第六話 不良教師のエレジー Ⅲ
「――楓花を助けたくないか?」
俺は仕方無く、まだ序盤だと言うのに切り札を使うことにした。機銃弾くらいの威力はあると思いたい。
「……楓花?」
突然出てきた旧友の名に、絵理子は困惑している。
「お前が俺を嫌うことになったあの事件から、もう十年だな」
「最初から嫌いって言ってるでしょ」
「どうやら、あれが全ての始まりだったらしい」
「は?」
「今に至るまで続く、吹奏楽部に降りかかる数々の災難は、全部俺のせいみたいなんだ」
絵理子は絶句した。
「で、この小娘が言うには、俺が現状の吹奏楽部をなんとかすることができれば、巡り巡って楓花を助けられるかもしれないんだと」
正直俺もいまだに半信半疑だし、どういう理屈でそうなるのか全く見当がつかない。バラバラ殺人を仄めかされたのと「お前のせいであたしも死んだ」という呪いの言葉に拘束されているだけと言えばそれまでである。
「意味がわからない」
「……だろうな」
絵理子の反応は、皮肉なことに昨日の俺と同じだ。誰が聞いてもそうなるだろうが。
「でも、実際こうして日向が俺達の前に現れた訳だ。本当に楓花が助かるかもしれないなら、やってみるべきじゃないか」
俺は諭すように提案した。楓花が絡めば、さすがの絵理子も無碍にはできないだろう。
――そんな俺の考えは、人工甘味料だらけの輸入品の菓子より甘いものだった。
「……まず一ついいかしら」
少しの沈黙の後、絵理子は落ち着き払った様子でそう言った。その姿に、なんだか胸騒ぎを覚える。
「たしかに私は、吹奏楽部が無くなるって言った。でも、今度の二年生だって退部をした訳じゃない。あの子達は、邪魔者がいなくなったらまた活動を始めるでしょうね」
「邪魔者って、そんな言い方しなくても良いだろ」
「は? むしろその言い方しか無いでしょうが。二年生からしてみれば、先輩には早く消えてもらいたいのよ」
いったいこの女がどこまで拗れているのか、想像するだけで胸焼けしそうだ。
「だから今の吹奏楽部が解散したところで、二年生達が新たに活動していくでしょう」
「……何が言いたい?」
「別に、わざわざあなたが救わなくたって、吹奏楽をやる部活が今後完全消滅する訳じゃないってこと」
淡々と語る絵理子の理屈を聞いて「それなら俺の出る幕はありませんね」と引き下がるほど、俺は物わかりが良くない。というか、そんなことを言ったら日向に呪殺される。反論しようと口を開いた俺に向かって、絵理子が右手を出して指を立てた。
「二つ目」
ちらりと日向の顔を見てから、絵理子が言葉を続ける。
「私は、あなたと組んでまで、楓花を蘇らせようとは思わない」
――その発言はあまりにも衝撃的で、俺と日向は呼吸すら忘れるほど愕然とした。絵理子は相変わらず能面のような顔で俺達を見つめている。
「そもそも、いくら日向が現れたからって、あなたの話は荒唐無稽過ぎる」
猜疑心しか映っていない瞳を向けられた俺は、明らかに狼狽した。
渾身の切り札の威力は、俺の想定を遙かに下回った。何が機銃だ。こんなのBB弾以下だ。絵理子の態度にはさすがの日向も唖然としている。
「先生、何を言ってるの? お姉ちゃんと、また話したくないの?」
泣きそうな声で日向が言うと、絵理子も悲しそうに目を伏せる。
「そういう訳じゃない。ただ、楓花に会わせる顔が無いだけよ」
絵理子の双眸は暗く淀んでいる。絶望の向こう側の境地にいるような表情だ。
「それに、あなたが私の前に現れたのは、復讐か何かのためじゃないの?」
生前の日向と絵理子の間に確執があったとは思えないのだが、どういう訳か絵理子も俺と同じく日向のことを悪霊の類だと思っているようだ。
「何言ってんの先生!? 冗談でも怒るよ!」
さすがに恩師をビンタするのは躊躇われたのか、日向は拳を握りしめたまま怒鳴る。
「……それじゃあお前は、ただただこの状況が収束していくのを黙って見ているだけってことか?」
埒が明かないので俺が問い掛けると、絵理子はゆっくりと顔をこちらへ向けた。その仕草が呪われた人形のように見えて、背中に冷や汗が伝う。目が死んでいるので余計にホラーである。
