第八話 第二音楽室の悪魔 Ⅱ
振り返ると、まるで不法投棄された粗大ゴミでも見るかのような蔑んだ眼差しをこちらに向ける女子生徒と目が合う。高音域ロングトーンをしていたトランペットの子だ。
「痴話喧嘩なら外でやってくれない? というか絵理子先生何してんの? それ誰?」
昔と全く変わらない深緑と濃紺のタータンチェックスカートと、同じく深緑色のブレザーの制服を身に纏った初対面の女子高生に「それ」扱いされるとは思わず、俺はただの不審者のままであった。だが、絵理子は動揺もせずその子の視線を受け止める。
「騒がしくしてごめんなさい。この人は私の同級生で、吹奏楽部のOBなの」
「ふうん?」
相槌を打った彼女はそのまま第二音楽室に向かって声を掛ける。
「どうする、部長?」
言い終わると同時に扉が全開になった。やけに静かだとは感じていたが、音楽室内の全員がこちらを見ているのだから当然だ。ともすればヒステリーモードの絵理子よりよっぽどホラーである。すると、部長がつかつかとこちらに近づいてきた。嫌な予感しかしないが、こちらから声を掛けることはなんとなく憚られる。
「こんにちは。あなたも私達を潰しに来た方ですか? それは困るので消えてもらってもいいですか? さもなければ通報します」
無表情で不穏過ぎるワードをぶちまけた部長に、俺は思考が停止した。
「誤解よ」
いくら俺のことが嫌いな絵理子といえども、こればかりは味方になってくれるようだ。
「通報されるくらいの人物であることは間違い無いけれど、あなた達に危害を加えるつもりも無いわ」
まるで味方とは思えないフォローだ。さすが、交渉人を闇討ちする人質のことだけはある。いい加減にしろ。
「でも先生達、揉めていませんでした?」
「あれは学生時代からのスキンシップよ」
あんな殺伐とした風景が日常的に広がっていてたまるか。
「へえ? てっきりまた私達にちょっかいを出す人間が来たかと思いましたけど」
さっきから潰すとかちょっかいとか、この部はいったい何と戦っているのだろう。文化系の部活らしさが微塵も無い。
「ちゃんと紹介するつもりがこんなことになってしまってごめんなさい。本当にあなた達の邪魔をする気は無かったの」
「じゃあ、どういう意図なんですか?」
「……立ち話もなんだし、一旦戻りなさい」
すると絵理子は俺の手を引っ張って第二音楽室に入っていく。我ながら情けないが、ここまでなされるがままである。気がつくと指揮台の上に引っ立てられて、部員達の視線を全身に浴びていた。緊急記者会見を行う芸能人みたいだ。もちろん俺は華もオーラも無い枯れ木のような人間なので、観衆を色めき立たせるほどの魅力は皆無だ。
告別式の弔辞のような、なんとも言えぬ雰囲気が漂っている。開けっ放しになっている音楽準備室の戸の傍らでは、日向がじっと様子を窺っていた。
相変わらず窓の外には曇天が広がっており、蛍光灯が点いている割に第二音楽室は薄暗い。
改めて紹介します、と絵理子が一同を見渡した。
「こちら、我が校のOBで私の同級生の秋村恭洋さんです」
機械的な口調の絵理子のせいで余計に室内の空気が重苦しくなった。部員達と顔合わせするという大目的は達成できたが、まるで歓迎されていないことは一目瞭然である。不気味なことに、総勢十八名の部員達は全員表情が希薄で、目にも全く光りが差していない。顧問の影響だとしたら、絵理子の罪は果てしなく重い。
「こんにちは。ただ今ご紹介に預かりました、秋村と申します」
黙っている訳にもいかず、OBらしさを一ミリも感じられない挨拶をしたが、部員達からの返事は一つも無かった。絵理子も仏頂面のままである。
「で、何が目的ですか?」
余計なことには一切時間を割かないという意思の表れのように、指揮台の上の俺から最も近い場所にいる部長がいきなり用件を切り出した。
「……俺が聞きてえよ」
母校とは思えないほどアウェーな状況に嫌気が差してぼそりと呟いた瞬間、絵理子の肘が素早く動いた。
「うっ!」
指揮台に上がったせいでできた身長差により、俺の太股側面に激痛が走る。
「この人はね。当時生徒指揮者だったの」
暴力を振るっておきながら、絵理子は部員達に向かって飄々と俺の素性を明かした。「生徒指揮者」というワードで、室内の空気が若干変わったように感じる。
「――もしかして秋村って、あの……?」
部員の一人が、何かに思い当たったらしい。その呟きが周囲の生徒にも伝播していくと、皆が驚愕した顔で俺のことを見つめた。これではまるで俺が天下の大罪人のようだ。火あぶりにされるのは俺なのか。
「そう、みんなが考えている秋村さんよ」
追い討ちを掛けるように絵理子が告発した。どうやら卒業してから十年経った今でも、俺のことが語り継がれているというのは本当だったらしい。俺としても隠すつもりは無かったが、こんな一瞬で身元が割れるとも思っていなかった。これでは第一印象が最悪だ。どうせ俺の名は悪名として広まっているのだから。
恨めしげに絵理子を睨むと、この女はざまあみろとでも言わんばかりの冷笑を浮かべている。やはりこいつは最初から俺を陥れるつもりだったのだ。高校時代も陽気な奴ではなかったが、今の絵理子はただただ陰湿な女になってしまっている。
だが、ここで絵理子を糾弾しても仕方が無い。
「久しぶりに母校がどんな様子になっているか気になって来てしまいました」
ははは、と愛想笑いを浮かべると、近くに座るクラリネットの女子生徒が「ひっ」と悲鳴を上げた。慣れないことをするものではない。
「本当にあなたが、歴代最高の生徒指揮者なんですか?」
部長が疑念たっぷりに聞いてくる。おそらく、俺の人相とか、滲み出る怪しさや不気味な雰囲気のせいで、全く信用できないのだろう。俺だっていきなり温和な交流ができるなどとは思っていない。
そんなことよりも、質問の中身が問題だ。
「そっちを確認するのか?」
「……は?」
部長は、こいつは何を言っているんだという顔をしているが、おそらく俺もそういう表情を浮かべていると思う。俺はてっきり、もう一方のレッテルを貼られるものだと思っていたからだ。
「歴代最悪の部員、の秋村だよ」
俺が自嘲気味に言うと、部員達は一斉に息を呑んだ。どこからともなく「実在してたんだ……」という声が聞こえる。想像上の生き物みたいだ。
「そんな方が、いったいなんの御用でしょうか」
部長は早くも元の無表情に戻って、再び俺に尋ねてくる。他の部員も驚いた表情を浮かべたのはほんの僅かで、部長と同じく虚ろな目をしている。十年近く引きこもっていた俺が見ても、闇が深いとしか表現できない光景だ。
「単刀直入に言うと、君達を指揮するために来た」
「そうですか」
言葉を飾っても無意味だと思い目的だけ告げたのだが、返答があっさりしていて拍子抜けする。
「そうですか、って。もうちょっと何か無いのか?」
まるで構って欲しいような言い方になってしまったのがなんとなく恥ずかしい。しかし、それすら無視されたので、そもそもコミュニケーション能力が欠如している俺は精神の限界を迎えつつあった。




