第十一話 決意 Ⅳ
どう答えようか迷った俺は、あっという間に冷めてしまったミルクセーキを一口飲む。不味くなった訳ではないが、淹れ立てとは別の飲み物かと思うほど、ただ甘いだけだった。口の中にいつまでも残る甘味は不快にさえ感じてしまい、この世のありとあらゆる事象は劣化していくしかないのではないかと思えた。もちろん、俺も、絵理子も、吹奏楽部もだ。
「……大丈夫ではないかもしれませんね」
結局、適当な返事で誤魔化した。いくらなんでも、再会したそばから果物ナイフを振りかざしていました、とは言えない。
「そんな他人事みたいに言わなくても」
マスターは苦笑しながら、磨いていたグラスを棚に戻した。そのままカウンターの隅まで歩いていくと、音響機材の前で一枚のCDを取り出す。そう言えば今日はBGMが流れていない。
「あなた達のお陰で、すっかりブラスバンドが好きになってしまいましてね」
言い終わると同時に流れ始めたのは、若干ノイズの混じった管楽器の音色。
「これはまた、ずいぶん懐かしいものを……」
俺が二年生の年のコンクール課題曲だ。この曲がトラックの一番目ということは、定期演奏会の録音音源だろうか。
「素人の私が言うのも恐れ多いですが、本当に素晴らしい演奏会でした。音源は部員と顧問だけに配られたと聞いて、頼み込んで焼き増しさせてもらったんですよ。その相手が、今の狭川先生です」
俺の前に戻ってきたマスターが、空になったカップを下げながら教えてくれた。当時のクソ真面目な絵理子なら断るはずもないだろう。
「次の年――あなた達の代もとても楽しみでした。実際、様々な演奏会を聞きに行って、感動しましたよ」
でも、と続けたマスターの目がほんの少し翳る。
「集大成である定期演奏会に、あなたはいなかった。それに、狭川さんにどんなにお願いしても音源はもらえませんでした」
静かにカップを洗い上げたマスターが、シンクから目線を上げて俺の顔を覗く。
「本当に残念です」
返す言葉が出ない。柔和の権化であるマスターの放った一言が、じわじわと俺の心に侵入してくる。気がつけば重傷になっている低温火傷のように、ゆっくりと、だが確実に蝕まれていく感覚だった。
「教師になった狭川さんは、当時とは別人みたいになっていました。吹奏楽部の顧問に就任したと聞いた時は、私は嬉しかったのですが、彼女はちっとも喜んでいませんでしたね」
もうやめてくれ、と口に出そうとしても、中途半端に喉に残っているミルクセーキの甘味が邪魔をする。
「最近、吹奏楽部そのものが無くなるかもしれないと伺いました。もう、こんな素敵な演奏を聞くことも無いんですかねえ。……おや」
ふと、マスターが再びおしぼりを差し出してきた。
「すいません。少し言い過ぎました」
カウンターに、ぽとりと水滴が落ちる。
その発生源を察した俺は、慌てて自らの頬を拭った。
「何を泣いてんだか……」
照れ隠しのようにおしぼりを受け取った俺は、そのまま顔全体を包む。
もしも吹奏楽部の没落の根源が俺なのだとしたら、とんでもないことをしてしまったのではないかと、もう何回もしている自問自答を再び繰り返す。
日向や、その同級生達。そして、目の前にいるマスター。
『自称吹奏楽部のファン一号として、期待していますよ』
理事長となった渋川のセリフが脳内にこだまする。
こんな身近に、かつてのファンがいるとは思わなかった。
――いや、そもそもその思考が傲慢なのだ。思い返せば、当時の演奏会はいつも満員に近かった。それすら当たり前になっていた。俺達の演奏を聞きに来てくれた人達がどんな気持ちでいたのか、考えたことも無かった。送られる拍手をバカ正直に受け取るだけだった俺を表現する言葉は、自己満足以外に何があるのだろう。
俺は覚悟を決めて、ごしごしと顔を拭いた。日向にはおっさんだと思われるだろうが、今はそんなことどうでもいい。
「実は、俺が吹奏楽部の指揮を振ることになったんです」
銀縁メガネの奥で、マスターが目を見開いた。
「そうだったんですか。じゃあまた、応援しないといけませんね。ははは」
俺は再び涙腺が緩むのを必死で堪える。何年も優しい言葉に触れていなかったので、威力が桁違いだ。
「長居してすいません。明日以降はしっかり練習を見るので、このあたりでお暇します」
「そうですか。こちらこそ引き止めてしまって申し訳ありませんでした。頑張ってください」
人畜無害としか表現しようの無い笑顔が俺を見送る。
「あ、すいません。今持ち合わせが……」
思い出した。俺は、せいぜい数百円の飲み物代すら支払えないクズだった。
「結構です。注文された訳じゃありませんから」
救われた気持ちと、俺自身のどうしようもなさへの虚無感と、この店はそれでいいのかという親心的な心情が渦巻いて、ぎこちない笑みを浮かべることしかできない。
「それじゃあ、お言葉に甘えて……」
席を立って入口に顔を向けると、日向はドア横に置かれた丸椅子の上で居眠りをしていた。どう起こそうか考えながらドアを開ける、と。
「おやおや」
外は無残なまでの土砂降りだった。
「はい、どうぞ」
さっき返却したばかりの傘が再び目の前に現れる。
「やっぱり降ってきちゃいましたねえ」
俺の勘は、ハイパーインフレになった外国通貨並みの信用力しかないということを思い知った。マスターから見れば、これから雨が降る予報なのに、何故この男はわざわざ傘を返しに来たのかという疑問しか無いだろう。天気予報を知る手段が無いからです、という世捨て人そのままの真実を白状する気にもならない。まあ、黙っていたところでただの頭がおかしい男なのだが。
「さっきのお代、つけといてください」
恥を忍んで傘を掴んだ俺は、苦し紛れの依頼をして一歩外へ出る。雨音で目が覚めたのか、日向も黙ってついてきた。
「では、またお待ちしております」
丁寧に一礼したマスターに見送られ、俺達は家路につく。
「あんた、何しに来たの?」
「うるさいな」
たしかに本来の目的は果たせなかった。だが、日向が寝ていた間にマスターと交わした会話は、極めて意味のあるものだった。
「……すまなかったな」
「何が? どれのこと?」
謝罪すべき項目が多過ぎるらしい。
「お前達の期待に応えられなかったことだ」
彼女だけでなく、聴衆へ失望を与えてしまったことに対する謝罪だった。だが、曖昧に返事をしたため日向は怪訝な顔をする。
「大事なのは、これからでしょ」
本当にこいつは楓花の妹なんだな、と実感する。『後ろは振り返らない』が楓花の口癖だったから。
「こんな天気じゃ、あの店また誰も客が来ないんじゃないか」
「こんな天気になることすら知らなかったバカが一人釣れたからいいんじゃないの」
どういう教育をすればこんなに辛辣なセリフを吐く生徒が育つのか、絵理子に聞いてみたい。
「というか、他人の心配してる場合じゃないでしょ」
「……そうだな」
指揮者のやる気が出ただけでは、事態は進まない。部員達に告げた通り、明日からは休む間も無いだろう。
俺は土砂降りの中、帰路を急いだ。




