第三話 無職と亡霊とサイコパス Ⅲ
………この女はいきなり何を言い出すのだろう。
「なるほど、わかったぞ。お前らグルになって俺を驚かせようとしてるんだろ。悪趣味な奴らだな」
張り詰めた空気に耐えきれず軽口を叩いたが、一向に返事が無い。絵理子は泣きそうな顔をしているし、対照的に日向はにこにこ微笑んでいる。俺の頭をおかしくさせたいとしか思えない光景である。
「おい、なんとか言えよ。いよいよ発狂しそうなんだけど」
「ねえ、あんたさ」
ふいに日向が口を開く。
「この病室に来るまでに、何か変わったことあったよね?」
「は?」
また突拍子も無いことを、と思いつつ俺は記憶を辿る。しかし変わったことと言われても、あからさまでなければ俺が気づく可能性は限りなく低い。対人経験が少ない俺に、洞察力が備わっているはずが無い。
「精神科って何階だっけ」
見かねた日向が答えを言った。そういえばそんな一幕があったことを思い出す。
「どうして精神科なんだろうね?」
「何がおかしい?」
「可憐な少女を怒鳴りつけるおじさんがいたら、普通は警備員とかナースステーションに通報でしょ? あんたが精神科に行くのは最優先じゃない」
「自分のことを可憐とか言うおめでたい奴も精神科に行けばいいんじゃないか」
「ふん!」
「痛えな!」
またスリッパが飛んできた。
「あんたと先生以外には見えてないんだよ。あんたはエレベーターの中で、虚空に向かって暴言を吐くヤバいおじさんだったって訳」
たしかにそう言われてみると、廊下ですれ違う人達にも不思議そうな視線を向けられた。それに、この病室に入るのを躊躇っていた際に声を掛けてきた看護師も、日向の方には目が行っていなかった気がする。また、俺を診察した医師から「救急車を呼んだ方はどこへ行かれたんですか? ご家族ではないのですか?」と言われたことを思い出した。その時は俺も日向の素性を知らなかったので曖昧な返事で誤魔化したのだが、救急隊員からすれば何者かの通報を受けてレスキューに向かったのに、死にかけの患者しかいないのだから不思議な状況だっただろう。もっとも日向の正体がこの世ならざる者だとしたら、いずれにせよ説明できないのだが。
「……絵理子、本当なのか」
黙ったままの絵理子に問い掛けると、彼女は力なく頷く。
「去年の秋だった。定期演奏会の練習をした帰り道で、トラックに撥ねられたの。私が病院に到着した頃には、もう……」
「トラックって、マジかよ……」
「そう。姉妹揃って、ね」
日向が自嘲気味に言った。楓花の交通事故の相手もトラックなのだ。
あまりのことに理解が追いつかず呆然としている情けない大人二人を困ったように眺めながら、日向は先ほど絵理子が停止したコンポに手を伸ばした。再びピアノの音色が流れ始める。
「それ、せっかくカットしたんだから食べなよ」
日向が唐突に言った。不格好に切られた林檎の存在を、俺はすっかり忘れていた。とても食欲など湧かないけれど、まともな思考も働かない俺は言われるがままフォークに林檎を突き刺して口へ放り込んだ。とっくにシーズンは終わっているのでまるで歯応えが無いし味も薄い。林檎風味の発砲スチロールを食べている気分である。ただ、その食感は紛れもなく現実のもので、食べることを促した日向はこの世ならざる者であるという不自然さが余計に際立った。
「絵理子も食べるか?」
皿を差し出したが、絵理子は俯いたまま全く反応しない。俺は大きくため息を吐いて、もう一度日向に向き直る。
「で、何が目的なんだ?」
口の中のザラザラとした林檎の残滓が、少しだけ俺の思考をまともにさせた。彼女の素性がわかったなら、次は俺に何をさせたいかだ。
「あんたには、絵理子先生と吹奏楽部を救って欲しいんだ」
「は?」
日向は相変わらず意味がわからないことばかり言う。
「絵理子先生」
「……何?」
俺のことは完全無視したくせに、絵理子は日向の呼び掛けに応じた。
「どうして今日、ここに来たの?」
「どうしても何も、お前が呼んだんじゃないのか?」
「さっきの絵理子先生の驚きぶりを見てもそう思うなら、あんた思考回路が断線してるんじゃない?」
つまりバカと言いたいのだろうが、言い草があんまりだ。絵理子が来ることを知っていたのだから、当然用件についても関知していると考えるのが自然だ。それとも、関知していながら敢えて絵理子の口から言わせたいのだろうか。
「あなた、知っているんじゃないの?」
絵理子も俺と同じことを思ったらしく、日向に問い掛ける。
「当事者の先生から言ってもらった方が、この人も理解できるでしょ」
日向は絵理子の質問を誤魔化しつつ、俺のことを指しながら答えた。今の絵理子の身に良からぬ事態が発生しているのは明らかだが、そんな状況で突然俺と日向が現れたのだから、彼女は相当動揺しているに違いない。それにも関わらず何があったか自白させようというのだから、この小娘はなかなかのサディストである。
