第八話 第二音楽室の悪魔 Ⅲ
「確認なんですが」
唐突に部長から質問をぶつけられる。
「なんだ?」
「あなたに関する噂って事実なんですか?」
どうやら興味ゼロという訳では無かったようで少し安心した。
「実際、どういうふうに伝わっているんだよ」
もしも脚色されているようなら最初に否定しておくに越したことは無いと思い言葉を返すと、部長は面倒そうに口を開いた。
「まず、絶対音感でしたっけ。音程の高低まで正確に聞き分けられるとか……。 それから、顧問レベルの指揮。当時の顧問が歴代で唯一、演奏会の全プログラムの指揮を任せた生徒って、秋村さんのことですよね。それと……」
部長は息継ぎをして、真っ直ぐ俺を見つめる。
「あなた自身が、管楽器全てを演奏できて、ピアノも弾ける。私が知っているのはそのくらいです」
ここでもまた、俺の指揮者としての情報を話す部長に違和感を覚える。俺が起こした事件のことに触れると思ったからだ。
「……そんなの嘘に決まってんじゃん」
部長が語った俺の噂を、先ほどのトランペットの生徒が即座に全否定した。彼女はたしか生徒指揮者だと絵理子が言っていた。同じ役職に就いているからこそ、余計に信じられないのかもしれない。
「管楽器全部って、何種類あると思ってんのよ。リアリティ無さ過ぎ」
「……」
どういった形で回答すれば良いか迷っていると、当然ながら一同は懐疑的な視線を俺に向けた。
「実際演奏してみせるのが早いんだが、楽器を準備するのは手間だしなあ……」
うっかり呟くと、生徒指揮者が即座に反応する。
「え、ちょっと待って。事実なの?」
「まあ、うん」
ようやく少しはっきりしたリアクションがあったかと思うと、目の前にいる部長が自身のフルートを俺に差し出した。
「お願いします」
「……は?」
「まずは、このフルートを吹いてください」
あまりにも自然な依頼に俺の手が伸びかけて、すぐ止まる。言うまでも無いが、管楽器は基本的に口をつけて息を流し込むことで音を鳴らす仕組みだ。不審者とたいして変わらない俺が、女子高生の楽器にいきなり口をつけるなど、合法である訳が無い。
「気にしないでください。レッスンとかセミナーでもよくありますから。それよりも、あなたの噂を確かめることの方が重要です」
部長は機械的にそう言った。
たしかにクラリネットなどのリード楽器も、そのリード(楽器を発音させるためにマウスピースへ装着する板)の厚みを確かめるために講師が直接生徒の楽器を試奏することがある。当然、俺だってなんの下心も無い。
とはいえ、だ。
「そのフルートを手に取った瞬間、通報するから」
絵理子がいる目の前で、そんなことが許されるはずもない。
「先生、止めないでください。そもそもこの人を連れてきたのは先生じゃないですか」
「それは……」
痛い所を衝かれたのか絵理子は黙ってしまった。連れきた、と言われるのは絵理子にとって心外であるに決まっているので、ヒステリーが炸裂するかと思われたが自重したようである。俺に対してもそうして欲しい。
「お前が証言すればそれで済む話だろ」
みんな頭が悪いな、と思いながら絵理子に話しかけた途端、俺の内心を察したように睨まれる。
「ちっ」
生徒の前で舌打ちはやめてください。お願いですから。
「そうね。信じ難い話かもしれないけれど、さっき部長が言った噂は全て事実よ」
仕方無さそうに絵理子がそう言うと、さすがに顧問の言葉は信憑性があるようで、反論を口にする者は現れなかった。やはり腐っても顧問なんだなと思う。
「もちろん、悪名の方も事実だけどね」
憎たらしくそう付け加えた絵理子が得意気な顔をするので、俺も舌打ちをしたくなった。
「みんな、どう思う? 今日はこの人が勝手に来たから、同級生のよしみで紹介したの。さっき指揮をしに来たとか言ってたみたいだけれど、私はこんな人間が関わるべきじゃないって思ってる」
絵理子は一同の目の前で俺を貶めることで、皆の総意として俺を排斥するつもりなのだろう。
「この男はね。当時私達の部が最も重要な時期に、何もかもを放り投げて逃げ出したの。しかもそれからまともな職にも就かず、今も世捨て人みたいな生活を送っているのよ」
彼女の言葉を止める者はいない。俺も口を噤む。
「とっておきのことを教えてあげましょうか。昔から、この男に関わった人間は不幸になるの。だから、みんなも軽はずみな気持ちで接しない方がいいわ」
いよいよ勝ち誇った表情を浮かべる絵理子に対して、俺は「こいつバカだな」と思うだけであった。
「恭洋、やっぱりあなたは不要だったみたいよ。さようなら。もう関わらないでね」
部員達が無反応であることを都合良く捉えた絵理子が演説を終えた。
――ここが正念場である。
俺は一同の反応を待った。もしもこの部員達が俺の思うような性格の人間ならば、絵理子に対して声が上がるはずなのだ。
「ちょっと、いつまで指揮台にいるの? もうあなたの仕事は終わったわよ」
しかし、生徒達は相変わらず淀んだ瞳でぼうっとしている。
俺の見当違いか。それとも、もう全く心がないのか。
「……わかった。今日は急にすまなかっ――」
「あの」
俺の言葉を遮るように、一人の生徒が手を挙げた。
「ん? どうしたの?」
アルトサックスを持つ男子生徒だ。たしか副部長だったか。
「先生は、いつ指揮を振ってくれるんですか」
その発言で、室内は水を打ったように無音となった。
「いつまで個人練習とパート練習をしていればいいんですか」
「……ちゃんと考えているわよ」
「代わりに指揮を振ってくれる人がいるなら、頼めばいいんじゃないですか」
――俺は内心ほくそ笑んだ。その言葉が出るのを待っていたのだ。
「別に秋村さんの素性はどうでもいいです。今よりもまともに音楽ができるならそちらを選びます」
「え、ちょっと待って、何を言って」
「絵理子」
急に焦りだした彼女を制し、俺は反撃を開始する。
「いくら俺が最下層のクズでも、さっきお前が得意になって説明したことを隠し通すつもりなんて、もともと無いんだよ。むしろ説明の手間が省けて助かった」
俺の言葉に絵理子は目を見開いた。
「この子達は、当時の俺と同じなんだ。音楽さえできればそれでいいんだよ。お前、指揮が振れないからしばらく合奏練習してないんだろ」
「知ったような口利かないで! そもそも冬はアンサンブルコンテストがあるんだから合奏なんてしないでしょ!」
「……もう三月なんだが?」
ちなみにアンサンブルコンテストとは、だいたい三~八人のチームで演奏する重奏の大会だ。ほぼ各チーム単位での活動となるため絵理子の言う通り全体で合奏練習をする機会は減るが、県大会まで出場したとしても一月には終わる大会だ。
「というか、そもそもアンコン辞退してるじゃん……」
部員の一人から驚愕の事実が明かされる。
「なんだって?」
目眩がしてきた。
「絵理子、お前……」
いくらなんでも部が崩壊し過ぎだし、絵理子も職務を放棄していると見做されても仕方が無い。
「うるさいうるさい!」
誰がどう見ても教師とは思えない絵理子に、俺は掛ける言葉が見つからなかった。
薄暗い第二音楽室は、終着点が見えないまま混迷していくのだった。




