第九話 爪弾き達は共鳴するか? Ⅰ
「なんでもいいですけど、本当に指揮を振ってくれるなら私もありがたいです」
静寂を破ったのは部長の一声であった。
「まあ、いいんじゃない?」
生徒指揮者も同調した。幹部連中の意見が一致しているため、他の部員も反発する様子は無い。
「ちょっと待って!」
絵理子は先ほどから取り乱している。良い気味だ。
「あなた達、なんなのよ! そんな簡単にこいつへ鞍替えするなんて!」
「鞍替えというか……。先生は引き続き顧問をしてくれるんじゃないんですか?」
「嫌よ!?」
「えー」
部長があまりにも棒読みなので絵理子の発狂具合が際立つ。
絵理子が指揮を振れないこと、そして演奏会の予定が無いこと。この二点から、おそらくまともな合奏練習をしていないことは容易に想像できた。ずっと個人練習をしていれば腐ってもおかしくないが、よっぽど日向の「最期の言葉」とやらが効いているのかもしれない。しかし絵理子が今やっていることはただの放置であり、飼い殺しである。そんな状態の彼らの前に、曰くつきとはいえ指揮者が現れたのだ。俺が彼らから全否定されることは無いだろうとは思っていたし、絵理子が語った俺の素性も、音楽さえできればそれでいい彼らからすれば本当に些末なことなのだ。俺も高校時代は音楽以外のことなどほとんど無関心だった。絵理子が一般人であればあるほど、俺や部員達の人となりを理解するのは難しいであろう。
しかし、いつまでも絵理子に対して優越感に浸っている場合ではない。彼女が本物の凶器を所持していることを忘れてはいけない。調子に乗って刺されたら全てが水の泡だ。
「どうしてこうなるのよ……」
深淵の底にいるような絶望的な声で絵理子が嘆く。そして、改めて一同を見渡しながら口を開いた。
「さっきこの人が言ったように、私が無能なのはみんなもわかっているでしょうけど」
そんなことは一言も口にした覚えが無いのだが。
「この男にできるのは、せいぜい練習を見ることくらいよ。何か過度に期待をしているならやめておきなさい」
たしかに現状であれば絵理子の言う通りだ。
「でも先生。このままじゃ私達、この狭い部屋の中で自己満足にもならない時間を過ごすしかないんですよ」
部長が現実的な意見を述べた。たしかに、演奏会はおろかコンクールの予定まで白紙だというのに地道に練習し続けるのは、冷静に考えなくても狂気の沙汰である。
「そんなこと言われてももう仕方無いじゃない」
とても顧問とは思えぬ冷たい口調で、絵理子は部長の気勢を削ぐ。
「どうしてですか。まだ私達の頑張りが足りないんですか」
「いや、そうじゃなくて……」
「先生、これからもう一度校長室をしゅうげ――」
「黙りなさい!」
絵理子が叫ぶと、部長の言葉はぴたりと止まった。無表情の棒読みが急停止するので、ロボットと錯覚しそうだ。
……いや、そんなことより最後の言葉が引っ掛かる。「しゅうげ」ってなんだ。俺の乏しいボキャブラリーでは、そこから完成する熟語など一つしか思い浮かばない。さらにおぞましいのは「もう一度」という言葉が挟まっていたことだ。目の前にいる集団は山賊か? 集団じゃなくて軍団なのか?