「そうね。さっきも言った通り、来年以降はまた落ち着くんじゃないかしら。知らないけど」
あまりにも当事者意識に欠ける絵理子の言葉に、さすがの俺もキレた。
「てめえ顧問だろうが! ふざけんな!」
語彙力の欠片も無い幼稚な売り言葉を聞いた絵理子が、ふらりと俺の元に近づいてくる。俺は瞬時に悟った。絵理子もぶちギレたのだと。これは本当に命の危機かもしれない、と思考の片隅で悠長なことを考えていると、そのまま胸ぐらを捕まれる。
「いい加減にして! もうどうしようもないの! 今さら急に現れて知ったような口を利かないでくれない? あなたも日向も、楓花まで……。どれだけ私を振り回せば気が済むのよ!」
数回体を前後に揺らされただけで、俺は船酔いでもしたかのように気分が悪くなる。
「……ん?」
揺れが収まって少し落ち着くと、俺は絵理子のセリフに違和感を覚えた。
「俺と日向はともかく、どうしてそこに楓花が出てくるんだ?」
「……あっ」
反射的に俺の体から手を離した絵理子の表情がどんどん青ざめていく。
「黙りなさい! もう本当に私のことはいいから帰って――」
その時、慌てふためく絵理子の言葉を掻き消すように、突如としてマーチが流れ始めた。
「……なんだ?」
修羅場にそぐわない陽気なメロディーが室内を巡る。音の発生箇所と思しき絵理子のデスクを見ると、日向がパソコンを操作していた。
「ちょっと、何を勝手に!」
振り返って事態を把握した絵理子が慌ててデスクに戻ったものの、日向がマウスを離さないのでどうにもできない。
「あああああ!」
発狂している絵理子を無視し、流れているマーチに耳を澄ませてみる。初めて聞く曲だが、曲想からしてコンクールの課題曲かもしれない。
……それにしても。
「見事にバラバラだな」
「うるさい!」
即座に絵理子が反応する。何故彼女がそんなに憤るのだろう。
「……ちょっと待て」
ぎゃあぎゃあ騒ぐ絵理子を手で制し、俺は集中して耳を傾ける。統率が取れていないことよりも、バンドの音色そのものに違和感があった。驚くべき事に、際立って上手い奴がちらほらいるようなのだ。ただ、明らかに音程やスピード感のズレたヘタクソな奏者もいる。こんな玉石混淆の演奏はこれまで聞いたことが無い。例えるなら、素人が高級食材とそこら辺の雑草を使って調理したごった煮のような演奏である。
「あーあ、聞かれちゃった。残念だったね、絵理子先生」
マウスの確保を続ける日向がにやにやしながら言った。絵理子は、今度は顔を真っ赤にして俯いている。
「聞かれちゃったってなんだよ」
「だって、絵理子先生の黒歴史だもん」
「黙って!」
明らかに様子のおかしい絵理子を嘲笑うようにマーチが続く。俺としても、楽曲を冒涜するレベルで訳のわからない演奏を聞き続けるのは不快だ。たいていの場合は指揮者が無能なので、俺がなんとかしたいという気持ちになるのである。
「ん?」
俺の思考に「無能」という言葉が引っ掛かった。そしてそれが何故なのかすぐに判明する。絵理子も、俺が何かを察したことに気づいたようだった。
「ね、言った通りでしょう?」
絵理子が苦々しく言葉を吐き捨てると同時に再生が止まった。
「うちの吹奏楽部の、去年のコンクールの演奏だよ」
あっさりと答えを明かした日向がようやくマウスを手放した。
「それも地区大会のね」
力なく椅子に座った絵理子が小さく呟く。
「地区大会ってことは、まさか……」
先ほどの演奏内容と目の前の絵理子の様子から導き出されるのは、OBの俺にとってかなりショッキングな事実である。
「ちっ」
驚愕している俺をちらりと見た絵理子が一度舌打ちをした。そして観念したように脱力し、俺に向かって口を開く。
「去年の翡翠館高校吹奏楽部は、創設以来初めてコンクールの地区大会を越えられなかった」
俺の想定は当たっていた。
「つまり私は、歴代で唯一、県大会にも出場できなかった顧問よ」
絵理子の告白に対して、俺は掛ける言葉も無くただただ突っ立っていた。日向も寂しそうな目をしたまま恩師を見つめるだけである。
突然生まれた重苦しい空気を取り持つのは、絵理子が座るくたびれた回転椅子の背もたれから時折上がる、弱々しい金属の悲鳴の他に何も無かった。