第三話 無職と亡霊とサイコパス Ⅱ
「はい、これ」
と、差し出した手のひらに何かが乗せられた。なんとも言えない重さのその物体を握ると、表面はすべすべでひんやりしていて、球体に近い物だということが認識できた。てっきり刺し殺されるだけだと思っていた俺は、反射的に目を開く。
――そこにあったのは、血のような赤色をした、見慣れた青果だった。
「……林檎?」
「あと、これ」
続いて日向は果物ナイフを俺に差し出す。俺に向いているのは刃ではなく柄の方である。一緒に紙皿も渡される。
「皮剥きとカット」
「は?」
「植物人間相手なのに、けっこうみんな生モノ持ってくるんだよね。バカなのか無神経なのか」
たしかに見舞品の中にはフルーツバスケットや菓子の箱が散見される。
「このままだと腐っちゃうからもったいないじゃん。衰弱者にはちょうどいいでしょ。消費してよ」
「衰弱者……」
言いたいことだけ言って、日向はそのまま元いた場所に戻ってしまった。
「え、俺を殺すんじゃないのか」
林檎を持ったまま呆然としていた俺が我に返って尋ねると、日向はゴミクズを見るような目で俺を睨む。
「あんた、頭大丈夫? 助けに来たんだって、何回言わせれば気が済むの?」
「いや、でもさっき『よくも最愛の姉を』って」
「そりゃそう思うよ。でも、殺したところで何も解決しないでしょ。あんたと関わる人間が不幸になるのは、あんたの意思とは関係無いんだから」
日向の言う通りである。
「まあ、そりゃあたしだってあんたみたいな木偶の坊が姉の敵だなんて信じたくないし、そんな奴に頼るのも吐き気がするほど嫌だけど」
暗に「本当は殺してやりたい」と言っているようにも聞こえる。
「でもあんたにしかできないことがあるから、わざわざ生かしたの。少しでも姉への贖罪の気持ちがあるなら協力して」
「俺に何ができるんだよ」
「……ちっ」
日向は忌々しそうに舌打ちする。助力を請う者とは思えない態度を取った彼女は、サイドテーブルの上に置かれたミニコンポのボタンを押した。少し間が空いてから、流れるようなピアノの調べが室内に響き始める。楽曲はドビュッシーの『アラベスク第一番』だ。
それきり日向は黙ってしまった。楓花を救うというのならできることはなんでもしようと思えるのだが、得体の知れない誰かを助けろと言われても無理がある。それに、その人物と面談しなければならないという事実が俺を動揺させた。
「手が止まってるよ」
日向に指摘され、慌てて手元の林檎に視線を移す。しかし、普段は自炊と無縁の俺が、螺旋状に細長く皮を剥く技術を有するはずもない。少し剥いては皿の上に落ちる皮は、果肉まで一緒に削られるせいで厚く不格好だ。それなりに時間もかかるため、一つ剥き終わる頃にちょうど楽曲の演奏も終わった。次に流れ始めたのは『亜麻色の髪の乙女』だ。どの曲も楓花がかつてよく聞いていた記憶がある。
「できたぞ」
俺の声にぴくりと反応した日向は、欠伸をしながら瞳をこちらに向けた。
「ちょうど良かった」
「何が?」
「お客様がいらっしゃったようだから」
日向が言い終わると同時に、病室のドアをノックする音がこだまする。
「おい! こんなすぐなんて聞いてないぞ!」
「さっき、そろそろ来るって言ったじゃん」
「漠然とし過ぎなんだよ! 俺はもう何年も生身の人間と喋ってないんだぞ」
「だから何? あたしと喋ってるじゃん」
「お前は特殊だろ!」
「あんた本当情けない男だね。こんな奴に頼らざるを得ないなんて悲しくなるよ」
「うるせえ!」
そうこう言っているうちにドアが開く。
「あ、すいません。先客がいらっしゃったんですね」
座ったまま膝の上に林檎の皿を置いていた俺は、背中越しにその声を聞く。まだ若い女性のようだが、抑揚や感情に欠けた事務的な口調である。
「いえ、自分も急に来てしまったもので――」
何も反応しないのは不自然なので仕方無く振り向くと、やはり一人の女性がいた。紺のパンツスーツに身を包み、セミロングの黒髪は毛先が緩やかにカールしている。あまり化粧っ気が無いわりに、肌はやけに白い。
「そうですか。お気になさらず――」
神経質そうな少し吊り上がり気味の切れ長の目と視線がぶつかると、お互い凍りついたように固まった。
「――もしかして、恭洋?」
先に反応したのは、信じられないような眼差しで俺の名を口にした彼女――狭川絵理子だった。
「あなた、こんな所で何をしているの?」
ずかずかと近寄って来た絵理子はコンポのボタンを押して音楽を切ると、親の敵のように俺を睨みつける。どう答えようか難儀している俺に痺れを切らした彼女は、急に俺の頬を平手打ちした。