「あなた達、誰に向かってそんなに偉そうな口を利いているのかしら?」
ぼんやり考えていると、不敵に微笑んだ絵理子が感情の無い声を出した。こんな教師を野放しにしていいのか、と学校側の管理責任を問いたくなるくらいひどい言い草である。
「音楽室に引きこもって夜遅くまで練習していたあなた達に付き合わされたのは誰? 目を離した隙に占拠した多目的ホールで合奏練習していた事件を収めたこともあったわね。毎日昼休みにゲリラコンサートを開いたせいで食傷気味になった他の教員から事あるごとに嫌味を言われたのも、全員分のスコアを用意するために平日の印刷室を占領したあなた達に殺到した苦情を処理をしたのも、いったい誰だったかしら?」
指折り数えながら語った絵理子は、一拍置いて叫ぶ。
「全部私よ!」
一度ヒステリーを炸裂させた後も、彼女はねちねちと苦言を続ける。
「古くなった楽器の買い換えを要求して生徒会室の前でデモしたり、定期演奏会の集客をするために校内の掲示板をビラで埋め尽くしたり。そういえば授業を抜け出して、音楽準備室で延々と課題曲を聞いていたのは誰だったかしら?」
目の前にいる部長の肩が少し震える。自供しているも同然の彼女を無視して、絵理子はもう一度大きく息を吸い込んだ。
「そんなことばっかりしてるから後輩に逃げられるし、周りからも非難されるんでしょうが! どうしてあなた達が被害者面をしているのよ!」
今日一番の怒鳴り声に、さすがの部員達も驚きを隠せずにいる。全員「こんな絵理子先生は知らない」という顔である。
「そもそも学校側が演奏活動の自粛を決めたのは、校長へ殴り込みに行ったことが原因でしょう!? それなのにさっき、もう一度襲撃しようって言いかけなかった!?」
やっぱり「襲撃」だった。なんて血生臭い奴らだ。
「どう、恭洋?」
ぜえぜえと息を吐く絵理子は、突然俺に話を振る。
「どう、って言われても……」
「イカれているでしょう、この子達」
絵理子は笑みを浮かべているものの、もはやその目は猟奇的と言えるほど不気味であり、これまで相当ストレスを溜め込んでいるのが窺えた。絵理子の述べた事柄が全て事実だとしたら、この子達はたしかに制御不能の迷惑集団である。「悪魔」という異名が定着するのも納得だ。不可抗力的に顧問となった絵理子が、彼らに振り回され続けただろうことは想像に難くない。というか、そこまで部活に打ち込んでいたなら上達するに決まっている。
一同は未だに呆然としていた。おそらく絵理子がここまで感情を表に出したことがこれまでに無かったのかもしれない。だが、彼女は彼女で自らの不甲斐無さを痛感し、部員達を咎める資格が無いと思っていたのだろう。
そんな絵理子は、今はすっきりした顔をしておりしばらく口を開く様子は無い。原因はどうであれ生徒に八つ当たりする教師の図というのはコンプライアンス的にまずいのではないかと思ったが、俺は皆が萎縮し大人しくなっている状況を利用することにした。
「……君達みたいに本気で何かに取り組める人間は凄いと思うよ」
素直な気持ちを吐露する。
「そこまで君達を突き動かすものは、いったいなんなんだ?」
人間にとって最も難しいことの一つが、モチベーションを保ち続けることだと思う。ただ「好き」なだけでも飽きが訪れるのだ。ここにいる全員が修行のように練習を続ける裏には、よほどの目標ややり甲斐があるに違いない。
「それは……」
生徒指揮者が皆を代表して口を開けたが、すぐに黙ってしまった。
「絵理子から聞いたんだが、半年ほど前に、その……。不幸なことがあったらしいな」
もちろん日向の件だ。名前を出さずとも、皆は即座に察したようだった。久しぶりに日向の方へ視線を向けると、緊張した面持ちで皆を見つめている。
「その子のために、こんなに頑張っているのか?」
俺は先ほど絵理子が暴露した事実は聞かないふりをして、まずは彼らの努力を認めることにした。実際、演奏技術はとんでもなく高い訳で、それについて評価するのは甘やかしではない。
「当然、それもあるけど……」
生徒指揮者が歯切れ悪く答える。俺としてはもう少し部員達に質問したいところであったが、いきなり「日向が死んだ時に何を言われたのか」などとストレートに聞けるはずもない。絵理子すら知らなかった件を俺が尋ねたところで、不信感が募るだけだ。歯がゆいが、ここは生徒の反応を見ることにする。
「……私達には音楽しかありませんから」
部長が言葉を受け継いだ。そのセリフを肯定するように、一同は俯いている。
「それはなんとなく察するけど」
「勉強や運動はできないし、友達もいません」
なんてことないように部長が自白した。中身が悲しくていたたまれなくなってくる。
「みんなの前でそんな自傷行為みたいなことしなくても……」
「いいんです。だってみんなそうですから」
「は?」
「ここにいるみんな、そういう人間です」
つまり、本当に音楽しか取り柄のない人間同士が、なんの因果か寄り集まって一つの集団になったとでも言いたいのだろうか。
「秋村さん。あなたが過去にいろいろあったように、私達にも問題があるようです。それでもいいですか」
この期に及んで「あるようです」と、あくまで自分達の行動が正当だと考えている部長には若干引いてしまったが、彼女達のイカれ具合に関してはおおよそ俺の想定内だ。
「そんなこと聞かれるまでもないよ。指揮を振りたいと言った俺の意思は、その程度で無くなるものじゃない」
「そうですか」
相変わらず淡白に部長が答えた。




