのはやめて欲しい。

 それから数分後、ようやく全ての手続きが終わった。もともと救急搬送されているため、俺は極端に荷物が少なく格好も身軽だ。

「あなた、よくそんな姿で外に出られるわね」

「別に、何の問題も無いと思うけど」

 死にかけてベッドにいた時の姿で入院してしまったため、もちろん帰りも同じ格好だ。

「いや、なんでうちの学校のジャージなのよ!」

「部屋着だから」

「隣にいる私の身にもなってくれない!? ずっと周りから変な目で見られていたんだから!」

 それでイライラしていたのか。とはいえ俺の母校のジャージは学校特有の派手な色ではないし、目立ち過ぎる名字の刺繍なども入っていない。シンプルな黒色で、野外で運動する際に着ていてもほとんど違和感がないレベルで洒落(しゃれ)ていると思う。

「何ふざけたこと言ってるのよ! ジャージの時点で論外よ!」

「うるさいなあ。そんなに一緒にいたくないなら帰れば良かったじゃないか」

「じゃあもう帰る!」

「ダメです」

 ふらふらと俺達の後ろをついてきた日向が突然会話に割り込んできた。

「まだ、なんにも話せてないよね? 逃げるなら呪うから」

 日向はにこにこしながら俺達に釘を刺したが、セリフの内容はちっとも楽しくない。日向からすれば、姉の敵である死にたがり男と、情緒不安定のヒステリー女に吹奏楽部の命運を託すなんて、こんな絶望的なシチュエーションは無い。しかも絵理子は、この世全ての悪のように俺のことを憎んでいる。それにも関わらず絵理子が俺を頼らざるを得ない状況であることが、より一層悲愴感を引き立てていた。俺が日向の立場なら笑顔など出る余裕は皆無だが、底抜けの前向き思考は姉譲りのようだ。

「お前は気楽でいいな」

「は? あんた本当に無神経だよね。あたしだって本当は泣きたいよ」

「私も泣きたいわよ!」

「俺は死にたいんだけど」

 信じられないかもしれないが、一番元気にしているのが高校生で、残った二人は三十路手前だ。成長とか進化といった言葉とは正反対の残念な大人達がエントランスから駐車場に向かってとぼとぼと歩く様は、市中引き回しをされている罪人に見える。

「……とりあえず、乗って」

 (シラ)けた空気を振り払うように、絵理子は車の鍵を開けた。黒色の軽自動車だが、最近の天候が芳しくないせいかボディの汚れが目立つ。車内にはあまり物が置かれておらず特筆すべき点も無い。絵理子からすれば車は単なる移動手段でしかないようだ。エンジンがかかると、嵌め込まれたオーディオディスプレイが起動した。一瞬の間が空いてから車内に軽快なマーチが流れ始める。さすが吹奏楽部の顧問の所有する車だ。俺と日向は揃って後部座席に乗った。

「で、どうするの?」

 運転席の絵理子が質問を飛ばす。

「そういえばお前、仕事中じゃないのか?」

「春休み中だから授業無いし、今日は有給取った」

「じゃあなんでスーツ着てるんだよ」

「楓花に会うなら、ちゃんとしないとって思っただけよ」

 その返答に俺は少し違和感を覚えたが、正体はわからずすぐに霧散する。

「部活は?」

「オフ」

 それなら学校に行く意味などあるのだろうか。

「じゃあ今日は解散ってことで」

 早々に話を纏めようとすると、隣に座る日向が俺の手をつねった。

「痛えな!」

「あんたバカなの? いきなり学校に行ったって通報されておしまいじゃん。さっきのジャージの話の時は触れないであげたけど、あんた見た目が完全にアウトなの。看護師さん達があんたのことを陰でリアル不審者って言ってたの知らないの?」

「知る訳ねえし、知りたくなかったよ!」

 心の広さが琵琶湖とか言っていた自分を湖底に沈めてやりたい。

「絵理子先生、とりあえずこの人の家に行ってもらえる?」

 日向の要望に、絵理子はため息だけを返してシフトレバーを下げた。俺の自宅は病院や学校から半径三キロ圏内にあるので近いことは近いのだが、絵理子が俺の家を知っているのだろうか。ナビをしようか考えていると、彼女はすいすいと最短ルートを走行していく。

「お前、俺の家がわかるのか?」

 何気なく質問すると、ミラーに反射した鋭利な視線が俺を貫く。

「そりゃわかるわよ。あんな不気味な家」

 どうして睨みつけられながらそんなひどいことを言われなければならないんだ。

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