第一話 悪魔に翻弄される死神 Ⅰ
ぼんやりとした視界に広がるのは、馴染み深いとある部屋の光景だった。築年数がやたら長く、ただただ広いだけの洋館――俺の自宅にある一室である。建物内に十以上ある部屋は、ほとんどが倉庫にすらなっていないただの空室だ。俺が主に使うのは、寝室と食堂、そして今いる洋間しかない。この部屋には父親の収集した楽器が保管されており、完全防音となっている。
自室でカビ臭い毛布に包まっていたはずなのに、何故こんなところにいるのだろうと疑問に思ったが、俺はすぐにこの景色が夢であると察した。着ている服が小学生の頃の部屋着だからである。ずいぶんと懐かしい。
目の前には雑然と楽器のケースが並んでおり、その中のいくつかは蓋が開いていた。綺麗に磨かれた金管楽器が眩しく光っている。
これらの楽器は、俺の唯一の友人だ。今でも演奏するし、毎日手入れを欠かさず大切に保管している。
俺は物心つく頃には自身が災厄の象徴として疎まれているということに気づいていた。もともと家族というコミュニティに属した経験の無い俺は、親戚中をたらい回しにされること自体、そういうものかと思っていた。だが、預けられる先々で不幸が起こることに関しても自然に受け入れられるほど非常識でもなかった。それも自分自身に降りかかるならともかく、善意で俺を受け入れてくれたその張本人達が不幸な目に遭うのだから、悪魔の子のように見做されても仕方が無いと思った。シンデレラに出てくる継母や義姉のような人の元へ行ったならともかく、彼らは真に慈悲の心で俺を引き取ってくれたのだから、余計に質が悪い。
俺は小学校三年生になった春、この家に戻った。ここはどうも両親の死後売りに出されていたらしいが、片田舎のだだっ広い洋館に買い手がつくことも無く、経年劣化の目立つお化け屋敷と化していた。両親の急死についても近隣住民は当然知っていて、曰くつき物件の噂が立ったのも買い手が現れない要因の一つであったのだろう。
当然のように学校でも友達がいなかった俺は、父の遺したこの部屋で一日の大半を過ごした。俺は指揮者の父とピアニストの母の間に生まれたが、親戚も父母同様に音楽に携わる家が多く、俺も記憶が無いうちからピアノには触れていたという。この部屋に入り浸り始めた頃はピアノばかり弾いていたが、段々と他の楽器にも手を出した結果、それなりの演奏ができるようになってしまったのだ。
とはいえもちろん独学ではない。俺がこの家に戻った時、住み込みの世話係がいた。俺に各楽器の奏法や運指を教えてくれたのは、その世話係である。今思えば、俺が「家政婦さん」となんの面白みも無い呼び方をしていた彼女こそ、俺などよりよっぽど凄い才能の持ち主ではないかと思う。ただ、彼女の素性や、俺に楽器を教えてくれた目的に関して今となっては知る術も無い。
『恭洋さん、今日はどの楽器にするんですか?』
と、非常に懐かしい声が耳を擽った。まさにその家政婦さんの声である。
『最近はピアノばっかりですから、ちゃんと管楽器も練習しないとダメですよ』
若々しく澄んだその声は、直接脳内に侵入してくるような心地良さだった。
『えー、でもトランペットとか口が疲れるから嫌だ』
俺の意思に反して勝手に言葉が出てくる。
『またそんなこと言って。ご飯を食べる時も回し食べしなさいと言っているでしょう? 一緒ですよ』
『全然一緒じゃねえだろ! そもそも一つを極めるのだって難しいのに、なんで全部やらされなきゃいけないんだよ!』
『まあまあ、もう反抗期とは。いいですか、例えば野球選手を見てくださいよ。今のご時世、ポジションの二つや三つできて当たり前なんですよ。それと同じです』
『だから同じじゃないってば! 自分で二つや三つって言ってるじゃん! 今の俺は九つ全部やってるの! スーパーユーティリティという名の器用貧乏なの!』
『え? でも恭洋さん、弦楽器も打楽器も演奏できませんよね? それじゃあ、せいぜい外野にコンバートされた内野手くらいですよ』
『充分だろうが!!』
――ああ、たしかこれは実際にあった会話だ。家政婦さんの教育はスパルタで、俺のああ言えばこう言う性格は絶対彼女から移ったものだと今でも思う。
『トランペットが嫌なんですね? じゃあ今日はホルンです』
嫌いな食材を敢えて夕食のおかずにする母親のように、家政婦さんが冷たく言い放つ。
『もっと嫌だよ! なんで余計に吹きづらい方をチョイスするんだ!』
『困りましたねえ。そんなにピアノが好きとは……。じゃあピアノが無くなれば他の楽器も練習するようになりますか? 今から楽器屋さんを呼んで見積もりをしてもらいましょう』
『父さんの形見を勝手に売ろうとすんな!』
毎日こんな様子で代わるがわる楽器の練習をさせられていた俺は、いつの間にか各楽器の奏法を会得していたという訳だ。
――何故俺は今になってこんな光景を見ているのだろう。家政婦さんのことも、最近はずっと記憶の奥底に鍵を掛けて封印していたというのに。
『はい、じゃあとりあえずゼンマイが切れるまでロングトーンしてくださいね』
メトロノームを限界まで巻いた家政婦さんが無慈悲に言った。部屋にある特大のメトロノームは、三十分経っても切れることはない。
『え、嫌だってば! ねえ!』
『終わるまでこの部屋から出てきちゃダメですよ』
冷酷にも微笑を浮かべながら、彼女は部屋を施錠して去っていく。鍵を掛ける意味がわからない。こんなの監禁だ。児童虐待だ。
『嫌だああああああああ――』




