第七話 明かされる窮地 Ⅱ
俺は話題を変えることにした。絵理子が未来を諦める理由は、自分自身の問題だけではないはずなのだ。
「お前、今度の三年生は個性的な奴らって言ってたけど、そんなにヤバいのか?」
絵理子は俺の問いに黙って頷いた。
「日向から聞いてないの?」
言われてみればそうだった。昨日聞き忘れたと思っていたが、今日は今日でかなり緊張していたのでそれどころではなかったのだ。日向も言われてから気がついたという顔をしている。二人揃って緊張感が無さ過ぎる。絵理子はこれ見よがしにため息を吐いた。
「まあ、日向がいなくなってからはもっとヤバいんだけどね」
そう呟く絵理子の瞳は暗く淀んでいる。
――突然、俺の心の中に言いようの無い怒りが沸き始めた。かなりの技術を有していると思われる三年生達が不良軍団とは信じ難いが、事ここに及んで絵理子が嘘を言うメリットも無い。それなりに『ヤバい』生徒なのは間違い無いのだろう。だが、俺は先ほど音源を聞いてしまった。あの音が一朝一夕で身につくものでないということは、すぐにわかった。適当に練習をしていて得られる実力ではないのだ。もしも真剣に取り組んでいる生徒達と、それをフォローする顧問が揃って学校から干されているのだとしたら、俺は許せなかった。
「お前もわかってるだろうが……。何年かに一度のチャンスを無駄にするのか?」
つい突拍子もなく言葉にしてしまったため、絵理子と日向はきょとんとしている。
「今の三年生のレベルなら、コンクールもいいところまで行けると思うんだけどな」
そういう意味か、と理解した絵理子の表情は硬い。
偉大な指導者がいたり伝統のある名門校であったりすれば、入学時には初心者だった部員でも、三年生になって全国大会へ出場することだって不可能ではない。もちろん、多大な練習量を伴うのは言うまでも無いけれど。
ただ、中学校でそれなりに練習を積んだ経験者という存在が、現在の翡翠館のような弱小校でどれほど貴重で重要な人材であるかなど、敢えて言わずとも誰だってわかるだろう。その上、ある程度の力量を持つ者が一つの学年に偏るなど天文学的確率である。さらに言えば、こんな劣悪な環境でも腐らずに練習を続けていることは奇跡としか言いようが無い。
そんな簡単なことは絵理子も気がついているに決まっているのだ。指揮は振れないかもしれないけれど、音楽センスや奏者としてのレベルが充分ある絵理子ならば、三年生達が並大抵の人材でないことくらいとうの昔に理解しているだろう。
「無理ね」
だが、絵理子は端的に俺の考えを否定した。
「無理じゃねえだろ!」
あまりにもやる気が無い絵理子の様子に、俺も苛つきを抑えきれない。
「無理なものは無理なの!」
「どうして!」
「そもそも出られないからよ!」
「――なんだって?」
こちらを睨みつける絵理子の瞳には、うっすら涙が溜まっていた。
「学校側は、もう吹奏楽部をまともな部活と思っていないのよ」
絵理子の言うことが理解できない。いや、理解したくない。
「吹奏楽部は、本当に解散を待つだけの団体ってこと。コンクールはもちろん、演奏会すらいくつ出演できるかわからない。定期演奏会も無い」
俺と日向は再び言葉を失った。絵理子の口から出てくる言葉は何もかもが衝撃的で、思考が追いつかない。
しかし、俺はどうして絵理子が全てを諦めているのか、ようやく理解した。俺の介入がどうとか言う以前に、現状でいくら努力や試行錯誤を重ねたところで徒労だからである。
売れ残った商品の素晴らしさを店員がいくら知っていても、オーナーが「廃棄しろ」と言えば、その商品が再び店頭に並ぶことは無い。廃棄係は店員自身だ。現状の吹奏楽部を「売れ残った商品」に喩えることが適切かどうかはわからないが、いずれにせよ絵理子の力でなんとかできる臨界点はとうに超えてしまっている。そんな状況に俺が現れたところで、絵理子が期待するはずもない。初出勤のバイトが「まだこの商品売れるんじゃないですか?」と適当なことを言っているようなものだ。そりゃ果物ナイフを突きつけもするだろうな、と妙に納得してしまった。しかも実際の俺はバイトどころか無職の木偶の坊なのだから、本当に救いようが無い。
掛ける言葉も見つからず生まれた静寂に、階下のトロンボーンの音色が溶け込んでくる。やはり良い音だと思うが、冷静に考えたらなんと空しいことだろうか。休暇中に一生懸命練習をしたところで、せいぜい俺のような部外者の「上手だな」という感想しか得られないのだから。
「それ、生徒達は知っているのか?」
どうせ知らされてないのだろうな、と思いつつ聞いてみる。これでは、何もわからないまま火あぶりにされたジャンヌ・ダルクと一緒だ。三年生達が「ヤバい奴」という扱いを受けていることもなんとなく似ている。魔女とまではいかないだろうが。
「知ってる」
「だよなあ……ん?」
聞き間違いだろうか。
「知っているに決まってるじゃない。現状がまともでないことなんて、当事者が一番よくわかってるんだから」
絵理子が言葉を重ねた。
「嘘だろ?」
「嘘じゃない」
絵理子が冗談を言うような女ではないことは重々承知しているが、その事実の異常さに俺は慄然とした。絶え間なく聞こえてくるトロンボーンの音に、俺の二の腕が粟立つ。その音色が美しいからこそ、より恐怖を感じるのだ。何故こんな状況でモチベーションを保てるのだろうか。いや、むしろ病的な執着と表現しても過言ではないのかもしれない。