「わお」
いつの間にかベッドの脇に隠れている日向から緊張感の欠片も無い声が漏れる。
「あなた、どの面下げてここに来たの? よく楓花の前に姿を見せられたわね!」
「絵理子、これには訳があるんだ。今の暴力行為は水に流すから冷静になろう?」
「うるさい! だいたいその格好は何? どこか具合悪いの? そのまま死んでくれるの?」
なんという言い草だろう。ちなみにおさらいしておくと、俺の格好は病衣と点滴である。
「たまたまここに入院したから見舞いに来たんだよ」
当たり障りのない回答をするが、全く信用していないのか彼女の警戒は解けない。何年かぶりに会ったというのに、感動も感傷も無い。まさかこの女が現れるとは思わなかった。見ず知らずではないが、仲良くできる訳でもないことは、再会して数十秒で平手が飛んできたことで簡単におわかりいただけると思う。
絵理子は楓花と同じく俺の高校時代の同級生で、吹奏楽部の副部長だった。つまり今この場所には、どういう因果か当時の部長、副部長、生徒指揮者が一堂に会しているということになる。だが俺は、楓花はともかく絵理子には(厳密に言うと当時の他の部員にも)忌み嫌われている。俺自身の責任なのでそれに対して逆恨みをすることは無いし、だからこれまで誰にも会わないように隠居生活を送ってきたのだ。
「どうして入院なんかしてるの? いつ死ぬの?」
それにしても殺意が高過ぎやしないだろうか。
「栄養失調になりまして」
俺が答えると、絵理子はバカにしたように鼻で笑った。
「自分の管理もまともにできないなんて、あなたらしいわね」
そりゃ死ぬ気だったのだから、管理も何も無い。
「どうして黙っているの? 栄養失調って頭もおかしくなるんだっけ? ああ、もともと頭はおかしいか」
散々な言われようである。まともな会話などできる気がしないので、俺は目の前の毒舌スーツ女を無視し、先ほどから必死に笑いを堪えながら隠れているクソ小娘を睨む。
「おい、もしかして助けを求めているのってこいつか?」
考えたくないがそうなのだろう。
「あなた何を言っているの? 気安く楓花に話し掛けないでくれる? それともいよいよ幻覚でも見えている訳? 気持ち悪いからさっさと出て行っ――」
「絵理子先生」
それまで黙っていた日向が彼女の名前を呼ぶと、毒を吐き続ける絵理子がぴたりと止まった。
「え?」
ベッドを見た絵理子は、眠り続けている楓花の姿を見て怪訝な顔をする。
「なんか、誰かに呼ばれた気が――」
「呼んだよ」
「きゃあ!」
脇から飛び出た日向を見て、絵理子は驚いてベッドから飛び退いた。
「え……? なんであなたが……」
もともと白い顔をさらに青白くさせながら、絵理子は愕然としたように呟いた。
「先生?」
俺は俺で、絵理子への敬称が気になる。
「久しぶり、絵理子先生」
目を白黒させる絵理子に、日向がもう一度話し掛けた。
「これはいったい……」
「おいお前ら、知り合い同士ならちゃんと俺に説明してくれないか」
楓花がこの状態になってから、おそらく絵理子は足繁く見舞いに訪れているだろうから、楓花の妹である日向と面識があったところで不思議は無い。何故絵理子が一方的に驚いているのか、そちらの方が疑問である。
と、絵理子が俺に視線を向けた。
「恭洋、あなたにも見えているの?」
「は?」
突然意味のわからないことを言い始めた。
「そこの女の子よ!」
若干ヒステリックになりながら絵理子が叫ぶ。
「日向のことか?」
俺が名前を出すと、絵理子は目を見開いた。
「……幻じゃないのね」
「そうだよ、先生。本物のあたしだよ」
「なあ、本当にどういうことなんだ?」
置いてけぼりの俺が助けを求めると、絵理子は一つ息を吐いてから再び俺を見つめる。
「恭洋」
「なんだよ」
「そこにいる木梨日向は、私の高校の教え子なの。私達が卒業したあの学校のね」
「へえ。お前、教師になったのか。おめでとう」
素直に祝福してやったのに、絵理子は笑みの一つも出さず俺を睨みつけた。おめでたいのはお前の頭だ、くらいのことを考えているのは手に取るようにわかる。
「吹奏楽部に入っていてね。リーダー的存在で、本当に楓花そっくりだった」
「ほう。こう見えて優秀なんだな。さすが姉妹」
「でもね――」
俺の言葉をことごとく無視した絵理子は、突如として悲しげに視線を落とした。
「この子がここにいるはずがないの」
「なんで?」
「半年前に死んだから」