第三話 無職と亡霊とサイコパス Ⅰ
「早く開けてよ」
少女に催促されるが、俺の動悸が収まることは無い。むしろ一層激しくなって吐き気すら催すほどの惨事だ。先ほどからずっとこの調子である。スライドドアの把手を掴んでしばらく固まっていた俺は、端から見ればただの不審者にしか見えない。
「どうかされましたか?」
案の定、通りがかった看護師に声を掛けられる。
「い、いえ、なんでもありません」
絵に描いたような挙動不審だが、おかげでドアを開くことができた。愛想笑いを浮かべたまま病室に入ると、看護師は怪訝な顔をしながら去って行った。
俺が入院している病室と同じような個室なのに、中身はまるで違う。たくさんの花が飾られており、見舞いの品も所狭しと置いてある。千羽鶴や寄せ書きも目立つ場所に添えられていた。備えつけの物以外に何も無い俺の部屋とは正反対に賑やかな病室のベッドで、彼女――木梨楓花は安らかに眠り続けている。
「その言い方だと死んでるみたいじゃん」
隣にいる少女が勝手に俺の思考を読み取った。
「感想は?」
そんなことを聞かれても咄嗟に出る言葉は無い。代わりに、これまでの彼女との記憶が蘇る。俺の侘しい人生の中で唯一、光が差していた頃の思い出だ。
高校時代を共に過ごした楓花は、俺が所属した吹奏楽部の部長だった。だが六年ほど前、不幸にも交通事故に遭ってからはずっと眠ったままのようだ。彼女が誰からも愛される存在であったことは、この病室を見れば言うまでも無い。今でも当時の同級生や知人などが頻繁に訪れるのだろう。俺もただの同級生の一人であれば、見舞いに来ることがあったのかもしれない。が、俺はとある事情により本来ここに来てはならない存在なのだ。感想を求められても、強いて言うならば普段よりも一層死にたくなる、くらいのことしか思い浮かばない。俺が死ねば目を覚ますのならば、喜んで窓から飛び降りるくらいの覚悟はある。
「綺麗な寝顔だな」
ようやく絞り出したのは、当たり障りの無いお世辞のような言葉だった。だが、今にも目を開けて起き上がりそうな自然な顔立ちであることは事実だ。
「あのさ。あんたが何か責任を感じているのなら、悲しい顔をしてないで役に立って欲しいんだけど」
そう言われると返す言葉もなく、俺はベッドの側の椅子に腰掛けた。容赦の無い奴だ。
「で、お前は誰なんだ」
「そんなことよりもね」
ベッドを挟んで向かい側の椅子に座った彼女は、俺の質問を露骨にはぐらかした。俺からしたら「そんなこと」で片付けられる問題では無いのだが。
「あたしさ。『あんたに助けてもらいたい人がいる』って言ったよね?」
たしかに、そんなようなことを言われた覚えがある。
「……まさか、楓花のことか?」
ここに連れて来られたということは、そう考えるのが自然だ。
「違うよ。あんたみたいな無職に、何年も寝たきりの人を救えるはずが無いでしょ」
「じゃあ誰なんだよ」
「たぶん、そろそろここに来ると思うから、その時に話を聞いてもらいたいんだ」
この小娘は、いつも煙に巻くような話し方をする。
「そいつは誰なんだよ。というか、結局お前も何者だよ」
巻き込んでいるくせにのらりくらりと話す日向に、俺も苛立ちが募る。
「本当、いい加減にしてくれないか。お前と会ってから、何が起こっているのかさっぱりわからん」
「あんたが鈍感過ぎるんじゃない?」
「なんだと?」
バカにしたような目で俺を見た彼女は徐にベッドサイドへ寄ると、そのまま枕元へ自身の顔を近づけた。寝たきりとなってしばらく経つ楓花も一般大衆の感覚的には美人であると思うので、同じくそれなりに容姿端麗な少女とのツーショットは、他人に興味の無い俺が見てもよく映えた。何気なく二人の顔をじっと眺めていると、仲の良い姉妹のようにも見える。
「ん?」
姉妹?
「おい」
「何?」
「お前まさか――」
「やっと気づいた?」
俺の言葉を遮って、彼女は椅子から立ち上がる。
「そう。あたしは木梨日向。ここにいる木梨楓花の妹」
俺は絶句した。
「秋村恭洋。よくも私の最愛の姉をこんな状態にしてくれたね」
日向という名前とは裏腹に、真冬の風のような冷え切った声が俺の耳を襲う。
まるで俺が楓花へ危害を加えたような言い方だが、直接的な関係は無いだろう。楓花が事故に遭う前から、俺はずっと引きこもりだったのだから。
ただ、日向が俺の呪われた体質について把握していたことも事実である。間抜けなことに、俺はようやく事態を察した。楓花を轢いたドライバーが捕まったことは、事故の数日後のニュースで俺も知っている。だが日向の心中では、楓花の事故の遠因が俺だという結論に至ったのだろう。
であればきっと、これは復讐に違いない。俺の素性を全て調べ上げ、姉のいるところでトドメを刺す。俺が死にかけた際に天使と勘違いしたこの少女は、紛うことなき悪魔だったのだ。わざわざ救急車を呼んでまで俺を一度生かしたことに、彼女の憎悪の深さが窺える。
――そんな冷静な分析ができるくらい、俺は落ち着いていた。
「そういうことだったのか……」
今度こそ死ねるかもしれないと理解すると、不思議と感情は凪いでいった。この病室に入る時の方がよっぽど動揺していたくらいである。唯一の心残りは、目の前で眠る楓花の存在だ。俺は間違いなく地獄に落ちるだろうから、あの世で再会することも無い。
不意に、日向は備えつけのテーブルの引き出しから細長い物体を取り出した。窓から差し込む三月の陽射しを鈍く反射させるそれは、どこからどう見ても刃物であった。刃渡りが短いため、おそらく果物ナイフだろう。刺し殺される痛みを想像すると、やはり栄養失調で死んだ方が何倍もマシに思えたが、どんな方法であれ殺される時点で苦痛を伴うに決まっている。そう割り切って考えると、日向がナイフを持ったままゆっくりとこちらに歩み寄ってきても恐怖を感じることは無かった。
「じゃあ、とりあえず」
目の前に立った日向が、ぼそりと呟いてナイフを俺に向ける。とりあえず、ということは即死させるつもりが無いのかもしれない。さすがにメッタ刺しは想定外だが、復讐という言葉はそれすらも納得させてしまうのだから便利である。
「手、出して」
「手?」
意図はわからないが、言われた通りに右手を差し出す。明らかに致命傷とならないところから、じわじわと痛めつけようという魂胆だろうか。小娘のくせに猟奇的である。
「そっちじゃなくてこっち」
無意識に手の甲を上に向けていたら、日向が乱暴にひっくり返した。いかにも不健康そうな真っ白い手のひらが晒される。もしかすると指を切り落とされるのかもしれない。メッタ刺しどころかバラバラ殺人ではないか。さすがに冷や汗が出てきた。どうせ死ぬのだから、心臓を一突きではいけないのだろうか。
これ以上凄惨な末路を想像することが耐えられなかった俺は、静かに目を瞑った。