「だからイカれてるって言ったでしょう?」
言葉を発せずに動揺している俺を見て、絵理子は冷笑しながらそう言った。
「なんでそこまで部活にこだわるんだ?」
「……それはたぶんあたしのせい」
俺の疑問に答えたのは日向である。
「死んだお前の分まで、残された奴らは最後までやりきりたいってことか?」
まあ、日向が中心人物として慕われていたことは間違い無いようだし、そういった使命感が彼らを動かしていると考えるのは自然である。
「それもそうだけど、思い当たることがあるの」
「ふうん?」
俺が相槌を打つ傍らで、絵理子も不思議そうな顔をしている。彼女すら知らないことなのだろう。
「あたしが事故に遭ったとき、居合わせた子がいるの。その子はすぐに介抱してくれたけど、あたしはたぶん死ぬんだなって思った。自分の体のことは自分が一番よくわかるって言うよね」
今さらながら、こいつって本当に死んでるんだな、と実感する。
「で、最期にわがままを言っちゃったんだよね、その子に。でも――」
日向は遠い目をしながら言葉を紡いだ。
が、そのまま窓の外を見るばかりで、続きを語ろうとしない。
「わがままって、何を言ったんだよ?」
痺れを切らした俺が問い掛けると、日向は泣きそうな顔をしながらこちらに振り向いた。
「――思い出せないの」
俺と絵理子は、あまりの拍子抜けに脱力してしまった。
「でも! そのことがあの子たちを縛ってるのは間違い無いの! だからあたしのせいなの!」
捲し立てる日向が必死過ぎて、先ほどまでの妙な緊張感は一瞬にして霧散する。
「まあいい、お前の言いたいことはわかった。どうせ『私の代わりに全国大会へ行って』とか、そういうことだろ」
「適当に纏めないで!」
日向は目くじらを立てるが、当の本人が忘れているのだから非難される謂われなど無い。それに彼女はつい数日前に目覚めたのだから、残された者達をずっと見ていた訳でも無い。残念ながら、あまり参考にならない思い出だ。
「絵理子」
俺は日向を無視し、いまだに呆けている絵理子を見つめる。
「何よ」
「さっきお前が言った通り、どうせ何もしなくたって吹奏楽部は消えちまうんだろ?」
「そうね」
返事があまりに淡白で気勢を削がれるが、俺はめげずに言葉を掛け続ける。
「何かしようにも、お前自身が事を起こせないから、全部諦めてるんだよな」
一介の教師である絵理子は、学校の方針に逆らえないのだろう。無能ではないと思うが、無力であるのは否定できない。
「それなら、やっぱり俺の出番じゃないのか?」
「は?」
絵理子は「またこいつ変なこと言い出しやがった」という失礼な視線を向けている。
「お前は何もしなくていいから、俺に任せてくれないか? どうせ遅かれ早かれ無くなるなら、最後は三年生達がやりたいことをやらせてあげるべきだろ。責任は全部俺が取る。何もかも全部俺のせいにしてくれて構わない」
適当なことを言うバイトが、そのまま暴走したことに仕立て上げればいいのだ。そういう点では、俺はバイト以上に失うものが無い。ここに来て初めて、無職であることの強みを発見した。
「簡単に言わないでよ……」
うんざりしている絵理子に、俺は畳み掛ける。
「三年生達が不憫じゃないか。それに楓花が助かるかもしれないし、日向も成仏できる可能性がある訳だろう?」
「あなた、そんな人助けが好きな性格じゃないでしょ」
そもそも人との関わりすらほとんど無い人生である。しかし、今回の件は人助けというシンプルな言葉では済まない。
「先生、お願いします」
日向が深々と頭を下げると、さすがの絵理子も観念したようにため息を吐いた。
「……そこまで言うなら、三年生に会ってみなさい。恭洋があの子達に受け入れられなかったら、それまでの話だし」
そう言いながらデスクの上にある電話の受話器を取った絵理子は、素早く番号をプッシュした。
「もしもし。突然で悪いけれど、音楽室に集合してくれる? 楽器と楽譜も持ってきて。十分ぐらいしたら私も行くから、適当に音出しでもしていて」
用件だけ話した絵理子は、そのまま受話器を置いた。
「なあ、今さらだけど、三年生達は何がどう個性的なんだ?」
参考までに尋ねてみる。
「あなたならさっきの演奏でわかったでしょう?」
「何が?」
「あの子達のレベル」
「まあ、かなり上手いとは思ったけど」
「あの子達にはそれしかないのよ」
「は?」
「音楽以外が壊滅的なの」
「音楽以外って……」
絵理子の言葉は漠然としていて、たいして有益な情報ではなかった。
「第二音楽室の悪魔」
「は?」
「あの子達の異名よ」
ヤバ過ぎるだろ。
恐れおののく俺と日向が部屋から出ると、絵理子が戸を施錠した。自分から言っておいて情けないが、もう逃げ場は無いのだと宣告されたようで鼓動が早くなった。日向も、死後に旧友の姿を見るのは初めてらしく、歩き方がぎこちない。
「お前、他の奴にも見えるのか?」
「わからない。今のところ認識できているのはあんたと先生だけ」
万が一、同級生達にも日向の存在を認識できるならば、俺のことなど視界に入らなくなるだろうという懸念があった。だが、つべこべ言っていても仕方が無い。俺達は大人しく音楽室へと向かうのだった。