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エメラルド・サウンズは黎明に輝く  作者: 文月 薫
第二章 極星 ―― spiritoso
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第五話   喝采への処方箋 Ⅱ

 果たしていつまで太陽が拝めないのかと憂鬱になるくらい、今日も今日とて曇り空である。

「で、何に使うの、それ」

 今度は合法的に講堂の中に入った俺達は、昨日入り口の辺りに寄せておいた布の塊を見下ろしていた。

「もちろん、練習に使うんだよ」

 ここに来る途中で立ち寄った倉庫から台車を拝借した俺は、せっせと布を積んでいく。壁際のガラクタを覆い隠すための布を残し、一旦扉を閉めて音楽室へと向かう。

 車輪のネジが緩いのか、台車があまりにもガタガタとうるさかったので、音楽室に近づくと何人かの部員が俺に気がついて寄ってきた。

「ちょうどいい。みんなでこれを床に敷いてくれ」

「何これ?」

 たまたま近くにいた淑乃から声を掛けられる。

「たぶん、昔使ってた暗幕だろうな」

 真っ黒の布は適度な厚みがあり、第二音楽室の床を一面に覆うだけの量もある。

「とりあえず管楽器達の座るところを埋めればいい」

 不思議そうに布の塊を見つめる部員達へ指示を出した俺は、そのまま音楽準備室へ入った。机の上には、自宅から持参したアイテムが置いてある。こちらは布ではないが似たような物で、ロール状になったシートだ。

「それはなんなの?」

 様子を窺っていた日向から問われた俺は「吸音材だ」と答えた。

「キュウオン?」

「字の通り、音を吸い取るんだよ。防音のために使うシートだ」

「……生徒会長に騒音って言われたから対策するってこと?」

「違うよ。防音扉があるんだから外のことはどうでもいい」

「じゃあなおさらわからないんだけど」

「このあとの合奏を聞けばわかるさ」

 俺はシートを持って再び音楽室に戻った。布を敷く部員を横目に、窓へ吸音材を貼り付けていく。枚数が多くないので、たいして時間もかからず作業は終わった。

「秋村さん。いったいどういうつもりですか? 黒魔術でも試すんですか?」

 真面目な顔の玲香が質問してくるので面食らうが、たしかに室内がほとんど黒一面になってしまったので彼女が言いたいこともわからないではない。

「日向を生き返らせるか」

「笑えません」

「……」

 軽口を叩いたら睨まれた。

「――よし、十五分後に基礎合奏を始めるからみんなを集めてくれ」

 誤魔化しながら部員の招集をかけ、俺はそそくさと準備室へ戻る。

「防音効果を出す素材には、遮音材ってのもあるみたいなんだ。でも遮音材は室内で音を反響させることで防音する素材らしい。逆に吸音材は、さっき言った通り音を吸収する物なんだ」

「ふうん?」

 俺の意図がわからない日向は、訝しげに俺を見つめいている。

「試合では金属バットを使う野球部が、木製バットで練習するのと似たような原理だよ。敢えて反発力を下げることで体に負荷をかけるんだ」

「それが音楽となんの関係があるの?」

「今の音楽室で普通に楽器を鳴らしたら、響きが吸い取られて芯しか無い音になるのはわかるだろ? そうすると、どんなことが起きると思う?」

「……さあ?」

「まあ、聞いてみればわかるさ」

 菜箸とメトロノームを持った俺は、音出しをしている部員達の横を通って指揮台へ上がった。音出しの時点で、俺の目論見通り響きが吸い取られている。

 チューニングを終えたバンドを見渡し、俺はメトロノームのゼンマイを巻きながら口を開く。

「いきなり不思議な空間を作って戸惑っていると思うが、とりあえずロングトーンを一オクターブやってみてくれ。八拍伸ばして四拍休みで頼む。音量は、フォルテシモで」

 指示を飛ばすと、皆は困惑した顔を浮かべながらも楽器を構える。

「一、二、三」

 掛け声に続きロングトーンが始まった。

 全部で八つの音を昇っていく訳だが、二つ目の音を吹き終えた段階で既に違和感を感じる部員がいるようだった。四拍ある休符の間、戸惑った顔をしている。

「はい、お疲れ」

 ひとまず最後まで吹き終えた一同を労う。全員肩で息をしているからだ。

「今まで基礎合奏を適当にしていたツケが出たな」

 俺がふてぶてしく笑うと、訳がわからないといった視線の集中砲火を浴びる。

「フォルテシモってどういう意味だ?」

「非常に強く、です」

 玲香が答える。さすがにそのくらいはわかるようだ。

「今のロングトーン。どこがフォルテシモなんだ? それから、しっかり八拍目の最後まで伸びていた音が一つも無かったどころか、どの音もどんどん減衰していたぞ。音程もけっこう怪しかったな」

