第十話 ご乱心のお嬢様 Ⅰ
部外者である俺は、生徒が授業を受けている日中の時間、完全にフリーである。
「無職でもあるからでしょうが」
日向の言葉は聞こえないふりをする。
平日の朝の練習は七時半から四十五分間であるが、基本的には個人練習だ。それでも俺は練習開始に合わせて登校している。しばしばアドバイスを求められることがあるし、自宅にいたところですることも無いからだ。だが、朝の練習が終わってから放課後までの七時間程度をどう過ごすのか、まだ決めていない。今日に関しては、前日から始めた講堂の掃除を済ませなければならないのでずっと汗を流しているが、今後は時間の使い方を考える必要がある。
「バイトでもしろよ」
……聞こえない。
午前中のうちに床の水拭きは終わった。明日には全身が筋肉痛になるだろう。午後はステージの設営を行う予定だ。壁際のがらくたの中にビールケースがいくつかあったのはラッキーだった。ベニヤ板を敷けば最後列の金管楽器のための簡易的な雛壇になる。このささやかな高低差が、練習では非常に重要なのだ。部活紹介の時は設営時間などの関係でフルフラットの隊形であったが、もしも雛壇まで利用したステージだったらもっと映える演奏になっただろう。ホルンやユーフォニウムの列は、コンクリートブロック一つ分くらいの高さがあれば良い。校内を適当に散策して、それらの材料を調達してみるつもりだ。無ければ絵理子に頼んでホームセンターまで行ってもらうことにする。
「免許取れよ」
「うるさいなあ!」
さっきから小言ばかりぶつけてくる日向に、俺もとうとう我慢の限界を迎えた。
「というか、お昼ごはんは?」
「いらない」
「ちゃんと食べなさいよ」
日向はたまにお母さんみたいな世話焼きになることがある。生前に吹奏楽部全体の面倒を見ていたので、そういう性分なのだろう。
水分補給くらいはしておこうと、一度講堂を出て自動販売機に向かう途中で校内放送が鳴った。陽気なBGMが流れる。
『皆さん、ごきげんよう。ランチタイムブレイクのお時間です。今日は部活動インタビューをお届けします。四月恒例のこの企画ですが、いよいよ残る部活も少なくなって参りました! まだ入部届を出していない新入生の皆さん、是非参考にしてくださいね。 今日もお相手を務めるのは、あなたの生徒会長、会沢輝子です!』
マイクを通しているせいでいっそうキンキン響く輝子の声にげんなりしてしまう。
「なんでDJが生徒会長なんだよ。政見放送かよ」
「輝子、もともとこういう目立つのが大好きだから……」
日向がフォローした。それにしても、週に三回も放送しているのだ。あまりに精力的である。
購入した炭酸ジュースを飲みながらなんとなく中庭で放送を聞いていると、美術部や書道部が紹介された。文化系の部活が後回しになるのは仕方無いことだが、ゲストに呼ばれている各部長のテンションが低く、輝子が騒いでいるだけみたいになっている。
「おい、別の意味で昼休みがブレイクされてるぞ」
「あたしに言われても……」
『――ありがとうございました。最後に、吹奏楽部です』
「ぶっ!!」
飲みかけたジュースを噴き出した。
「汚いなあ」
炭酸だったことも相まって、俺は激しく咽せる。
『こんにちは。部長の南玲香です』
いつもの抑揚の無い玲香の声が校舎に反響した。その前の部長達は、暗いというより緊張や恥ずかしさが勝っている感じであったが、玲香はただただ能面である。ニュースでも読ませたらそれっぽくなりそうだ。
『先日の部活紹介は、急遽の出番にも関わらず素晴らしかったですね』
『それはどうも』
『普段の練習は?』
『朝は七時半から。放課後は四時半から七時です。休日は朝九時から夕方五時までです』
『ずいぶんハードですね』
『それほどでも』
『……』
なんだこれ。
「事情聴取じゃねえか!」
先ほどまで無駄に明るかった輝子も、玲香に合わせるが如く平坦な口調だ。ふざけんな。
『吹奏楽部といえば、校内でもいろいろと有名でしたね』
『ありがとうございます』
嫌味に対してまともに返事をする玲香。言葉通りの意味だと思っているのだろう。
『……では告知をどうぞ』
『今週と来週の金曜日、講堂で新歓コンサートを開催します。今年度のコンクール課題曲も披露する予定です。是非、足を運んでください』
『え? 講堂? あそこって、いつもみんなが肝試しに――』
『ちょっと、それ以上喋ると口を縫い合わ――』
ぶつり、といきなり音声が途切れた。
「放送事故だろ、これ」
「あの二人、本当に仲悪いから」
日向はクスクス笑っているが、俺の背中には冷や汗が伝う。
『失礼しました。皆さん、お時間が合えば是非聞きに行ってみてくださいね。最後に、何かあればお願いします』
『あの、一部界隈で私の部活紹介の時のスピーチが重過ぎると言われているんですが、本当でしょうか』
『……知りませんけど』
『……』
「……」
「……」
この地獄みたいな時間が全校に共有されていると思うと、俺はまだしも生徒達が忍びない。
「というか、そんなこと今聞くなよ! めちゃくちゃどうでもいいことばっかりナーバスな奴だな!」
玲香はやはり天然だ。せっかくの機会なんだから、もっと自分達のアピールをするべきであるのに。
『本日のランチタイムブレイクもお楽しみいただけましたか? 次回は金曜日です。それでは午後も頑張りましょう』
脈絡も無く唐突に放送が終わった。本当に昼休みを破壊するような番組だった。無抵抗の耳に入ってくるというのがなおさらひどい。絨毯爆撃みたいだ。