「……楓花には報告しなきゃと思って」
ぼそりと絵理子が呟いた。
「報告って?」
日向が続きを促すと、絵理子は観念したように顔を上げる。
「私のせいで、吹奏楽部が無くなるの。今日はそれを言いに来た」
「無くなる……?」
ピアノの調べが悠長に室内を漂う中、俺はただただ困惑していた。どうやら絵理子が吹奏楽部に関わっているようだ、ということ以外は依然として謎のままである。
「日向、ちょっと聞きたいんだけど」
俺のことなど視界に入っていないように絵理子が尋ねる。
「さっき、私と吹奏部を救って欲しいって言った?」
「言ったね」
「この男に?」
「うん」
「ここに恭洋を呼んだのもあなた?」
「そうだよ」
笑みを浮かべる日向と、苦々しい顔をする絵理子。
「なるほど。まあ、そうでもなければこのろくでなしがここに来る訳無いし、栄養失調になったらそのまま死んでいるわね。私としては永遠に眠ってくれてもいいのだけれど」
俺は絵理子の言葉を聞いて、今度死のうとする時はダイイングメッセージにこの女の名前を遺しておこうと心に誓った。
「こいつに頼むことなんて何も無いわ。顔も見たくない」
散々な言いようである。
「まあまあ。先生の気持ちもわかるけど、ここは少し冷静になってもらえない?」
「私は最初から冷静だけど」
「冷静な奴はいきなりビンタしないだろ」
俺が指摘しても当然無視される。
「で、なんでこいつが騒いでいるのかしら?」
「騒いでいたのはお前なんだよ」
無視される。
「先生、あたしだってこんな死に損ないに頼るのは不本意だけどさ。もうそれしかないんだよ」
「なあ、お前らは俺を罵りながらじゃないと会話が成立しないのか?」
俺の苦言は、今度は無視されなかったが、あろうことか絵理子はサイドテーブルの上にある果物ナイフを掴んで刃先をこちらへ向けた。どこをどう見れば冷静なのだろうか。
「あなたは黙ってなさい」
「お前そんなにバイオレンスなキャラだったっけ」
俺の呟きは再び無視された。取りつく島も無い。久しぶりに会ったかつての同級生を前にして、どうして強盗に遭遇したような気分を味わっているのだろう。むかついたので手元の林檎にフォークを突き刺す。
「そもそも、どうして先生のせいなの?」
俺達のやり取りを冷ややかに見ていた日向が話を戻した。
「私が無能だから」
「……もう手遅れ?」
「一応、今度三年生に上がる子達が引退するまでは今のままだけど、そのタイミングで無くなると思う」
絵理子は淡々と日向の質問に答えていく。しばらく会ってないとはいえ少なからず絵理子のことを知っている俺としては、彼女が無能とは到底思えないのだが、擁護をしても殺意を向けられそうなので黙っておくことにする。
絵理子が高校時代に副部長を務めていたのは責任感の強さや信頼の厚さを買われてのことだし、実際彼女は縁の下の力持ちの役割を十分過ぎるほど果たしていた。楓花は天真爛漫な愛される存在で、カリスマ的なリーダーシップを発揮するモチベーターの役割を担っていたため、好対照なツートップであった。楓花が太陽なら絵理子は月である。だからこそ、絵理子が教師になったことも顧問に就いたらしいこともなんら驚くべきことではないし、その職責を全うできるだけのポテンシャルはあるはずだ。
「あたしは絵理子先生が無能なんて思わないよ」
「フォローしてくれてありがとう。でも、紛れも無い事実だから流してくれた方が嬉しいんだけど」
絵理子は目を逸らして俯いた。
「無能ならそもそも顧問に抜擢されないよ。それに、あたしだって実際先生の下で部活をやってきたんだから、お世辞を言ってるつもりも無いし」
なんとなく察していたが、やはり絵理子は吹奏楽部の顧問になったようだ。ずいぶん出世したなと思う反面、今の状況だけ見ているとよっぽど日向の方が教師に見えてくるので複雑な気持ちになる。
「……まあ、絵理子先生に弱点があるとすれば」
フォローを続けていた日向が、言いづらそうに絵理子から視線を外す。ヒステリックでバイオレンスな性格のことだろうか。
「指揮が振れないよね」
俺の的外れな考えをよそに、日向はショッキングな事実を告発した。何も言い返さない絵理子の様子から、その指摘が間違いでないことは明白であった。
「つまり」
日向は置いてけぼりにされていた俺を真っ直ぐ見据える。
「絵理子先生には、というか、今の吹奏楽部には指揮者が必要なの。あんた、元生徒指揮者でしょ」
日向が言わんとしていることが徐々にはっきりしてくると、俺の背中には冷や汗が伝い始める。
「だから何が言いたいんだよ」
「あんたが指揮者になって、吹奏楽部を復活させるんだよ」
「……は?」
林檎が刺さったままのフォークが、俺の手から滑り落ちて乾いた音を鳴らした。