 つまり、良いところが皆無である。

「こんな響かない部屋で吹いたら、そりゃそうなるでしょ!」

 皆を代表して淑乃が反発した。

「逆だ」

「……は?」

「今までが、響きに頼り過ぎなんだよ。初めて合奏したときに思ったんだが、この部屋は第一音楽室よりも異常に響く。お前らは自然と、楽をしながら演奏していたって訳だ」

「そんなつもりは無いんだけど」

 ホルンを抱えながら、芽衣が口を挟む。

「無意識でもそうなるのが自然なんだよ。演奏する『箱』に合わせてしまうんだ。普段のお前らなら一オクターブのロングトーンくらい朝飯前だろうに、フォルテシモっていう指示を出しただけでこの有様だろ?」

「でもこんな環境で演奏する機会なんて無いですよね?」

 今度は優一が質問してくる。

「それも考え方が反対だ。こんな負荷のかかる環境でもまともに演奏できるバンドが、音響のしっかりした場所に行ったらどうなると思う? 例えば、()()()とか」

 ようやく、皆が俺の意図に気がついたように目を見開いた。

「響きっていうのは、もちろん必要不可欠だよ。でも、頼り過ぎると楽器そのものが鳴らなくなる。ブレスが管の先まで通らない、口先の演奏になるんだ。この場所で普通に練習するだけでも、そんな演奏になってしまうんだよ」

 楽器が鳴らないから、強弱の幅が減る。少ない幅で表現をしようとしても、聞いている側は変化がわからない。普段通りにここで練習を続けていては、体育館という箱に負けるだけだ。

「現地ではリハーサルもできないだろうしな。だから、荒療治だができる限り響かない箱を作ったって訳だ」

 体育館はむしろ響き過ぎるくらいだろう。

「もし昨日みたいな演奏を体育館でやったら、輪郭のぼやけたよくわからない楽曲がこぢんまり鳴っているって感じになるだろうな」

 昨日から昔の演奏を聞き漁っている彼らのことだ。自分が聴衆だとして、俺の喩えた演奏がどのようなものか容易にイメージできるのだろう。さすがの淑乃も、若干引き攣った顔をしている。

「とにかく楽器を鳴らす。吹き終わりまで息を使う。今まで以上に耳も使って音程を合わせる。それを意識してもう一度」

 再びメトロノームを動かすと、部員達はぱらぱらと返事をした。

「一、二、三――」

 その日は、これまでの負債を返済するが如く、基礎練習漬けになったのだった。

「……あんたの考えることはわかったけどさ。曲の練習をしなくて大丈夫なの?」

 合奏後、日向に尋ねられた俺は、指揮棒をしまいながら軽く息を吐いた。

「一通り譜面は読めているみたいだから、残り三日でできる限りのことはするよ。もともとのポテンシャルが高いから、明日には今の第二音楽室にも慣れるだろ。もし実力の乏しいバンドなら、敢えてこんな負荷をかけた練習はしないさ」

 耳を使え、と指示するのは簡単だが、ある程度の音程感が無い者には指示の意図すらわからないだろう。ピアノの音程が完璧なのは調律師が仕事をしているからだが、管楽器の場合は奏者自身が調律師だ。歌唱と同じで、音痴な奏者が混ざっていれば曲にならない。

 その点、彼らはひとりひとりがまともな音程で演奏できるので、周囲の音を聞くゆとりがある。響きの無い音だと少しの音程のズレでも耳障りになることを理解した上で、集中力を持って練習できていたのだ。

 また、これまでの練習量がやたらと多いおかげで、高校生らしからぬスタミナもある。単調な基礎練習が嫌いな者は一定数いてもおかしくないのに、誰一人最後まで手を抜いていなかったことも驚愕である。

「あいつら、本当にたいしたもんだよ。俺が偉そうに言えた立場じゃないけど」

「音楽しかないからね」

 褒めちぎった俺を傍目に、日向は寂しそうに呟く。

 すると、音楽準備室と第二音楽室を繋ぐ扉が突然開いた。

「あの」

「……ノックをしなさい」

 俺の前に現れたのは、部長の玲香だ。

「当日なんですけど、お願いがあるんです」

「ん?」

 玲香は相変わらず無表情のまま、唐突にそう告げたのだった。

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