「ま、まあ昔だったらもっとヤバかっただろうし。無難に終わって良かったじゃん」
「口を縫い合わせるとか聞こえなかったか?」
「最後までは言ってないから!」
「理解できれば同じだろ!」
それにしても、生徒会はどういう風の吹き回しだろう。この放送に吹奏楽部を出したことや、例のノルマの件を公表しなかったのは、こちらとしてはありがたいが……。
「問題は、玲香が全く向いてなかったってことだね」
「まさか、その自爆を狙って……?」
考えても仕方の無いことではあるが、何かが俺の頭の中で引っ掛かった。
♭
時間は経過し、午後のホームルームの終わりを告げるチャイムが鳴った。
萌波に依頼された通り、放送室でアナウンスの準備を行う。今日は日向もついて来ていた。数時間前にここで例の番組が繰り広げられていたかと思うと複雑な心境である。
「……これ、本当に言っても大丈夫なのか?」
「アナウンスするあんたが悪者になるだけなんだから問題無いでしょ」
「生け贄かよ」
躊躇っていても時間が過ぎるだけだ。俺は腹を決め、マイクのボリュームを上げる。
「二年三組、汐田美月さん。音楽準備室へお越しください。繰り返します――」
ここまでは前回同様である。そして。
「もし来ない場合、あなたの楽器を処分します」
とうとう言ってしまった。俺はすぐに機材の電源を切り、音楽準備室へと走った。
音楽室前の廊下には、既に部員が集まり始めていた。
「もう来てるか?」
たまたま璃奈がいたので聞いてみると、「ほんのちょっと前に入りましたよ」と教えてくれた。
「みんな、気になるだろうがしばらく準備室に近づかないように」
念のためその場にいる部員を牽制してから、俺は扉を開けた。
「――お疲れ様です」
落ち着き払った様子の萌波の姿が目に入る。
「どういうこと?」
対面するのは、息を切らせている美月だ。
「すまんな。君と話をしたいのは萌波だ。楽器の処分なんてしないよ」
「先輩の仕業ですか! 冗談でもやって良いことと悪いことが――」
「美月ちゃんは、どうしてここへ来てくれたの?」
萌波が美月を遮る。口調こそ優しいが、なんとも言えぬ迫力がある。
「だ、だから、楽器が――」
「なんでここにずっと置きっぱなしなの?」
「それは……」
以前にも述べたが、音楽準備室は楽器庫を兼ねている。どうやら美月の楽器はしばらく保管(放置とも言う)されたままのようだった。カラオケで練習云々は昨日現れた二年生達のことで、美月自身は違ったらしい。
「今週、トロンボーンの一年生が入部したの。スペースにも限りがあるから、使わないなら持って帰ってくれない?」
「えっ」
美月はあからさまに狼狽えている。すぐに俺へ視線を向けたが、萌波の言葉は事実なので無言で頷く。
「でも、もしかしたら私達がまた吹奏楽部として活動するかもしれないし」
「そんなこと、本気であり得ると思っているの?」
「ゼロじゃないでしょ! 先輩達が部員を獲得できなければ廃部になるんだから!」
「美月ちゃん、自分で答えを言ってるよね?」
「……え?」
「廃部なんだよ、廃部。そうなったら活動なんてできないの」
「それは、パパが――」
「どうもしないと思うぞ」
俺が横から口を挟むと、美月はさらに動揺して体を震わせた。
「そもそも廃部の話は誰から聞いたんだ?」
「輝子先輩ですけど」
「生徒会か……」
俺は少し合点がいった。
「廃部の件は、校長の独断だ」
事実だけを簡潔に述べると、美月は呆然としたまま固まった。
「今回の部員獲得については、理事長と校長、そして俺の三者間で取り決められたんだ。理事長は、部員を獲得できなければ対外活動禁止のままって言ったんだがな。いっそのこと廃部にしようと提案した人こそ、校長なんだよ」
「そんな、嘘、パパが……」
美月はブツブツと呟いている。
「生徒会は、あくまで部活紹介の出番の交渉をしただけだ。廃部の件まで口出しされてない」
彼女はきっと生徒会が決めたと思ったのだろう。だから、最後の砦として校長を頼れば新生吹奏楽部が作れるとでも思っていたのかもしれない。
「じゃあ、本当に終わっちゃうの?」
「終わらせないために、私達と秋村さんは頑張ってるんだよ」
萌波が諭すように言った。俺は静かなままの内線電話をちらりと見る。
「……この前も今日も、校長からなんの音沙汰も無いよな。娘が校内放送で呼びつけられたっていうのに」
「あ、ああ……」
ようやく現実を知った美月は、そのまま膝をついてしまった。吹奏楽部という団体に対して処断を下した校長から恩情を受ける方法など、課題をクリアする以外に存在しないだろう。娘がいようがいまいが関係無いのだ。
「昨日、折笠君達が来たよ。今日から復帰してる」
二年生の男子生徒であるパーカッションの折笠護をはじめ、昨日音楽室を訪れた五名全員が今朝の練習から参加していた。
「……どうして」
ぽつりと美月が呟く。彼女の長い黒髪には、以前会った時のような艶が無い。
「私はただ楽しく音楽をしたいだけだったのに。なんで苦しいことばっかりなの? 意味がわからない……」
ふらふらと立ち上がった美月は、心ここにあらずと言った感じで萌波の方を向いた。視線の焦点は合っていない。
「可愛くない後輩に現実を突きつけて、満足しましたか? もういいです。私のことは放っておいてください!」
最後にそう叫び、美月は逃げるように背を向ける。
「ちょっと!? 美月ちゃん!?」
逃亡されるとは思っていなかった萌波が、美月の後を追って部屋から出て行った。




